2018年01月02日

エマからエミリーと改名したフルベッキの娘

最終更新 2018/01/11 ver.1.05


今回のテーマは、フルベッキの次女、エマ Emma Verbeck / Emily Terry(1963-1943)なる女性。米国オランダ改革派教会宣教師フルベッキことヴァーベック(Guido Herman Fridolin Verbeck 1830.01.23 - 1898.03.10)を父に日本で生まれ、米国聖公会の宣教師となった女性です。
彼女の改名と、正確な没年について明らかにします。
また、彼女の末弟となる七男バーナード Bernard Verbeck (1881-1932) の名前の変化と逝去日についても最後で触れます。
◆   ◆   ◆


フルベッキの次女とは、どんな人だったのだろうか?
その話の前に、まずは先に生まれた長女のお話から。

長女エマ・ジャポニカ
ヴァーベック夫妻にとってのはじめての子どもは、1860年1月26日(木)に長崎で誕生し、エマ・ジャポニカ Emma Japonica と名づけられた。
この女児は、日本が鎖国を解いてからはじめて生まれたクリスチャンとされている(潜伏キリシタンをカウントしなければ)。1月29日の主日に、ヴァーベックはこの子に洗礼を授けた(改革派教会では幼児洗礼を行う)。だが赤子は2月2日(木)に短い生涯を終えてしまう。エマはいま長崎国際墓地に眠っている。[ Find a Grave : Emma Japonica Verbeck ]
*グリフィスのヴァーベック伝には、2月9日逝去と書かれていので、この子の逝去日を9日とする資料も多い。その場合の受洗日は2月5日となる。本稿で逝去日を2月2日とするのは、墓石に刻印された日付けに従った結果である。
なお、夫妻の結婚日は1859年4月18日なので、長女エマはハネムーンベビーということになる。

エマを失っておよそ1年後、ヴァーベック夫妻には長男ウィリアム Charles Henry William が1861年1月18日に誕生。

次女もエマ・ジャポニカ
1863年2月4日には再び女児が誕生した。誕生日の日付けは村瀬寿代論文掲載のヴァーベック書簡に基づくが、『クララの明治日記』(以下の引用は講談社版)1877年1月31日の記述に従えば、2月7日生まれとなる。
この次女に、ヴァーベック夫妻は長女と同じ名前をつけた。Emma Japonica Verbeck である。

エマは米国聖公会の C. M. ウィリアムズ司祭から洗礼を受け、長じて同じウィリアムズ師から堅信礼を受けた(cf. The Spirit of Missions, Vol.63, August 1898, p.374)。そんなエマがその後、両親の属する米国オランダ改革派教会ではなく、米国聖公会の宣教師となったのもうなずける。
なお、1865年11月生まれ(1900年国勢調査)の次男がチャニング・ムーア(Channing Moore)という名前なのは、もちろんチャニング・ムーア・ウィリアムズ師に由来する。[*1 国勢調査記録]

フルベッキ群像写真

有名なフルベッキ群像写真

ここにフルベッキと写る子どもはエマと言われている
(2歳年上の長男ウィリアムの可能性も?)
verbeck group photo detail.jpg

*ほかに、犬塚孝明、石黒敬章『明治の若き群像――森有礼旧蔵アルバム』平凡社 2006 にもエマを含むフルベッキ一家の写真あり。
*ネットでは「NPO法人 高峰譲吉博士研究会 寄稿(9)外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本 (その1)/石田三雄」ページ内に同じ写真あり(こちら


クララ日記に登場するエマ
エマはクララ・ホイットニー(Clara A. N. Whitney 1859-1936)の友人だった。エマより4歳年長だったクララの日記から、いくつか紹介しよう。
クララの明治日記 1878年2月22日(エマ15歳)
ヴァーベック氏一家が帰国されると聞いたので、授業が終わってから母と私は挨拶に行った。〔…〕私は先にエマのところへ行った。エマは大はしゃぎでおしゃべりをした。カリフォルニアのどこかに住む予定だそうで、一ヵ月以内に発つということだ。エマはとても面白い人なので行ってしまうのは寂しい。
――講談社版(上) p.245


しかし出発は遅れ、4月末になってもエマはクララの日記に登場する。
1878年の新聞を調べてみたところ、7月31日に San Francisco に向け出港したアメリカの蒸気船 China 号の船客リストに Dr. and Mrs. Verbeck and five children, C. W. Verbeck [sic], Miss Verbeck の名前があった [The Japan Weekly Mail, Aug 3, 1878, p.767]。このうち最後の Miss Verbeck がエマのことである。7月17日に精養軒で送別会が開かれ、岩倉具視ら政府高官も顔を出したという。[*2]

クララの明治日記 1878年9月24日(エマ15歳)
ジェニーとガシーはエマから手紙を貰った。エマはサンフランシスコが気に入っているが、女の人たちの太い腰や大きい胸に驚いている。〔…〕ヴァーベック夫人は日本が恋しくて、エマと自分自身のために日本から沢山の絹の服を注文された。新品の洋服の関税はとても高いのに、馬鹿なことだ。エマは私にも手紙をくれると約束したのに書いてくれない。
――講談社版(下) p.26


上記の日記からおよそ1年後の1879年9月13日、 Professor G. F. Verbeck はひとり San Francisco からGaelic 号で帰国した。[The Japan Mail, Sept 20, 1879, p.516]
残った家族は翌1880年の国勢調査に記録が残っている。ヴァーベック夫人と8人の子どもたち(William, Emma, Channing, Gustavus, Guide, Arthur, Nellie, Bernard)は Oakland, Alameda, California に住み、17歳の Emma は学生(at School)となっている。
*サインインすると原本画像が表示されます→ United States Census, 1880 (no.4) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:M6G2-LBD

この国勢調査からほどなく、エマを含む家族の一部は日本に戻った。1880年7月23日、横浜に到着した City of Tokio 号の旅客リストに Mrs. Verbeck and three children の記載がある [Japan Weekly Mail, July 24, 1880, p.968] 。この船旅の途中、7月13日に生後6カ月の弟 Bernard が亡くなった。亡きがらは水葬にはされず、横浜外人墓地に葬られた。


The American steamer City of Tokio reports :−Sailed from San Francisco July 3rd, at 12.30 p.m. Died, July 13th, at 2 p.m., Bernard, infant son of Maria Verbeck, aged six months, body embalmed.
[Japan Weekly Mail, July 24, 1880, p.969]


米国聖公会・女性宣教師エマ
その後の彼女は Miss Emma Verbeck として記録に出てくる。日本聖公会の教役者名簿・外人女子の部でも「Miss Verbeck, Emma T.」とある(イニシャルの「T」が謎だが)。1883年6月、20歳で米国聖公会の宣教師(築地の立教学校の英語教師)となった彼女の、宣教報告誌におけるもっとも古い言及はおそらくこれ。

Miss Emma Verbeck, the daughter of Dr. Verbeck, one of the oldest and most influential Missionaries in Japan, joined the Mission in the spring. She teaches English in St. Paul's School and singing in both boarding-schools.

− Annual Report of the Missionary Bishop of Yedo, For the year ending June 30th, 1883. / The Spirit of Missions, 1883, Vol. 48, p.585


クララにとっては、エマはまぶしい存在だっただろう。高名な父をもち、アメリカで教育を受け(大学には行っていないが)、キリスト教布教のために日本で働き出したのだから。
クララの明治日記 1883年12月11日(エマ20歳)
午後エマ・ヴァーベックが訪ねてくれて、くつろいでおしゃべりをした。とてもよい人で、私は彼女を尊敬している。
――講談社版(下) pp.236-37


1888年の Directory には American Episcopal Mission / Miss Emma Verbeck, 1, Irefunecho, Tsukiji(築地入船町一)とある。宣教師リストのトップは彼女に洗礼・堅信を授けたウィリアムズ師 Rev. C.M. Williams。1890、1894年の住所も築地居留地だった。

ここで、エマについての紹介文を3点引用しておく。記事により、細部が異なる。

★〔…〕フルベッキの盟友、聖公会のウィリアムズ、C.M.から受洗。彼女は長じて米国オークランドの高校を卒業、82(明治15)年に帰来。83年春から立教女学校で英語と音楽を教え、わずか3カ月で生徒らは長足の進歩を示し、ミス・ヴァーベックとして敬慕されたという。折から着任の林歌子に日本語を学び、教会の礼拝に奉仕。97年休暇を得て帰米したが、翌春、父の死により日本に引き返した。99年テリー、H.T.(Terry, Henry Taylor 1847-1936) と結婚、宣教師を辞した。〔…〕
――日本キリスト教歴史大事典 教文館 1988 / p.151〔筆者:海老沢有道〕


★次女のエマはその後カリフォルニア州オークランドで高校を卒業して,聖公会宣教師となり,立教女学院で音楽を教えた。1885年秋以来父と一緒に東京で住み,父の最期を看取った。彼女は1898年一度アメリカに戻るが,翌年東京大学お雇い教師のテリー教授と結婚して,長く日本に住む。長寿を全うし,1949年に亡くなった。
――村瀬寿代「フルベッキの背景―― オランダ,アメリカの調査を中心に――」〜桃山学院大学キリスト教論集第39号 2003(CiNii


★夭折した長女と同じ名前を付けられた次女のエマは、22歳になった1885 (明治18)年4月に東京女子師範学校付属高等女学校専修科に英語、音楽の教員として採用されたことが、太政官作成の公文書「官吏雑件」(国立公文書館所蔵)に記録として残されている。おそらくアメリカで教育を受けてから日本の両親のもとに帰ってきて、社会人としての第一歩を踏み出したと推定される。その後、エマは父の死の翌年(1899)、お雇い外国人教師・東京帝国大学法科大学教授のヘンリー・テリー(Henry T. Terry,1847〜1936)と結婚している。
――石田三雄「明治の群像・断片[その9] ――外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本」2012(PDF版


エマの結婚と改名
1899年7月、東京帝国大学で英米法を教えていたテリー教授が、故ヴァーベックの娘と結婚した。彼女の名は、エミリー Emily という。

1900年6月、W. E.グリフィスがヴァーベック伝を書いていたときに生存していた息子たちは William, Channing, Gustavus, Arthur, Bernard、娘は Emma と Eleanor(通称 Nellie、1874年9月23日生まれ) の2人のみ。Emily という名前の娘はいない。グリフィスは、Emma がテリー教授 Professor Terry (Henry Taylor Terry 1847-1936)と結婚したと記している。
(William Elliot Griffis, Verbeck of Japan, a Citizen of No Country : a Life Story of Foundation Work Inaugurated by Guido Fridolin Verbeck, Fleming H. Revell Co., 1900, p.297

新聞に掲載された結婚告知はこちら。築地の聖公会・聖三一教会(築地三一会堂)で挙式している。
名前が Emma ではなく、Emily となっていることに注目されたい。
なお、新郎51歳、新婦36歳の高齢カップル。ふたりの間に子どもは生まれなかった。

1899 Emma Verbeck Terry marriage.jpg

Marriage.
On Wednesday, July 12, at Trinity Church, Tsukiji, Tokyo, Miss Emily Verbeck, daughter of the late Rev. Guido F. Verbeck, to Henry T. Terry, Esq., of the Imperial University.
[Japan Weekly Mail, July 15, 1899, p.1]


ここでちょこっと、御雇外国人=テリー教授の略歴。
1847年9月19日、コネティカット州 Hartford 生まれ。1869年エール大卒、1872年コネティカット州弁護士。1876年来日、翌年まで東京開成学校(東京帝大)で教える。1877から東京帝国大学法科大学教師。1884年帰国してニューヨークで弁護士を開業。1894年(明治27年)再来日し、1912年の引退まで再び東京帝大で英米法を教授。身長5フィート9インチ、目の色はブラウン。
*こちらは1908年に描かれた彼の肖像画 [ National Portrait Gallery : Henry Taylor Terry ]

エール大学の卒業生物故録によると1899年7月12日、東京で「Emily, daughter of Rev. Guido F. Verbeck」と結婚とある。また、1909年の U.S., Consular Registration Certificates(在留届け)を見ても、「He is married to Emily Verbeck, who was born in Nagasaki, Japan」とある。彼の Passport の記録でも妻の名は一貫して Emily であり、Emma 表記となっているものはひとつもない。

◆   ◆   ◆


以上のことから、Emma エマ は宣教師辞任および結婚に合わせて、Emily エミリーと名乗るようになったとわたしは判断している。
どうして名前を変えたのか、その理由を示すものは(まだ)発見できていない。従って想像するしかないが、名前の出どころは、父の長姉エマ・マリア・エミリー Emma Maria Emily / Emma Marie Emilie ではないだろうか。1820年7月3日オランダ・ユトレヒト州の生まれ、1851年8月19日に31歳で亡くなっている(死亡記録)。ヴァーベック一家の子どもには父ギドーのきょうだいにちなんだ命名が多く、そもそも長女エマの名はこの伯母にちなんでつけられたという説がある。

わたしの見た範囲では、次女エマが自分で Japonica というミドルネームを使った形跡はない。名簿や書類において「J.」というイニシャルが書かれた例も発見できなかった。以下はまったくの推測だが、彼女は、亡き姉と同じ名前を気に入っていなかったのではなかろうか。名づけてくれた父が亡くなったこと、そして結婚を機に、伯母の名前 Emma Maria Emily から別の名前を選んだのだろう。Maria ではなく3番目の Emily なのは、母の名がマリアだったからだ。

米国のエマ/エミリー
テリー教授は上述の通り1912年に東京帝大を引退した。国勢調査で夫妻の記録があるのは、New York State Census の1915年から。
合衆国の1920年版によると、Emily Terry エミリー・テリーはニューヨークのマンハッタンで72歳の夫と二人暮らし。56歳(実際には57歳)
United States Census, 1920 (no.64)  https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MJB9-JQ8
1930年も同様である。67歳。
United States Census, 1930 (no.75) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:X42D-LZ2

夫のテリーが世を去ったのは1936年12月26日のことだった。気管支肺炎により89歳で死去。当時としてはかなりの長命である。コネチカット州 Hartford の Cedar Hill Cemetery に埋葬された。
Bulletin of Yale University, New Haven 1 December 1937, Obituary Record of Graduates of Yale University, Deceased during the Year 1936-1937
http://mssa.library.yale.edu/obituary_record/1925_1952/1936-37.pdf
墓石の画像 [ Find a Grave : Henry Taylor Terry ]


現在、父ギドー・ヴァーベックの墓は東京の青山霊園にある。その墓の手前に母マリア Maria Manion Verbeck の名が記されたプレートが置かれている。1911年4月2日、カリフォルニアの Alameda で亡くなったマリアの遺灰を日本に持って行ったのは、娘の Mrs Terry(エミリー)だったようだ。[San Francisco Call, 27 May 1911, p.14]

エマことエミリー Emily Verbeck Terry が亡くなったのは、第二次大戦中の1943年7月30日。場所は New York。
没年を1949年としている日本語文献があるが、夫と同じ墓地にある墓石がその逝去日を示している。

1943_Emily V Terry gravestone.JPG
墓石の画像→ [ Find a Grave : Emily Verbeck Terry ]


また、 Index to New York City Deaths 1862-1948 に、Emily Terry という80歳の女性が30 Jul 1943 に Bronx, New York, USA で亡くなったという記録がある。
*こちらは FamilySearch 版(原本画像がなく転写ミスが目立つが、明らかに Verbeck 夫妻の娘とわかる。ただし日本での出生日は「03 Jan 1863」になっている)→ New York, New York City Municipal Deaths, 1795-1949 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:2WPB-5R2 : 20 March 2015

すなわち、従来1949年没とされていたフルベッキの次女ミス・エマ・ヴァーベック(ミセス・エマ・テリー)は、1943年没のミセス・エミリー・テリーと同一人物であるとわたしは結論づける。

◆   ◆   ◆


末弟バーナードも名前変更
ここからは、ヴァーベック一家末子のお話。
上述したように、1880年にバーナード Bernard という名の赤子が船の上で亡くなった。その翌年、ヴァーベック夫妻最後の子どもが日本で誕生。同じく Bernard と命名される。

1900年のアメリカ国勢調査によると、未亡人となったヴァーベック夫人 Maria はカリフォルニアの Alameda で、この末子とふたりで暮らしていた。調査票にある記載によると、彼女は58歳、1841年1月アイルランド生まれ(墓石の生年は1840年。おそらくは41ではなく1840が正しい。ただし1月生まれであることがこれで判明した。なお、Philadelphia におけるギドーとの結婚時に彼女は19歳と3カ月だったことになる)。Bernard は19歳で、1881年8月、日本生まれ。ともに、移民年は1884年とある。マリアが出産した子どもは合計12名で、そのうち存命中の子は7名と記録されている。
1910年の国勢調査でも、Maria はやはり Bernard と二人暮らし。彼女は65歳となっており(女性の年齢さば読みの一例)、息子は25歳(これもさば読み。母40歳のときの子という計算なのであろう)。マリアの生んだ子どもの数は今度は11名、存命中7名となっている。
United States Census, 1900 (no.56) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:M9PM-Y9W
United States Census, 1910 (no.94) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:MV2M-1X1

*米国改革派教会提供の詳細な Verbeck 経歴、結婚の日付け含む:A Manual of the Reformed Church in America pp.269-73
*出身神学校提供、簡潔な Verbeck 経歴:General Biographical Catalogue of Auburn Theological Seminary pp.129-30

さて、この末子バーナードの消息について。石田論文では、彼の没年は不明となっている。どうして不明なのか。その理由は、姉エマと同じく、彼もまた改名――別の名前を使用していたからだということがわかった。

わたしが最初に発見したのは、彼の第一次大戦兵役登録カードだった(もっとも、1918年9月という終戦間近のもので、実際には兵役には服していない。cf.1920年の国勢調査)
United States World War I Draft Registration Cards, 1917-1918 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:KZVP-FWK
ここでは名前が James Bernard Verbeck とあり、1881年8月8日生まれの37歳。6フィート1 1/2 インチ(約187センチ)のやせ形、目はブルー、髪はブラウン。Alameda 在住の独身で、近親者は兄の Channing M. Verbeck(上述のヴァーベック次男)。サインは James B. Verbeck となっている。この書き方だと、Bernard の名が消えてしまうので、消息がつかめなくなるのも当然だった。
*なお、Japan Weekly Mail 及び The Japan Gazette の1881年8月分をチェックしてみたが、あいにく彼の出生告知はなかった。

次に、カリフォルニア、Oakland の Directory にある記載を追ってみると、

1899 Verbeck Jas B, r 1818 Jay(Chas, Miss Eleanor, Guido F Mrs と同じ)*Jas とは James の略
1900 Verbeck Jas B, r 1818 Jay(Mrs Marieと同じ)
1903 Verbeck Bernard, draftsman r 1818 Jay(Mariaと同じ)
1904 記載なし
1906 記載なし
1908 Verbeck James B, b 1818 Joy [sic](Maria wid Guido F と同じ)
1909 記載なし
1910 Verbeck Jas B, b 1818 Jay(Maria wid Guido F と同じ)
1911 記載なし
1913 Verbeck Jas B lab r 1818 Jay 職業 Laborer
1927 Verbeck J B h2209 Telegraph av
1930 Verbeck Jas B auto mech r2209 Telegraph av 職業 Auto Mechanic

というわけで、1899年、つまり父逝去の翌年からすでに James の名を使い出していたことがわかる。国勢調査での最後の Bernard 表示は、上述のように1910年。
1920年の国勢調査の名前は James B. Verbeck、39歳、日本生まれの独身で、下宿屋に暮らしている。職業はアート系のセールスマン。1884に移民、帰化済み。
最後のものとなる1930年の国勢調査でも独身、職業は今度はオートバイのメカニック。出生地は日本の築地。話語は「英語と日本語」とある。移民年は1885年(1年ずれている)。
United States Census, 1920 (no.2) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:MH37-FTW
United States Census, 1930 (no.39) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:XCXQ-BVW


*カリフォルニア州の選挙人登録名簿(State of California, United States. Great Register of Voters.)では1918年に「Verbeck, James B, 429 13th st, clerk.... Declines」という記載が見つかっている。

上記の資料で見る限り、「職を転々としていた」状態だったようだ。
亡くなったのは1932年12月9日、51歳。
*California Death Index, 1905-1939 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:QKS9-VV6F

すなわち、Bernard Verbeck として生まれた人物 = James Bernard Verbeck / James B. Verbeck 1881.08.08 - 1932.12.09 であることが明らかになった。結婚の記録は見つかっていないので、生涯独身と思われる。母 Maria と同じく死亡地は Alameda だった。

◆   ◆   ◆


*モルモンの FamilySearch で検索・閲覧できる国勢調査などの記録は、以前はリンクをクリックするだけで閲覧できたのですが、2017年後半から、サインインしていないと表示されないようになりました。いまのところ無料で利用できますので、原本画像を見たい人はサインインしてみてください。(2018/01/02)


注釈
[*1] Channing Moore Verbeck の記録
United States Census, 1880 (no.5) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:M6G2-LB6
United States Census, 1900 (no.71) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:M31X-4CM
United States Census, 1910 (no.64) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MKL7-HGX
United States Census, 1920 (no.16) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MH7P-21C
墓石 1928年10月25日没。[ Find a Grave : Channing C Verbeck ]

[*2] やはり米国聖公会宣教師となった妹 Eleanor(通称 Nellie、1874年9月23日生まれ)のパスポート申請記録によると、彼女は1878年春に日本を離れ、その年から1906年まで Alameda, California (San Franciscoのすぐ東)に居住したとある。次男 Channing の帰国も1878年となっている(1910国勢調査)。


【参考文献】
FamilySearch https://www.familysearch.org/
Ancestry.com https://www.ancestry.com/
Find A Grave https://www.findagrave.com/
An Historical Sketch of the Japan Mission of the Protestant Episcopal Church in the U.S.A., 1891, p.25
William Elliot Griffis, Verbeck of Japan, a Citizen of No Country : a Life Story of Foundation Work Inaugurated by Guido Fridolin Verbeck, Fleming H. Revell Co., 1900
『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988
村瀬寿代「フルベッキの背景―― オランダ,アメリカの調査を中心に――」〜桃山学院大学キリスト教論集第39号 2003
石田三雄「明治の群像・断片[その9] ――外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本」2012(PDF版
Lane R. Earns, A MINER IN THE DEEP AND DARK PLACES:'GUIDO VERBECK IN NAGASAKI, 1859-1869
Bios - Nagasaki Foreign Settlement : Higashiyamate Biographies / GUIDO F. VERBECK


ver1.0 2018/01/02

posted by やぎたに at 18:09 | Comment(0) | 歴史と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2017年05月31日

函館シリーズ予告編

最終更新 2017/10/18 Ver.1.06

★☆ 函館シリーズ予告 ☆★

悲しいほどに、まとまっておりません。が、予告しておけばきっとやる気が出るであろうという希望のもと、「下調べは終わっているけれどもまだ書いていませんトピックリスト」を出しておきます。多くは「外人墓地」ネタです。
なんとかこなしていけますように……

◆   ◆   ◆


●ハコダテシリーズ――カロライン・ライト夫人
メソジスト系ミッションスクールとして知られる函館の名門女子校・遺愛学院。校舎建設のために多額の献金をしたアメリカ女性の名前をとって「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」の名で創設された。
このカロライン・ライトとはいかなる女性だったのか? 3度の結婚(ライトは3度目の夫の姓)、メソジスト教会員としての働き、彼女の亡くした娘の名前、一家の消息などを明らかにする。ニューヨークに残るお墓の場所も紹介。(家系図あり)
☆若くして死んだ娘の為に云々、と、美談として伝わっているストーリーには、相当な分量の〈ふくらし粉〉が使われていたことが判明。
でもこれだけは断言できます、ライト夫人は信仰篤いりっぱな女性でした! 遠い日本に住む若い女性のため、彼女が祈り続けていたことをわたしは疑いません。


●ハコダテシリーズ――箱館から脱国した Kinzo
かの有名な新島襄の脱国は1864年。その4年も前に、同じ箱館からひそかに日本を脱出して米国オレゴン州に渡った若者がいた。彼の名は Kinzo(金蔵)、旧膳所藩士。オレゴン州ではそれなりに知られた存在ながら、日本ではほぼ無名。古資料のインターネット公開により初めて明らかになった彼の数奇な物語。(遺言確認)
☆最初オレゴンの新聞で彼の話を見つけた時は、「よくこんなデタラメを載せるもんだなあ」と思ったヤギタニ。しかし調べてみると出てくる出てくる、彼は確かに実在していたのです! 歴史のスキマに埋もれてしまった「幕末脱国日本人」、彼のほかにもいっぱいいたのでしょうねえ。

●ハコダテシリーズ――酔いどれ領事ホジソン
1859年、初代英国公使オールコックとともに箱館に上陸した英国人C・P・ホジソン。彼は箱館における初代の英国領事であり、また、はじめて箱館に足を踏み入れた「イートニアン(パブリック・スクールの名門イートン校出身者)」でもあった。そのホジソンが、1年ほどで離箱するきっかけともなった不名誉な事件とは? 彼のフランス人妻と一人娘の消息も明らかにする。
☆元箱館奉行・竹内保徳を団長とする竹内使節団(文久遣欧使節)が1862年4月30日ドーバーに着いたとき、ホジソンが帽子を振って一行を歓迎したという話を読んだときは感動しました。ホジソンは、ホジソンはね、いいやつなんです……さ、酒さえ飲まなければ!(涙)
ところで、函館に来た2番目のイートニアンは、ハワード・ヴァイス大尉だったと思います。生麦事件に、アイヌ墳墓盗掘事件。まぎれもなく、悪評ぷんぷんの人です。酔いどれホジソンといい、嗚呼これでいいのかイートニアン……
なお、初代公使オールコックのことをイートン出身と書いてある本がありますが、これは間違いです。いまは生徒の名簿が公開されているので、一時在校(中退)だけでも19世紀の人なら確認可能です。


●ハコダテシリーズ――ブラキストンの妻エミリー
あの「ブラキストン・ライン」で有名なブラキストンには、短い間、箱館でともに暮らした年上妻がいた。その名はエミリー。英国ブリストルで商人の娘として生まれ、最初の夫を亡くしてからブラキストンと結ばれた。結婚証明書と、遺言状からたどった彼女の人生、そして彼女の遺した息子(ブラキストンではなく、前夫の子)について。(遺言確認、家系図あり)
☆彼女の帰国が1865年だったことを示す資料を発見。つまり1864年にはまだ箱館にいたので、新島襄と道ですれ違っていた可能性があります(妄想まんまん)。彼女は決して「窮死」に追い込まれたわけではないことがいろいろな資料からうかがえ、ほっとしました。でもこの結婚、ブラキストン一族は認めてなかったのかもしれませんね〜〜

●ハコダテシリーズ――ポーター船長
ブラキストンと並ぶ函館の名物外国人といえば、元港長A・P・ポーター船長だろう。牧師の息子として英国に生まれ、青山霊園に眠る彼の出自について。西島照男氏と交流のあった、ニュージーランド在住の船長の子孫ウイリアム・キング氏消息も。(家系図あり)
☆ポーターとブラキストン、そしてハウル商会のアルフレッド・ハウエルは、出身階級が同じ(庶民ではない、紳士の階級)です。それでうまく付き合えたのではないでしょうか。いっぽう、ウイル船長やマーは庶民です。それはさておき、ポーターの死亡届けがどうやら英国公文書館の資料に残っているらしい! 少なくともIndexの記録を発見しました。これを取り寄せれば彼の正確な物故日が判明するかも!?

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――F・ウィルキー
とても立派な墓石(傾いていて、碑文ももうほとんど読めないが)の下に眠るドイツ系アメリカ人商人、ウィルキー。1871年没。残念ながら、見つかったのは断片的なものばかりで、来箱前のことは不明。ただ、妻と娘を英国のセンサスで発見した。その、アメリカ生まれの妻と函館生まれの娘ルイーズの消息など。
☆函館でのウィルキーは、「ブイブイいわせてた」という形容が似合う商人なんですが、遺された妻子はなぜにああなってしまったのか…… もしやガルトネル(ウィルキー死亡時の共同経営者、「函館売ります」の人)、あんたが悪いのか? そんな邪推までしてしまいます。なお、1873年に横浜で亡くなった英国人商人 John Davidson Wilkie と混同しないよう注意。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――フリーメイソンの人たち
外人墓地のいくつかの墓石に残るフリーメイソン(フリーメイスン)のマーク。本当に彼らはメンバーだったのか、メンバーだったならどのロッジに在籍していたのか? 公開された名簿を元に確認する。実際のところ、(横浜や神戸と異なり)外国人人口の少ない函館にロッジはなく、彼らはすべて別の地域で入会した人ばかり。さらに、函館で活躍した外国人のうち、隠れたメンバーも掘り起こす。
☆幕末明治期の日本でフリーメイスンの会員であることの意義として、第一に来るのは、「死んだらちゃんとお墓を建ててもらえる」ということではありますまいか。逆にいうと、函館に立派なフリーメイソン墓碑が残っているのは、世話した律儀な会員がいたからです。それはポーター船長であり、ハウル商会のハウエル、領事館のJ・J・エンスリーだったはず。ちなみにアルフレッド・ハウエルは横浜の Japan Mail 社主 W. G. Howell の弟です。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――ジェイムズ・マー
ブラキストンのパートナーとなり、函館に葬られたスコットランド人のジェイムズ・マー(マル)。彼の没年は1892ではなく、それより20年前の1872年だったことを複数の資料で確認。スコットランドに残った家族の消息も紹介。(家系図あり)
☆アバディーン大学の卒業生名簿に、死亡日とともに彼の名がありました!(ガッツポーズ! ハコダテとは書かれてなかったため、見つけるのに時間がかかった)

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――アンドルー・ジュリアン・ケース
新島襄(1864年に箱館に寄留)の日記にも登場する、赴任直後に病死したポルトガル領事ケース。彼はポルトガル人ではなく、アメリカ人商人だった。残された臨月の若妻、そして子どもたちはその後どうなったのか? 父親の死後に函館で生まれ、英領マラヤで没した遺児アンドルー(父と同名)の人生も紹介。(家系図あり)
☆ケース領事の娘の子孫が現存すると判明しました。末裔がいるというのはうれしいですね、子孫なし、もしくは一切不明という方も相当いるので。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――碑文が読めない墓石、墓石のない埋葬者
上記ケース領事の隣にたつ墓石は、石がすっかり風化して碑文は一切読めない。いったい誰が眠っているのか、今となっては知る手立ても存在しない……そう思っていたが、なんと該当者らしき記録を2点発掘! どちらもケース領事と同じ月に没していた。彼らはなぜ箱館に? その人たちの名は?
☆この墓石、故意に破壊されたものと思い込んでましたが、よく見ると自然の風化であるとわかりました。2017年6月、再度訪問したとき「その人の名」を墓石の前で叫んできましたが、その後、より可能性の高い別人の死亡記事を発見(1864年って、箱館で何人も外国人が亡くなっていたんですね)。また、彼ら以外にも次々に埋葬者の記録が出てきました。墓石が建つことなく埋葬され、忘れ去られた方々の「点鬼簿」をいつか公開したいと思います。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――2つに割れたエマの墓石
碑文の読み取れない(馬場脩氏にも解読できなかった)、小さな墓石。ヤギタニが2016年に見たときは、真っ二つに割れてしまっていた。
両親が新聞に出していた死亡告知により、墓の主が判明。墓碑の下半分に記された詩の出典もわかった。1864年(新島襄の来箱前)、生後3カ月で死んだ女児エマと、アメリカ人の両親について。(家系図あり)
☆教会のF先生が傷んだ墓石を補修してくださるようです……頭が下がります。【追記】その後修理したとお知らせいただきました。【追記終わり】
しかし、墓石のあの状況は、エマの親が尊敬されていなかったこと(函館市史にもほぼ言及がない)を表しているようで、悲しいものがあります…… 親の名前は Directory に未掲載。ただ、英文の書簡や奉行所の応接記録、割れた墓石が彼らの存在を伝えるのみです。父親とおぼしき人の写真も発見。エマの両親は帰国後ほどなく離婚、そして再婚した母親は、エマと誕生日の近い子どもを養子にしていました……(もらい泣き)


●ハコダテシリーズ [外人墓地]――ジョージ・ウォークマン
1872年に海で死んだ無名の英国人の一墓石……それは、19世紀の英国の底辺に生まれた庶民の記念碑であり、日本に灯台を設置して回った技師リチャード・ブラントンの働きとも関係があった。子孫の消息、巡回船テーボル号とブラウン船長、開拓使外科医長として函館に赴任後間もないエルドリッジ医師の話も。(家系図あり)
☆ジョージが死んだとき、ブラントンは休暇で帰英していたので同じ船には乗っていませんでした。エルドリッジ医師の日誌に残る謎の事件(精神に異常をきたした高級船員の自殺)と、ジョージの死に関わりはあるのでしょうか?! ←これは、外人墓地にまつわる最大のミステリーだとわたしは思います――『テーボル号の死』という表題でミステリ小説が書けるんじゃないかな。フリーメイソンねたもからみます。
その後、ブラウン船長の伝記にジョージのことが言及されているのを発見! あきらめずに調べてよかったと思った瞬間でした。ただし名前が誤記。別の死亡届けでも、ミススペル。いちいち不遇なジョージなのでした。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――ドイツ副領事ハーバー
1874年、旧秋田藩士に惨殺された悲運の商人ルートヴィヒ・ハーバー。函館外人墓地の埋葬者で、もっとも多くの英字新聞に取り上げられたのがこの人である。また、プロテスタント区画の埋葬者中、ユダヤ系と判明している唯一の人物。事件の報道、また、横浜外国人墓地に存在する、そっくりな墓石について。
☆あの独特のデザインの墓石は、横浜からわざわざ船で運んできたのでしょうねえ…… 日本側の誠意を示すため、特別対応があったと想像しています。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――セシリア・ディスレフセン
3歳で亡くなったディスレフセン船長の娘セシリア。墓碑には年号がなにもなかったが、さまざまな記録を総合して、没年を割り出すことができた。神戸に現存する西洋館「ディスレフセン邸」の主だった、デンマーク生まれの船長の生涯についても記す。
☆「九重丸」を操って横浜〜函館間を頻繁に往復していたD船長。おそらく函館に寄港するたび墓地に立ち寄って、娘のお墓に花を捧げていたのではないかと想像します。機会があれば、神戸に船長が建てた家(ディスレフセン邸)を見てこようと思ってます。
【追記】2017年10月に現地で見てきましたディスレフセン邸! 神戸でヤギタニの煩悩炸裂! そしてまた、地面に倒れていたセシリアの墓石を、函館のF先生が建て直してくれたと知りました。うれしいことでございます。


◆   ◆   ◆


「予告しておけばきっとやる気が」なんて思ったけれど、放置していたトピックがこんなにあるのか、と気が遠くなってます……
  はぁぁ……

ver1.0 2017/05/31

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2017年05月07日

ベルヌで話題の新島襄――牧野伸顕回顧録より

最終更新 2017/05/17 ver.1.01

今回のくりほんはごくごく軽い話題、「うわさになっていた新島君」です。

明治〜昭和前期の外交官・政治家に牧野伸顕(まきののぶあき 1861-1949)というひとがいる。吉田茂の岳父、ェ仁親王妃信子と麻生太郎の曾祖父にあたるということで知っている人もいるかもしれない。
箱館から脱国した金蔵君の情報を求めて彼の『回顧録』上巻を読んでいたら、新島襄の名前が出てきた。

1898(明治31)年にオーストリア公使兼スイス公使となった牧野。ベルヌでアメリカ公使から新島の話題をふられて驚きました、というお話。以下引用。

 この辺で私が墺太利{オーストリア}から瑞西{スイス}に行った時のことについて、少しく述べておきたい。当時墺太利駐箚{ちゅうさつ}の我が公使は瑞西国を兼任してたので、私は明治三十二年に国書捧呈のためにベルヌに赴いた。
〔…〕
瑞西では毎年外交官を招待してホテルで食事することになっていて、その献立の内容が豊富であることは、一般の質素な風習に鑑みいささか驚愕の念を抱かせるに足りた。一年一回だったためでもあろうが、或る無遠慮な外交官は笑いながら、主人側も滅多に飽食することがないからこういう機会に均霑{きんてん}するのだろうと諧謔を交えて評していた。或る時この会合の席上で米国公使と雑談中、向うより突然、新島襄を知っているか、と尋ねられた。それで知っているし、会ったこともある、と答えたところが、公使は彼と深い交わりがあり、その卓越した人物に傾倒していて新島の小伝を書いたこともあるということで、詳しくその経緯を話してくれたが、新島が海外に信仰者を持っていることを聞いて、維新後の日本を海外に紹介した一人である新島のことをこのベルヌで聞くことが出来たのを喜ぶとともに、やはり国際間の接触は個人的な交際に始まることが最も有効であるという考えが頭に浮んだことを思い出す。

 私が初めて新島に会ったのは英国より帰朝後、明治十三年の暮に京都で歓迎会があって、新島もこれに出席したのでその席上だった。この時他の出席者も皆新島を非常に尊敬していて、また私自身も新島が耶蘇信者で、京都の両本願寺の中心に入り込んで、しかも明治初期に耶蘇の学校を始め、人望を博して居ったことに感心しないではいられなかった。それから度々会うようになり、或る時彼は徴兵令の文章に不備なところがあり、そこを利用して徴兵を免れようとさせる意味で青年を迷わすから宜しくないと言って、私にそのことを大山陸軍大臣〔大山巌〕に伝えるように依頼したこともあった。

 新島は、岩倉使節が欧米に派遣された時は通訳として随行した。またベルヌで彼のことを私に話した米国公使は、確かヒルという人だったと思うが、これは慥{たし}かではない。

――牧野伸顕『回顧録』上巻 中公文庫 1977 / pp.233-35.
赤字は引用者による



大久保利通(1830-78)を父に持つ牧野は、弱冠9歳(満年齢)で岩倉使節団とともに渡米し、アメリカの学校で学んでいる。その時代やロンドン駐在時代の話もおもしろいのだが、まさかスイスで新島襄のことが話題になっていたとは。

「確かヒルという人だったと思うが」……いやいや、イニシャルは同じ「H」でもそれは違う。ヒルではなくてそれはハーディ、新島の恩人ハーディの息子アーサー・S・ハーディ Arthur Sherburne Hardy (1847-1930) のことだ。この牧野の回顧録は口述によるもので、孫の吉田健一が筆記したというが、吉田はそこまで調べがつかなかったものか。

ハーディは Life and Letters of Joseph Hardy Neesima (Boston: Houghton Mifflin, 1891) という新島伝を書いた人。この方、外交官になっていたのですね。スイスの特命全権公使(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary)としてベルヌにいた期間は1901年4月〜1903年1月(辞令は1900年12月)、牧野の任期は1906年までだったので、上記のエピソードは1901年か1902年のことだろう。

1900_Arthur_S_Hardy_Switzerland.jpg

ハーディ米国公使の赴任記録。横長なので画像を分割して引用してます
7,500とあるのは年俸。あまり高額ではない
Register of the Department of State, 1902, p.19. より



新島亡きあと10年ちょっと経って、スイスでこんな会話が交わされていたとは。いい話である。
ハーディは牧野に自著の新島伝を贈呈したのではなかろうか。

当時の牧野の写真が掲載された素晴らしいブログを発見 →「直球感想文 和館 牧野伸顕伯爵家 政治家
峰子夫人の美貌にびっくり! これほど美しい女性が外交官の妻として国外に出ていたとは。うれしくなった。

※牧野伸顕の回想録に金蔵君は登場していなかった。ふたりが会っていたかは微妙なのであるが……残念。
posted by やぎたに at 18:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2017年04月10日

新島襄脱国の背後にあった事件のこと

最終更新 2017/09/16 ver.1.14

箱館(函館)」と「新島襄」の巻、その2。新島襄の脱国を手助けした協力者たちの側には、どんな事情があったのか。今回はそれを考察いたします。

◆   ◆   ◆


周知の通り、新島襄は1864年7月に箱館から米国商船ベルリン号に乗って脱国する。
1番目の協力者は、ベルリン号のセイヴォリー船長。この船長がうんと言わなければ、新島は船に乗ることはできなかった。
そして2番目の――便宜上2番目とするが、実際にはセイヴォリーと同じくらい重要な――功労者は、新島を小舟に乗せて沖合のベルリン号まで運んでくれた、日本人の福士屋卯之吉(うのきち、のちの名を福士成豊 1838〜1922.08.26、以下「福士」とする)である。彼が危険を冒して舟を漕がなければ、新島はベルリン号にたどりつけなかった。
そして、3番目の人物として、英国人商人のA・P・ポーター(もしくはアメリカ人商人のフレッド・ウィルキー)。セイヴォリー船長と、福士〜新島をつないだ人物である。

これらの3名は、なぜ新島脱国に協力したのか。
日本人の商用・留学目的による海外渡航が可能になったのは、1866年5月21日(慶応二年四月七日)のこと。新島が箱館にやってきた時点では、日本の外に出ることはまだ禁じられていた。密出国が見つかれば死罪になる可能性がある。当然、協力した側もただではすまない。

だが、それでも協力した側には、それなりの「事情」があったのだ。それをこれから見ていこう。

◆   ◆   ◆


まず、セイヴォリー船長である。前回にも少し書いたが、船長について必ずおさえておきたいのは、彼が1862年に Mary Capen という船の船長としてすでに箱館に来ていたことだ。
この最初の来箱時に、自分の船の水夫3名が問題を起こし、牢屋につながれる事件が起こる。「箱館奉行所文書」(件名番号177/181/183/186/188/199)から判断できることは、以下の通り。
○船長は水夫を牢に残したまま出港
○残された水夫の面倒を託されたのは箱館在住のアメリカ人商人ウィルキー F. Wilkie と、英国人商人ポーター A. P. Porter。前者は同じアメリカ人、後者は元船長という点でセイヴォリーと接点があった
○同国人のしでかした不始末について、箱館奉行所との連絡を担当したのは貿易事務官 Commercial Agent のライス E. E. Rice
※ライスの肩書きはときに米国商務官とも訳される。当時はまだ正式にはアメリカの領事 Consul ではないが、領事とほぼ同等の仕事をしていた。そのため彼は領事の辞令が出る前から「領事」と書かれることもある。

在箱のウィルキー、ポーター、ライス。1862年の時点でセイヴォリー船長はこの三者と親しくなっていた(ならざるを得なかった)。別の表現でいえば、彼らに「借り」を作ったのである。また、箱館奉行所に対しても、よろしくない感情を抱いたはずだ。自分の船の乗組員を牢屋にぶちこまれて喜ぶ船長などいないだろう。
(こうした船員入牢は港町では特殊な事例ではなかった。第一に、船における過酷な労働に耐えかねて陸で脱走した水夫は、つかまると現地の牢屋に入れられた。また、それ以外の船員が乱暴狼藉――酔っ払っての地元民への暴力、仲間内の喧嘩、公道で馬を疾駆させることなど――を働いてしばしば取締りにあっていたことが、箱館奉行所文書から見てとれる)

なお、アメリカ人としては上記のライスが1番早く箱館にやって来て商活動を開始した(先手必勝とばかりに貿易事務官の肩書きをゲットした)人物で、2番目がウィルキー。ウィルキーはライス不在時に代理領事を務めたこともあり、両者はビジネスパートナーにこそならなかったが、親しい関係だったはずだ。また、ポーターは次男にウィルキーと同じ名前をつけたことからして、これまた親しかったことがうかがえる(ただし、一番親しかったのは同国人のブラキストンだろう。長女と長男にはブラキストンゆかりの名をつけている)

そして、2年後の、西暦1864年。
6月13日(元治元年5月10日)に、ベルリン号が箱館に入港した。

元治元甲子年六月十四日
富士屋宇之吉
〔福士屋卯之吉の誤記〕の斡旋に依りて、この夜九時過ぎ密かに宇之吉と共に小舟に乗じ、米利堅商船に乗り得たり。
船主royes Mon. 18th, July, 1864
米利堅船に乗り箱楯港を出帆す。但し沢辺数馬、富士屋宇之吉の周旋に依りてこの行を得たり。この二友、骨に徹し忘るべからず。且つ菅沼精一郎君も右様の友なり。
――同志社編『新島襄自伝――手記・紀行文・日記』岩波文庫 2013, p.103


次の相関図をご覧いただきたい。

1864_新島脱国_01.jpg

武田斐三郎を訪ねていって、菅沼〜沢辺〜福士とつながった
新島七五三太。わらしべ長者のようである


新島を助けることになる福士成豊は、当時ポーター商会に務めていた。この福士氏は北海道では著名な人物で、豊田有恒の長編歴史小説『北方の夢――近代日本を先駆した風雲児ブラキストン伝』(祥伝社 1999)にも「ウノ」(卯之吉の「うの」)という名前で登場する。
北海道開拓の村にある旧福士家住宅に展示されている説明によると、「福士成豊は高度な造船技術を修得するために英語を学ぶ必要にせまられた。まず、アメリカ代理領事W・R・ペーチに学び、さらにイギリス人ポーターの経営する商会の店員となり生きた英語を身につけた」旧福士(成豊)家住宅(5・実績)

ここでなぜかペーチと表記されているのは、William R. Pitts=「ピッツ」のこと(William Robert Turpin Pitts 1835.03.14-1917.01.02 / 日本語では「ペ−テ、プイツ、ピツノ、ピツツ、ヒツツ」としている資料もある。1942年の高橋一雄編『福士博士還暦祝賀記念誌――日本科学史上の先覚者福士成豊翁』では、「米国代理領事W・R・ペーヂ」となっている) 。1860〜61年11月に在箱し、ライスの不在時には米国貿易事務官代理(代理領事)を務めた。後任はフレッチャー。
この青年ピッツ君の名前はあとで何度も登場するので、おぼえておいてほしい。
福士が英国商人ポーターの商店員となったのは文久2年10月(1862年11月)というから、ピッツの離箱後である。

福士は、いかなる理由で新島の力になったのだろう? 
深夜にボートをこぎ、誰何する役人をうまくごまかして新島をベルリン号まで送り届けたのだ。生半可な覚悟でここまでの手助けはできまい。
謝礼が動機ならまだわかるが、「金に縁なき」〔函館脱出之記〕新島に金子を包む資力はなかった。
新島の熱意に打たれ、彼の夢に共鳴して一肌脱いだ……というと聞こえはいいが、脱国幇助が露見すれば親兄弟にも影響が及ぶはず。処罰を考えて、しりごみしなかったのだろうか?
わたしには福士の動機が謎だった。

1864_新島脱国_03.jpg

「函館脱出之記」(『新島襄全集5』所収)に添えられたイラスト。
左側のちょんまげ・帯刀が福士成豊、右が新島七五三太。
新島の義理の甥・公義が筆写したもので、原本が存在しないため
「どこまで原図が忠実に模写されているかは確認のすべがない」
(新島襄全集5 解題 p.533)という。


だが、「箱館奉行所文書 A 1-3/12」を見ていて、これだ! と膝を打った。
件名番号58と75番。
新島脱国の3か月ほど前のこと。1864年4月11日付で、ポーターは「上海に行く際に日本人小使を同行させたい」として奉行所に許可を申請していた。ところがこの申請は小出美濃守によって却下されていたのである。

「ホルトル上海行ノ節日本人小使召連ノ儀、不許可」
(1864年4月14日付箱館奉行から英国領事宛書簡。「ホルトル」とはポーターのこと)

――そう、この、ポーターと上海に同行しそこなった小使(=従業員)が福士だったとしたら。

だったとしたら、と書いたが、わたしは絶対に福士だったと思っている。
ポーターと福士は、海外渡航の許可を奉行所に求めて、失敗していたのだ。

実は、3年前の1861年7月(文久元年五月)ころに、無断で上海まで行ってしまった日本人がいた。

「箱館在留米国商人フレツル、其僕幸次郎を無断にて上海に連行」という事件である。「フレツル」とはフレッチャー C. A. Fletcher (Charles Arnold Fletcher d.1885) のこと(英国の領事館にいた通訳〜のち横浜領事の Lachland Fletcher d.1869 と混同しないように)。箱館奉行はこの「不法」を同国貿易事務官代理ピッツに抗議している(維新史料綱要データベース/3巻/451頁)各国書翰留を見ると、フレッチャーの使用人だった幸次郎が帰国後数か月にわたって取り調べを受けたことがわかる。最終処分は不明だが(自らの意志ではなく主人のお供で出国したのだから、死罪にはなっていないだろう)、日本人が無断で出国すれば面倒なことになることがこれで知れ渡ったはずだ。
だからこそ、ポーターは正攻法で箱館奉行に許可を申請したものと考えられる。
しかし、(当然のごとく)答えはNOであった。

そんなわけで、上海渡航の夢があえなく潰えた福士。
そこへ出現したのが、5歳若い安中藩士の新島七五三太だった。
英語を学びたい、外国に渡りたいと熱く語る青年。
身分こそ違うけれど(福士は船大工の子だった)、英語を学びたいという情熱は同じ。
手を貸してやりたい。正攻法では無理だとわかっているが、自分なら手助けできる。
行けなかった自分の代わりに羽ばたいてほしい。そう思ったのでないか。

同志社大学の【新島襄ギャラリー
帰国後、福士と一緒に撮ったお写真あり。ふたりは無事に再会したのです!
(北海道に残った福士の出世も感動的。彼のお墓は函館の
称名寺にあり、2017年6月に訪問できました♪)


◆   ◆   ◆


さて、ここからはウィルキーについて。
新島を助けた商人は米人ウィルキーだったのか、英人ポーターだったのか、このことは同志社関係者のなかにも混乱(こじつけ、ねじ曲げ)があった。もっとも、この混乱にはもう決着がついている。
新島八重子の「亡愛夫襄発病ノ覚」(『同志社談叢』Vol.10 / 1990年3月 所収)に、「〔…〕亡キ夫ノ函館ニ居リシ時ハポーター商会トテ頗ル盛ンナルモノノ由、其店ニ福士氏ハ番頭ニテアリケレバ〔…〕」と、はっきり福士の勤務先がポーター商会だったと書かれているからだ。新島は1887年の函館訪問の折、恩人・福士の雇い主だったポーターに挨拶に行っていたのである。

では、ウィルキーの名前はどこから出てきたのか。新島本人の日記類には登場しない。
登場するのは、Arthur Sherburne Hardy(1847-1930 / アメリカで新島を援助した大恩人アルフィーアス・ハーディの三男)の書いた新島襄の伝記である。

In the summer of 1864 the brig Berlin, owned by Thomas Walsh & Co., of Nagasaki, arrived at Hakodate, consigned to Frederic Wilkie, Esq., in command of William B. Savory, of Salem, Mass. Just before leaving on the return voyage to Shanghai, Captain Savory was informed by Mr. Wilkie that a young Japanese, the friend of a native clerk in his office, was anxious to escape from Japan to the United States, where he hoped to obtain an education. Reminding the captain that serious consequences were likely to follow his detection in the act of taking a native out of the country, Mr. Wilkie called the young man, then about twenty-one years of age, into his office, and Captain Savory, through the clerk, Mr. Munokite [sic], who acted as interpreter, offered him a passage to Shanghai provided he could reach the brig without assistance from those on board, and promised to do what he could towards securing his transfer to some vessel returning to the United States.

― Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Houghton, Mifflin & Co.. 1891, p.1.
赤字は引用者による。「Munokite」は「うのきち」(=福士)のこと


上の本によれば、セイヴォリーに「日本を出てアメリカで学びたいと切望する日本人がいる」と伝えたのはフレデリック・ウィルキーで、新島とセイヴォリーが最初に会ったのはこのウィルキーの家ということになっている。

ウィルキーは、函館外国人墓地「7号墓碑」の人。
そう、函館に眠っているのだ。ドイツ系アメリカ人で、1832年生まれ。当時32歳である。
しかし、「the friend of a native clerk in his office」(彼の商会にいる日本人事務員の友人)という記述から、ここでウィルキーとあるのはポーター(当時41歳)の間違いだと判断できる。

同志社の本井先生は「A・S・ハーディーは、このウィルキーの名前を新島からではなくて、直接、セイヴォリーから聞き出した、と思われる」語っているが、これはわたしも同意見である。ハーディはセイヴォリーに直接取材したからこそ、ここでウィルキーの名前が出てきたのであろう。上述のように、セイヴォリーは2年前の水夫入牢事件のときポーターとウィルキー両者の世話になっていた。だから、箱館の話をするときに、セイヴォリーが両者の名前を持ちだしていた可能性はきわめて高い。

だが、ハーディは文章を書くときに2名の商人の名前をごちゃまぜにしてしまったのではあるまいか。つまりハーディのケアレスミスにより、ポーターがウィルキーに入れ替わったというのがわたしの解釈だ。
わたしはネットにこの項目をアップしたあとで、手塚竜麿氏の小論「箱館の外商フレデリック・ジョン・ウィルキー」(『新島研究63』1983年, pp.38-40)を読んだのだが、手塚氏もこれをハーディの間違いとする説をとっていた。さすがは手塚さんである(わたくし、手塚竜麿氏をとても尊敬申し上げています)。

では、ポーターはなぜ、新島を助けようと思ったのだろう。
つい先日起こった「上海行ノ節日本人小使召連ノ儀、不許可」への腹いせプラス、2年前の「水夫入牢事件」のうっぷん晴らしというところか。奉行所をギャフンと言わせたい! という気持ちなのであろう……そんなふうに考えていたところ、また別の事件が急浮上した。

新島より前に、箱館から脱国に成功していた男がいたのである!

1860年、すなわち新島脱国の4年前、ライス、ピッツ、また別のアメリカ人商人レオナードが手助けして、金蔵 (Kinzo) という名の日本人を密出国させていたのだ。新島ヴァージョンにおける福士の役割を果たして、ボートで金蔵を沖合の船まで送っていったのはピッツであった。

この試みは成功し、金蔵は無事オレゴン州に渡った。彼がその後どうなったかは、また後日詳しく書く予定でいる。
(『オレゴンから愛』の栄蔵は金蔵と関係があったのだろうか……←ないでしょ〜〜 なお、おもしろいことに、この金蔵君はキリスト教会とは関係がない――少なくとも今のところ見つかっていないが、新島襄とアメリカでいっとき、ひじょうに近い空間にいたのだ。実際に顔を合わせていた可能性すらある、と想像をたくましくしているヤギタニです)

成功裡に終わった、アメリカ人の関係する脱国事件。これと今までにあげた事件の関係者を整理すると、以下のようになる。

1864_新島脱国_02.jpg


ポーターもウィルキーも、1860年にはすでに箱館にいた。狭い外国人社会のこと、彼らがこの話(アメリカ人にとってはおそらく「武勇伝」)を共有していたとしても不思議はない。セイヴォリーも、新島の話をもちかけられたときにきっとこの話を聞かされたはずだ。福士も当然知っていた、とまでは言わないが、福士はピッツに英語を習い、ピッツは福士から日本語を習っていた。可能性はゼロではないだろう。

ようは、「注意深く実行すれば、なんとかなる」
彼らには、それがわかっていたのだ。

1860年に成功していたアメリカ船による日本人の密出国。
1862年の水夫入牢で、奉行所にうらみを感じていた船長、セイヴォリー。
1864年に上海に行きそびれた日本人店員、福士。
上のできごとをすべて知っていた商人、ポーターもしくはウィルキー。

これらの前提があったからこそ、新島襄の脱国は成功したのだとわたしは考える。


【次回予告】次こそは(新島襄との関連は薄れたがそれでも強引に)ウィルキーか! 脱国の先駆者・金蔵の話か! 絶讃迷い中!


【資料入手先】
家系総合 [ Ancestry.com ] [ Family Search ]
新聞検索  [ NewspaperArchive (USA) ] [ GenealogyBank (USA) ]
書籍 [ Internet Archive ] [ Google Books ] [ HathiTrust Digital Library ]
北海道立文書館 [ 箱館奉行所文書 ]
東京大学史料編纂所 [ データベース ]
函館市中央図書館 [ デジタル資料館 ]

【参考文献】
運上役所編『応接書上留 文久4子年』*函館市中央図書館蔵
高橋一雄 編『福士博士還暦祝賀記念誌――日本科学史上の先覚者福士成豊翁』福士博士還暦記念会出版部 1942
新島襄全集編集委員会『新島襄全集 5 日記・紀行編』同朋舎社出版 1984
同志社編『新島襄自伝――手記・紀行文・日記』岩波文庫 2013
本井康博「新島襄とW・T・セイヴォリー船長」  *本井先生に感謝!
The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea 1865
Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Boston: Houghton Mifflin, 1891
西島照男『函館港長に何があったか――お雇い英国人の悲運』北海道新聞社 1992
太田雄三『新島襄――良心之全身ニ充満シタル丈夫』ミネルヴァ書房 2005

ver1.0 2017/04/10
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2017年02月20日

新島襄とベルリン号のセイヴォリー船長

最終更新 2017/07/07 ver.2.02


箱館(函館)」と「新島襄」。このお題でクリホンに何か書くとしたら……やはりニコライと澤辺琢磨?
もちろんそれもいいのだけれど、今回は新島の密出国を手助けした恩人「セイヴォリー船長」をメインに取り上げます。当時の文献による日付けの特定、さらに船長の行動の背後にあった事件のことや、船長にまつわる記録など、だらだら書きますがお付き合いください。 
(箱館の商人フレッド・ウィルキーについてはまた後日)

◆   ◆   ◆


元治(げんじ)元年(1864年)のこと。21歳の新島襄(にいじまじょう Joseph Hardy Neesima 1843.02.12〜1890.01.23)は当時の鎖国令をおかして箱館からアメリカ船に乗り、国外へ脱出する。
上海を経由し、およそ1年をかけて北米ボストンに到着。
篤志家の援助を受けて当地の学校に学び、洗礼を受けた新島は、1874年に帰国して京都に同志社を創設した。

日本脱国からアメリカ到着に至る過程を、新島本人は以下のように簡潔にまとめている。
あれこれ苦労した末に、私は上海行きのアメリカ船〔ベルリン号〕に乗りこんだ。上海の河口に到着ののち、ワイルド・ローヴァー号に乗り換え、約八カ月間、中国沿岸を往来した。神に守られて、四カ月航海したのち、ボストン港に着いた。



1864 neesima j.jpg


箱館の港から夜陰に乗じて脱国する新島兄(後年の再現扮装写真より)
J. D. Davis の新島伝 p.25 所収のイラストを加工
「新島先生渡来の図」写真はこちらにも


新島の人生は、そもそも元治元年六月十四日夜半(1864年7月17日深夜)に「米利堅商船ベルリヨン」への乗船がゆるされなかったら、違うものになっていただろう。
船の名は、ベルリン号 Berlin。
船長の名は――ここで新島襄の手記を引用しよう――
自分の船を失う危険をおかしてまでも、親切に中国まで連れていってくださったその船長の名前をここで決して言い忘れてはならない。その人はマサチューセッツ州セーラムの市民、ウィリアム・T・セイヴォリー船長であった(『新島襄自伝』岩波文庫 p.67)

ここに、「新島襄とW・T・セイヴォリー船長」という素晴らしい講演録がある。語り手は、同志社大学神学部・本井康博教授。
http://www.christian-center.jp/dsweek/11sp/0531_01.html

上記のページが公開されていなかったら、わたしは以下の記事を書いてはいなかった。本井先生のお話を踏まえつつ(出典表記は〔本井〕とします)、現地の公式記録で補足するような内容にできればと思う。それでは、まずヤギタニの大好きな話題・家系のことから。

◆   ◆   ◆


■ セイヴォリー船長の出自と家族

セイヴォリー船長のフルネームは、ウィリアム・トマス・セイヴォリー (William Thomas Savory)。箱館で新島と出会ったときは、あと少しで37歳になるところ。故郷のアメリカ・マサチューセッツ州セーラム Salem, Massachusetts には妻と5歳&4歳の子どもがいた。

1864 Salem Savory.jpg

The Salem Directory 1864, p.169 より


セイヴォリー一族については、「家系本」が出版されている。A. W. Savary, A Genealogical and Biographical Record of the Savery Families (Savory and Savary) and of the Severy Family, Boston: The Collins Press, 1893 がそれで、そのpp.128-29とマサチューセッツ州の公記録を組み合わせると、以下の通り。


【William Thomas Savory】
父 Richard Savory (c.1781〜1841.02.12 [Find A Grave])
母 Betsey Lewis (c.1785.12〜1861.09.03)、両親は 1803.09.11 に Salem で結婚。
父リチャードはセーラムのユニヴァーサリスト教会の創設メンバーのひとりだった。この教会とは、Salem Directory 1864 にある First Universalist Society (Formed 1805) のことだろう。また、彼の遺言は公開されているので、関心のある方はチェックしてみてください。
船長は夫妻の11番目の子ども(4男、末子)として1827.07.25に誕生 [MA出生記録]。
1855.10.30、27歳のとき Salem で結婚 [MA結婚記録]。
逝去日は1897.02.12、死因は Salem の死亡記録によると肺気腫 pulmonary emphysema、69歳。
※本ページ後半に新聞の追悼記事記載※

◆妻ローラ Laura Deland(1828.11.30〜1883.10.31 / 両親は Robert Deland & Mary Welcome) 26歳で結婚。名前の判明している子どもは、以下のふたり。
◆長女:1859.07.08生まれのローラ Laura Lewis Savory
結婚 1883.04.25 Frank Luman Wing(1850.08.28〜1924.10.06)of Brooklyn, NY / 3男4女(1900年センサスによると8人出産、7人存命)あり。こんにち「セイヴォリー船長」の子孫とされる人は、すべて彼女の子孫。逝去の記録は未発見だが埋葬日は 1949.05.16、New York の Greenwood 墓地 Lot 28283 Section 184 に眠っている(夫、長男も同じ区画) / 美しい肖像写真あり → Find a Grave)。
◆長男:1860.07.20 生まれのウィリアム William W. Savory(ミドルネームの「W.」は Welcome だろう)
 1877.05.25、16歳で逝去、死亡記録にある死因は破傷風。
*上記2名のほかに、1857.12.03 死産とおぼしき記録がある(性別不詳)。
*一家は合衆国センサス(国勢調査)では1860、1870、1880、マサチューセッツ州センサスでは1865年、ニューヨーク州では1892年に記録あり(※一部の画像後出


■ 船の動き

つぎに、セイヴォリー船長の日本近海における「船長」としての動きを、当時の新聞から見てみよう。出典は、上海で発行されていた英字紙 North China Herald [NCH] の Shipping Intelligence である。
*紙面の活字が明瞭でない部分があり、非常に検索しにくいため、完璧なリストではありません。また、リストには姓しかなく、同姓の船長がいた場合の区別ができませんが、Savory 姓は比較的めずらしいため、同一人物と仮定して話をすすめます

【Captain Savory】
1862.07.04 上海入港 Mary Capen 号(195トン) 荷主:Augustine Heard and Co.
1862.12.05 上海入港 Mary Capen 号 荷主:Dow and Co.
1863.03.01 上海入港 Maryland 号(200トン bark) 荷主:Frazer and Co.
1863.06.10 上海出港 Yang-tsze 号(547トン bark) 荷主:Frazar and Co.

ボストンの新聞 [Boston Post] によるとMary Capen 号は1862年4月下旬に当地を出港、サンフランシスコおよびホノルルを経由して上海に到着した。積み荷は材木(lumber)。1863年にはまた別の船で上海に出入りしている。

【2017/03/12 追加】この Mary Capen が1862年9月、箱館に入港していた記録を発見! 箱館奉行所文書の目次に「ケーペン船主シウリー」「メリーケーベン船」などという文字が見えるではないか。上記のスケジュールから見て、間違いなく Mary Capen 号、シウリーとは Savory のことだ。前後の内容を見ると、アメリカ人水夫3名が入牢した事件があったことがわかる(件名番号177/181/183/186/188/199)。どうもセイヴォリー船長の部下だったらしく、船長はこのときのことを「怨み」に思っていて、奉行所に一泡吹かせるために新島脱出に手を貸した、と考えると腑に落ちる。
さらに、おもしろいことに気付いた。この Mary Capen 号は、「函館に眠るエルスペスとニュートン船長のお話」の巻で触れた、エーゲ号と入港時期がまったく同一なのである。セイヴォリー船長とエーゲ号のニュートン船長は、絶対箱館で顔を合わせたに違いない!(断言)

今度は、新島を箱館から運ぶことになるベルリン号 Berlin の動きを見てみよう。
出典は上述の North China Herald、そして箱館運上所の『応接書上留 文久4子年』〔文久3年8月〜元治元年12月の外国船の入出港記録含む〕である。

【Berlin】
1863 〜North China Herald では記録発見できず〜
1864.02.02(文久3.12.25) →上海入港 / 船長:Jellessin [?] 荷主:Russell and Co.
1864.02.17(文久4.01.10) 上海出港→ / 船長:Jellessin [?] 荷主:Russell and Co.
1864.04.26(元治1.03.21) →上海入港 / 船長:Savory 荷主:Russel and Co.
1864.05.04(元治1.03.29) 上海出港→ / 船長:Savory 荷主:Russel and Co. ★長崎経由で箱館へ
1864.06.13(元治1.05.10)→箱館入港〔応接書上留 文久4年〕
1864.07.16(元治1.06.13)箱館出港〔応接書上留 文久4年〕★翌日、新島襄乗船
1864.08.03(元治1.07.02) →上海入港 / 船長:Savory 荷主:Russell and Co. ★新島襄下船
1864.08.12(元治1.07.11)上海出港→ / 船長:Savory 荷主: Russel and Co. ★こののち長崎で船長解雇
1864.09.28(元治1.08.28)→箱館入港〔応接書上留 文久4年〕★また箱館に行っている!
1864.10.14(元治1.09.14)箱館出港〔応接書上留 文久4年〕
1864.11.05(元治1.10.06) →上海入港 / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co. ★新しい船長で入港
1864.11.12(元治1.10.13) 上海出港→ / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.
1864.12.12 →上海入港 / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.
1864.12.22 上海出港→ / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.
1865.03.05 →上海入港 / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.
1865.03.21 上海出港→ / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.


船の退帆(出港)日は新島が書き残した脱国の日と1日ずれているが、運行所(税関)での手続きが前日の日付けで行われたということだろう。そして新聞の記録でわかるのは、ベルリン号の上海入港が8月3日、すなわち元治元年7月2日であったことである。新島の航海日記でただ一言、「無事」と書かれている日だ。いっぽう、『箱楯よりの略記』には「七月朔日、蒸気船を雇ひ、其船を引き上海に到る」(新島襄全集5/同朋舎出版 1984/p.73)とある。実際に新島が上陸したのは1日なのか、2日なのか、脱国の日付けと船の退帆の日付けが一致しないのと同じで、これも不確定。
ともあれ一首:

  しめたが「無事」についたから 
    なながつふつかは 上陸記念日


ベルリン号は1年の間に3名の船長に操舵されていたこともわかった。仕向港(仕向け地) Destination はすべて長崎であり、もっぱら日本(長崎〜箱館)と上海の間を往復して荷物を運ぶのが任務だったようだ。すべての航海の荷主(荷送り人) consigners [consignors] として名前が載っているラッセル商会は、当時の上海の最大手の貿易会社のひとつで、アメリカ系。

*函館市中央図書館デジタル資料館で箱館運上役所の「応接書上留」が公開されている。ただし、2017年6月現在の公開は、安政6年、万延元年、文久元年分のみ。文久2年分は資料そのものの所蔵がない。幸い、2017年6月に現地で文久4年分を閲覧できたので、この項目を増強することができました。図書館に感謝!

新島襄を乗せた船は上記のごとく8月3日に上海に入港した。そして、セイヴォリー船長は新島を同じアメリカ人のホレース・S・テイラー船長 Captain Horace S. Taylor (1829〜1869.12.11) に託し、長崎に戻る。8月11日にセイヴォリー船長は【「此(この)船、無拠(よんどころな)き事件有之、再ひ日本へ帰らねばならぬ故に」と述べた】という〔本井〕。確かに新聞の出港記録ではベルリン号は翌12日に上海を発っており、ぴったり話が合致する。ただし、「よんどころなき事件」というのは、緊急召還というより、もともとのタイトなスケジュールを指していたのではあるまいか。

【ベルリン号のとんぼ返り】 運上所の記録でわかったことだが、ベルリン号はまたすぐに箱館に戻っていた。福士はおそらく港で出迎えたことだろう。新島はどうなったのか、首尾を聞かせてくれるはずの船長は、もうセイヴォリーではなかった。それを知った福士はどんな顔をしただろう。結果オーライとはいえ、当時はかなりの衝撃を受けたのではないかと想像する。

【セイヴォリー船長が「電報(電信)」で長崎に呼ばれた可能性について】 すでに telegram は実用化されており、1864年の新聞にも電信経由の記事が見出せる。ただし、きわめて数は少ない。1865年版 China Directory に電信会社やそのエージェントが一件も掲載されていないことからみて、64年当時の中国・日本地域ではまだ一般的なものではなかったといえる。なお、1868年版になると複数の関連会社が載っている。

ベルリン号は、長崎のウォルシュ商会の所有船だった〔本井〕。そして長崎で、ウォルシュによりセイヴォリー船長は船長を解雇されてしまう。


■ ウォルシュ兄弟
ここで長崎のウォルシュ兄弟4名についてまとめておく。1865年の Directory(長崎)に掲載があるのは三男をのぞく3名である。彼らの両親はアイルランドからアメリカに移民した。

◆長男トマス Thomas Walsh 1827.08.28 ジョージア州オーガスタ生まれ〜1901.08.30 イタリアのフィレンツェで逝去、ウォルシュ商会(長崎 Walsh & Co./ 横浜 Walsh Hall & Co.)経営者。当時37歳。旅券申請書が現存(1857/1871/1889)。 74歳没。
◆次男ジョン John Greer Walsh, John G. Walsh 1829.07.27 ニューヨークのYonkers生まれ〜1897.08.16 神戸で逝去、長崎の初代アメリカ領事 (1861年の Vice-Consul としての年俸3千ドル)。当時35歳。1863年長崎で日本女性と結婚。旅券申請書が現存(1858/1870)。68歳没。墓所は神戸。
◆三男リチャード Richard James Walsh, Richard J. Walsh 1831.04.19 ニューヨーク生まれ〜1881.01.09 ミズーリ州セントルイスで逝去。当時33歳。1854年アメリカ女性と結婚。49歳没。死亡記事には経済苦によるピストル自殺だったこと、また彼も日本にいたことが記されている(1862年版 Directory に掲載あり)。
◆四男ロバート Robert George Walsh, Robert G. Walsh 1841年ニューヨーク生まれ、1886年没。ウォルシュ家4男3女の末子。当時24歳くらい。1863年来日、1871年神戸で日本女性と結婚し1女をもうけた。45歳で没。

一家については、たとえば Concord Free Public Library のページを参照。
ウォルシュ兄弟全員が長崎でセイヴォリー船長と顔を合わせた可能性があるが、長男トマスは1863/65年版 Directory で「absent」となっているので、1864年8月には日本にいなかったかもしれない……と考えていたらドンピシャ! まさに1864年、トマスは上海にいたことが判明した 。
地質学者・探検家のラファエル・パンペリー (Raphael Pumpelly 1837-1923) が、上海在トマスの紹介で、1864年の夏、弟のジョンの長崎の屋敷に滞在したと書いているのだ(Travels and Adventures of Raphael Pumpelly, 1920, p.277)。しかも同書には“Unfortunately, Japan was at this time shaken from north to south by its internal and foreign troubles...”とあり、内外諸問題ですったもんだの時期に、アメリカ領事の関係する船が日本人の密出国に関わったことがおおやけになれば、まずいことになるのは決まっている。領事のジョンがセイヴォリー船長を解雇したことに不思議はない。

※蛇足ながら、アメリカ領事といっても本国から派遣された「外交官」というわけではなく、いわゆる「商人領事」(現地でビジネスを営む商人が領事職を兼務する。領事職にともなう利権が大きかったため、しばしば商人は無給でもこの仕事を受けた)なのでそこはお間違えなく。


角度を変えて見れば、セイヴォリー船長はアメリカ国民として、思慮の足りない行動をしたのだとも論評できる(2年前のうっぷんは晴らせただろうけれども)。むろん、結果オーライ、同志社関係者からは恩人の名で呼ばれることになるとはいえ、それは遠い未来のこと。扶養家族がいるのに職を失ってしまった当座は(次の就職に必要な人物証明書を書いてもらえたとも思えない)、自分の行動を後悔したのではないか。船長がのちにアメリカで何度も新島に面会したのは、自分の行動が過ちではなかったことを確認したいという望みがあったからかもしれない。


【ベルリン号はプロイセンの船だった!】
さて、応接書上留では興味深いことがわかった。その記録に残る「ヘルレン/ベルレン」号は「孛漏生商船」とあり、つまりプロイセンの船であった! 新島が「米利堅商船」と書いていたのですっかりだまされていた(船長がアメリカ人だから、アメリカ商船と思い込んでも無理はないが)。

1865年5月のことだが、New York で建造された大砲2門・207トンの船 Berlin(ベルリン号)という船を越前藩がプロイセンから1.1万メキシコドルで購入したことが記録に残っている (1867.04.27付 North China Herald)。わが新島襄ゆかりのベルリン号ではあるまいかと思っていたが、その可能性が高まった。

ベルリン号の船種は、資料によってブリッグともスクーナーとも書かれている。1867年版 Merchant Vessels of the United States p.28 記載の Berlin がもし同船だとすると、213.86トンのスクーナー、船籍港は Dunkirk, New York。また Lloyd's Register にはやはり同名で211トンのバーク船(1849年建造、所有 Evans & Co.、船長 Williams)が掲載されている。

なお、ベルリン号の模型が群馬県安中市の新島学園に寄贈され、同学園の玄関に展示されているという(2017.02.22 上毛新聞)。ほかに、同志社大学が2014年函館市に寄贈した復元模型があるが、どこに展示されているかは不明。判明したら追記します。


■ ワイルド・ローヴァー号の動き

ついでに、上海で新島襄が移乗した、テイラー船長のワイルド・ローヴァー号 Wild Rover の記録も見ておこう。1035.60トンのシップ〔3本マストの大型横帆船〕、船籍港 Boston, Mass. [ibid, p.250]。ベルリン号より4倍以上大きなこの船において、新島は船長付のボーイとして働いた。

【Wild Rover】
1863.07.26 上海入港 / 船長:Crowell 荷主:Russell and Co.
****.**.** 上海出港 ?????
1864.01.18 上海入港 / 船長:Rogers 荷主:Augustine Heard and Co.
****.**.** 上海出港 ?????
1864.05.14 上海入港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co.
1864.06.24 上海出港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 福州 Fuchauへ
1864.08.04 上海入港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 福州 Fuchauから
1864.09.07 上海出港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 福州 Fuchauへ
1864.10.13 上海入港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 香港から
1864.11.24 上海出港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 香港へ

なんとか探せたのは上記のもののみ。荷主のオーガスティン・ハード商会はやはりアメリカ系で、当時の横浜にも支店があった(1862/63年 Directory に記載あり)。1865年の部も探したが、Wild Rover 号は見当たらず。つまり、新島襄を乗せた船は上海〜福州〜香港で積み荷を運んだあと、最終的に11.24に上海を出たと考えられる。そしてマニラを経由して、1865.7.20 ボストンに入港。箱館を出て1年余のことだった。

*新島はマニラを出た日を1865年4月1日もしくは8日とし、「四カ月の航海」と書いている(『新島襄自伝』岩波文庫 pp.69,121)。だが、この下に示した新聞記事によればマニラ出港は4月10日、ボストン入港は7月20日なので航海は101日間、3カ月と1週間と3日ということになる。


1865_07_21 Boston Wild Rover.jpg

Wild Rover のボストン入港を告げる新聞記事
Boston Post, 1865.07.21, p.3 より
テイラー船長はこの4年後に事故死する

ちなみに、上海の商船消息に登場する Taylor 船長はほかに2名いるのだが(ひとりは弟らしい)、前年の1863年8月に 長崎から入港した Caillop [? 綴り不明瞭] という280トンの船の船長も Taylorということがわかった [NCH, 1863.08.22]。荷主はベルリン号と同じ Russell and Co. である。もしこれがわがテイラー船長だったとしたら、すでに日本と日本人にある程度の親しみがあったことが推察できる。また、同じ荷主の荷物を長崎へ運んでいたセイヴォリー船長とのつながりも説明がしやすくなるように思う。

■ 船長の晩年

話をセイヴォリー船長にもどす。
ウォルシュ商会から解雇された彼は故郷にもどった(長崎からどういうルートで帰国したか、記録は未発見)。1865.08.24、ボストン港停泊中の船上にいる新島を訪問したことがわかっている〔本井〕。その数カ月前、1865.06.01に実施されたマサチューセッツ州国勢調査に船長の名前がある。この時期、彼は陸にいた(=失業していた)のだ。

1865 MA Census William T Savory.jpg
Massachusetts State Census, 1865 より
画像では切れているが、妻の兄姉3名(Deland 姓)も同居している
FamilySearch のリンク


1870年のセンサスにおいて、船長は世帯主ではなく、仕立物で生計を立てる義理姉妹(妻の姉2名)の家に居候しているようだ。1880年にも同じく義姉妹と同居、さらに下宿人もいる(この時代に使用人ではなく下宿人がいるのは、あまり生活が豊かでない証拠。本井講演で語られていた、船長の窮状がセンサスからも感じ取れる)。1883年に一人娘が結婚、その半年後には妻に先立たれてしまう。

やもめになった船長は1886年にセーラムからニューヨークのブルックリンに引っ越した〔本井〕というが、その地名でぴんときた。結婚した娘の住居がブルックリンなのだ。1889年の Brooklyn Directory を見てみると、船長の住所は 193 Quincy となっていて[Savory、ミドルネームのイニシャル G. は誤植]、娘婿の Frank L. Wing と同じである [Wing]。つまり船長は娘の家に身を寄せたのですね。1892年のセンサスでも同居が確認できる(娘夫妻、孫3名、使用人2名)。よく見るとまだ義理の姉といっしょ。困った時はお互いさま、一族郎党が同居する相互扶助の世界。婿さんが甲斐性のある男性でよかった〜〜と、ひとごとながらほっとした。(→フランク氏の素敵なお写真はこちら

ウィング家の孫娘とともに船長の名前が記載された
New York State Census, 1892 →Family Search のリンク


【おまけ】 27歳の新島襄 Joseph Neesima が掲載された1870年のセンサス
United States Census, 1870 →Family Search のリンク
検索用の文字列がすごいことになってますが、探してみてください♪



最後に、船長の追悼記事を載せておく。物故地はフロリダだが、ボストンの新聞に載ったものである。


1897 William T Savory death Boston Daily Globe.jpg
Capt William T. Savory Dead.
Boston Daily Globe, 1897.02.15, p.8
チリ、ブラジル、中国、ザンジバルなどの地名が挙がっている
まさに世界を股にかけた生涯だったようだ

新島襄は、留学時代の1871年と1874年、また2度目の渡米中の1885年にもセイヴォリー船長と会っている〔本井〕。
さらに、新島は1887年夏に函館を訪れた折、ポーター船長の家を見つけて、船長に挨拶したという〔西島, 1992, 85-87〕。また別の船長が出てくるの、ポーター船長って誰? といわれそうだが、このポーター船長、函館の歴史に関心のある人なら知らぬ者のない(たぶん)著名人物。実は、あの1864年の夜に新島をベルリン号まで小舟で連れて行ってくれたのはポーターの店の使用人・富士屋卯之吉(福士成豊 1838〜1922.08.26)であった。その縁での挨拶だったのである。
そもそも福士成豊はどうして新島に共鳴したのか? その謎解きは次回!

2015年秋に、英国系フリーメイソンの会員名簿が大量公開されて明らかになったのだが、英国出身のポーター船長 Alexander Pope Porter (1823-1891/93) は箱館に定住する以前、香港と上海でフリーメイソンの会員になっていた。そしてセイヴォリー船長もまた、会員だった。その記録を発見したとき、「それで、会員同士のポーターとセイヴォリーとのあいだで話がついたのか!?」と、大発見気分にひたったのだが、しかし、これは早とちり。セイヴォリー船長が会員になったのは、新島脱国の4年後、1868年である。従って、箱館でのことと、フリーメイソンリーは無関係でした。

マサチューセッツ州のメンバーシップカードの画像はこちら
名前も生年月日、職業も一致するがロッジ名が不詳という、謎の記録
(求職活動の一環・コネづくりのため入会したとヤギタニは推理しております)
William Thomas Savory discovered in Massachusetts, Mason Membership Cards, 1733-1990 - http://www.ancestry.com/sharing/10170689?h=573c12


ハコダテシリーズ・次回は「もうひとりの箱館の恩人? フレデリック・ウィルキー」の巻、1864年当時の箱館にいた外国人たちについて書ければいいなと思ってます。

*後日、後日と予告しながら書いてないネタが蓄積中…… 今回は、資料がたいして多くないからアップできたようなものです。ウィルキーも資料が少ないので、なんとかなるかしらん?


【資料入手先】
家系総合 [ Ancestry.com ] [ Family Search ]
新聞検索  [ NewspaperArchive ]
書籍 [ Internet Archive ] [ Google Books ] [ HathiTrust Digital Library ]
北海道立文書館 [ 箱館奉行所文書 各国書翰留 魯亜 ]

【参考文献】
運上役所編『応接書上留 文久4子年』*函館市中央図書館蔵
同志社編『新島襄書簡集』岩波文庫 1954
同志社編『新島襄自伝――手記・紀行文・日記』岩波文庫 2013
本井康博「新島襄とW・T・セイヴォリー船長」  *本井先生に感謝!
The Salem Directory 1864
The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea 1865
Merchant Vessels of the United States 1867
Lain's Brooklyn Directory 1889
Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Boston: Houghton Mifflin, 1891
A. W. Savary, A Genealogical and Biographical Record of the Savery Families (Savory and Savary) and of the Severy Family, Boston: The Collins Press, 1893
J. D. Davis, A Maker of New Japan Rev. Joseph Hardy Neesima, LL.D., President of Doshisha University, Kyoto , Felming H. Revell Co., 1894
西島照男『函館港長に何があったか――お雇い英国人の悲運』北海道新聞社 1992

*函館市中央図書館と文献読解にご協力いただいた方に心より感謝申し上げます

ver1.00 2017/02/20 ☆ ver2.00 2017/07/02

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