2017年05月31日

函館シリーズ予告編

最終更新 2017/07/23 Ver.1.04

★☆ 函館シリーズ予告 ☆★

悲しいほどに、まとまっておりません。が、予告しておけばきっとやる気が出るであろうという希望のもと、「下調べは終わっているけれどもまだ書いていませんトピックリスト」を出しておきます。多くは「外人墓地」ネタです。
なんとかこなしていけますように……

◆   ◆   ◆


●ハコダテシリーズ――カロライン・ライト夫人
メソジスト系ミッションスクールとして知られる函館の名門女子校・遺愛学院。校舎建設のために多額の献金をしたアメリカ女性の名前をとって「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」の名で創設された。
このカロライン・ライトとはいかなる女性だったのか? 3度の結婚(ライトは3度目の夫の姓)、メソジスト教会員としての働き、彼女の亡くした娘の名前、一家の消息などを明らかにする。ニューヨークに残るお墓の場所も紹介。(家系図あり)
☆若くして死んだ娘の為に云々、と、美談として伝わっているストーリーには、相当な分量の〈ふくらし粉〉が使われていたことが判明。
でもこれだけは断言できます、ライト夫人は信仰篤いりっぱな女性でした! 遠い日本に住む若い女性のため、彼女が祈り続けていたことをわたしは疑いません。


●ハコダテシリーズ――箱館から脱国した Kinzo
かの有名な新島襄の脱国は1864年。その4年も前に、同じ箱館からひそかに日本を脱出して米国オレゴン州に渡った若者がいた。彼の名は Kinzo(金蔵)、旧膳所藩士。オレゴン州ではそれなりに知られた存在ながら、日本ではほぼ無名。古資料のインターネット公開により初めて明らかになった彼の数奇な物語。(遺言確認)
☆最初オレゴンの新聞で彼の話を見つけた時は、「よくこんなデタラメを載せるもんだなあ」と思ったヤギタニ。しかし調べてみると出てくる出てくる、彼は確かに実在していたのです! 歴史のスキマに埋もれてしまった「幕末脱国日本人」、彼のほかにもいっぱいいたのでしょうねえ。

●ハコダテシリーズ――酔いどれ領事ホジソン
1859年、初代英国公使オールコックとともに箱館に上陸した英国人C・P・ホジソン。彼は箱館における初代の英国領事であり、また、はじめて箱館に足を踏み入れた「イートニアン(パブリック・スクールの名門イートン校出身者)」でもあった。そのホジソンが、1年ほどで離箱するきっかけともなった不名誉な事件とは? 彼のフランス人妻と一人娘の消息も明らかにする。
☆元箱館奉行・竹内保徳を団長とする竹内使節団(文久遣欧使節)が1862年4月30日ドーバーに着いたとき、ホジソンが帽子を振って一行を歓迎したという話を読んだときは感動しました。ホジソンは、ホジソンはね、いいやつなんです……さ、酒さえ飲まなければ!(涙)
ところで、函館に来た2番目のイートニアンは、ハワード・ヴァイス大尉だったと思います。生麦事件に、アイヌ墳墓盗掘事件。まぎれもなく、悪評ぷんぷんの人です。酔いどれホジソンといい、嗚呼これでいいのかイートニアン……
なお、初代公使オールコックのことをイートン出身と書いてある本がありますが、これは間違いです。いまは生徒の名簿が公開されているので、一時在校(中退)だけでも19世紀の人なら確認可能です。


●ハコダテシリーズ――ブラキストンの妻エミリー
あの「ブラキストン・ライン」で有名なブラキストンには、短い間、箱館でともに暮らした年上妻がいた。その名はエミリー。英国ブリストルで商人の娘として生まれ、最初の夫を亡くしてからブラキストンと結ばれた。結婚証明書と、遺言状からたどった彼女の人生、そして彼女の遺した息子(ブラキストンではなく、前夫の子)について。(遺言確認、家系図あり)
☆彼女の帰国が1865年だったことを示す資料を発見。つまり1864年にはまだ箱館にいたので、新島襄と道ですれ違っていた可能性があります(妄想まんまん)。彼女は決して「窮死」に追い込まれたわけではないことがいろいろな資料からうかがえ、ほっとしました。でもこの結婚、ブラキストン一族は認めてなかったのかもしれませんね〜〜

●ハコダテシリーズ――ポーター船長
ブラキストンと並ぶ函館の名物外国人といえば、元港長A・P・ポーター船長だろう。牧師の息子として英国に生まれ、青山霊園に眠る彼の出自について。西島照男氏と交流のあった、ニュージーランド在住の船長の子孫ウイリアム・キング氏消息も。(家系図あり)
☆ポーターとブラキストン、そしてハウル商会のアルフレッド・ハウエルは、出身階級が同じ(庶民ではない、紳士の階級)です。それでうまく付き合えたのではないでしょうか。いっぽう、ウイル船長やマーは庶民です。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――F・ウィルキー
とても立派な墓石(傾いていて、碑文ももうほとんど読めないが)の下に眠るドイツ系アメリカ人商人、ウィルキー。1871年没。残念ながら、見つかったのは断片的なものばかりで、来箱前のことは不明。ただ、妻と娘を英国のセンサスで発見した。その、アメリカ生まれの妻と函館生まれの娘ルイーズの消息など。
☆函館でのウィルキーは、「ブイブイいわせてた」という形容が似合う商人なんですが、遺された妻子はなぜにああなってしまったのか…… もしやガルトネル(ウィルキー死亡時の共同経営者、「函館売ります」の人)、あんたが悪いのか? そんな邪推までしてしまいます。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――フリーメイソンの人たち
外人墓地のいくつかの墓石に残るフリーメイソン(フリーメイスン)のマーク。本当に彼らはメンバーだったのか、メンバーだったならどのロッジに在籍していたのか? 公開された名簿を元に確認する。実際のところ、(横浜や神戸と異なり)外国人人口の少ない函館にロッジはなく、彼らはすべて別の地域で入会した人ばかり。さらに、函館で活躍した外国人のうち、隠れたメンバーも掘り起こす。
☆幕末明治期の日本でフリーメイスンの会員であることの意義として、第一に来るのは、「死んだらちゃんとお墓を建ててもらえる」ということではありますまいか。逆にいうと、函館に立派なフリーメイソン墓碑が残っているのは、世話した律儀な会員がいたからです。それはポーター船長であり、ハウル商会のハウエル、領事館のJ・J・エンスリーだったはず。ちなみにアルフレッド・ハウエルは横浜の Japan Mail 社主 W. G. Howell の弟です。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――ジェイムズ・マー
ブラキストンのパートナーとなり、函館に葬られたスコットランド人のジェイムズ・マー(マル)。彼の没年は1892ではなく、それより20年前の1872年だったことを複数の資料で確認。スコットランドに残った家族の消息も紹介。(家系図あり)
☆アバディーン大学の卒業生名簿に、死亡日とともに彼の名がありました!(ガッツポーズ! ハコダテとは書かれてなかったため、見つけるのに時間がかかった)

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――アンドルー・ジュリアン・ケース
新島襄(1864年に箱館に寄留)の日記にも登場する、赴任直後に病死したポルトガル領事ケース。彼はポルトガル人ではなく、アメリカ人商人だった。残された臨月の若妻、そして子どもたちはその後どうなったのか? 父親の死後に函館で生まれ、英領マラヤで没した遺児アンドルー(父と同名)の人生も紹介。(家系図あり)
☆ケース領事の娘の子孫が現存すると判明しました。末裔がいるというのはうれしいですね、子孫なし、もしくは一切不明という方も相当いるので。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――碑文が読めない墓石、墓石のない埋葬者
上記ケース領事の隣にたつ墓石は、石がすっかり風化して碑文は一切読めない。いったい誰が眠っているのか、今となっては知る手立ても存在しない……そう思っていたが、なんと該当者とおぼしき記録を発掘! その人は女性であった。なぜ、箱館に? その人の名は?
☆この墓石、故意に破壊されたものと思い込んでましたが、よく見ると自然の風化であるとわかりました。2017年6月、再度訪問したとき「その人の名」を墓石の前で叫んできましたが、その後、次々に埋葬者の記録が出現。墓石が建つことなく埋葬だけされた人びとの「点鬼簿」をいつか公開したいと思います。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――2つに割れたエマの墓石
碑文の読み取れない(馬場脩氏にも解読できなかった)、小さな墓石。ヤギタニが2016年に見たときは、真っ二つに割れてしまっていた。
両親が新聞に出していた死亡告知により、墓の主が判明。1864年(新島襄の来箱前)、生後3カ月で死んだ女児エマと、アメリカ人の両親について。(家系図あり)
☆教会のF先生が傷んだ墓石を補修してくださるようです……頭が下がります。
しかし、墓石のあの状況は、エマの親が尊敬されていなかったこと(函館市史にもほぼ言及がない)を表しているようで、悲しいものがあります…… 親の名前は Directory に未掲載。ただ、英文の書簡や奉行所の応接記録、割れた墓石が彼らの存在を伝えるのみです。父親とおぼしき人の写真も発見。エマの両親は帰国後ほどなく離婚、そして再婚した母親は、エマと誕生日の近い子どもを養子にしていました……(もらい泣き)


●ハコダテシリーズ [外人墓地]――ジョージ・ウォークマン
1872年に海で死んだ無名の英国人の一墓石……それは、19世紀の英国の底辺に生まれた庶民の記念碑であり、日本に灯台を設置して回った技師リチャード・ブラントンの働きとも関係があった。子孫の消息、巡回船テーボル号とブラウン船長、開拓使外科医長として函館に赴任後間もないエルドリッジ医師の話も。(家系図あり)
☆ジョージが死んだとき、ブラントンは休暇で帰英していたので同じ船には乗っていませんでした。エルドリッジ医師の日誌に残る謎の事件(精神に異常をきたした高級船員の自殺)と、ジョージの死に関わりはあるのでしょうか?! ←これは、外人墓地にまつわる最大のミステリーだとわたしは思います――『テーボル号の死』という表題でミステリ小説が書けるんじゃないかな。フリーメイソンねたもからみます。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――ドイツ副領事ハーバー
1874年、旧秋田藩士に惨殺された悲運の商人ルートヴィヒ・ハーバー。函館外人墓地の埋葬者で、もっとも多くの英字新聞に取り上げられたのがこの人である。また、プロテスタント区画の埋葬者中、ユダヤ系と判明している唯一の人物。事件の報道、また、横浜外国人墓地に存在する、そっくりな墓石について。
☆あの独特のデザインの墓石は、横浜からわざわざ船で運んできたのでしょうねえ…… 日本側の誠意を示すため、特別対応があったと想像します。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――セシリア・ディスレフセン
3歳で亡くなったディスレフセン船長の娘セシリア。墓碑には没年がなかったが、さまざまな記録によりそれを割り出すことができた。神戸に現存する西洋館「ディスレフセン邸」の主だった、デンマーク生まれの船長の生涯についても記す。
☆「九重丸」を操って横浜〜函館間を頻繁に往復していたD船長。おそらく函館に寄港するたび墓地に立ち寄って、娘のお墓に花を捧げていたのではないかと想像します。

◆   ◆   ◆


「予告しておけばきっとやる気が」なんて思ったけれど、放置していたトピックがこんなにあるのか、と気が遠くなってます……
  はぁぁ……

ver1.0 2017/05/31

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2017年05月07日

ベルヌで話題の新島襄――牧野伸顕回顧録より

最終更新 2017/05/17 ver.1.01

今回のくりほんはごくごく軽い話題、「うわさになっていた新島君」です。

明治〜昭和前期の外交官・政治家に牧野伸顕(まきののぶあき 1861-1949)というひとがいる。吉田茂の岳父、ェ仁親王妃信子と麻生太郎の曾祖父にあたるということで知っている人もいるかもしれない。
箱館から脱国した金蔵君の情報を求めて彼の『回顧録』上巻を読んでいたら、新島襄の名前が出てきた。

1898(明治31)年にオーストリア公使兼スイス公使となった牧野。ベルヌでアメリカ公使から新島の話題をふられて驚きました、というお話。以下引用。

 この辺で私が墺太利{オーストリア}から瑞西{スイス}に行った時のことについて、少しく述べておきたい。当時墺太利駐箚{ちゅうさつ}の我が公使は瑞西国を兼任してたので、私は明治三十二年に国書捧呈のためにベルヌに赴いた。
〔…〕
瑞西では毎年外交官を招待してホテルで食事することになっていて、その献立の内容が豊富であることは、一般の質素な風習に鑑みいささか驚愕の念を抱かせるに足りた。一年一回だったためでもあろうが、或る無遠慮な外交官は笑いながら、主人側も滅多に飽食することがないからこういう機会に均霑{きんてん}するのだろうと諧謔を交えて評していた。或る時この会合の席上で米国公使と雑談中、向うより突然、新島襄を知っているか、と尋ねられた。それで知っているし、会ったこともある、と答えたところが、公使は彼と深い交わりがあり、その卓越した人物に傾倒していて新島の小伝を書いたこともあるということで、詳しくその経緯を話してくれたが、新島が海外に信仰者を持っていることを聞いて、維新後の日本を海外に紹介した一人である新島のことをこのベルヌで聞くことが出来たのを喜ぶとともに、やはり国際間の接触は個人的な交際に始まることが最も有効であるという考えが頭に浮んだことを思い出す。

 私が初めて新島に会ったのは英国より帰朝後、明治十三年の暮に京都で歓迎会があって、新島もこれに出席したのでその席上だった。この時他の出席者も皆新島を非常に尊敬していて、また私自身も新島が耶蘇信者で、京都の両本願寺の中心に入り込んで、しかも明治初期に耶蘇の学校を始め、人望を博して居ったことに感心しないではいられなかった。それから度々会うようになり、或る時彼は徴兵令の文章に不備なところがあり、そこを利用して徴兵を免れようとさせる意味で青年を迷わすから宜しくないと言って、私にそのことを大山陸軍大臣〔大山巌〕に伝えるように依頼したこともあった。

 新島は、岩倉使節が欧米に派遣された時は通訳として随行した。またベルヌで彼のことを私に話した米国公使は、確かヒルという人だったと思うが、これは慥{たし}かではない。

――牧野伸顕『回顧録』上巻 中公文庫 1977 / pp.233-35.
赤字は引用者による



大久保利通(1830-78)を父に持つ牧野は、弱冠9歳(満年齢)で岩倉使節団とともに渡米し、アメリカの学校で学んでいる。その時代やロンドン駐在時代の話もおもしろいのだが、まさかスイスで新島襄のことが話題になっていたとは。

「確かヒルという人だったと思うが」……いやいや、イニシャルは同じ「H」でもそれは違う。ヒルではなくてそれはハーディ、新島の恩人ハーディの息子アーサー・S・ハーディ Arthur Sherburne Hardy (1847-1930) のことだ。この牧野の回顧録は口述によるもので、孫の吉田健一が筆記したというが、吉田はそこまで調べがつかなかったものか。

ハーディは Life and Letters of Joseph Hardy Neesima (Boston: Houghton Mifflin, 1891) という新島伝を書いた人。この方、外交官になっていたのですね。スイスの特命全権公使(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary)としてベルヌにいた期間は1901年4月〜1903年1月(辞令は1900年12月)、牧野の任期は1906年までだったので、上記のエピソードは1901年か1902年のことだろう。

1900_Arthur_S_Hardy_Switzerland.jpg

ハーディ米国公使の赴任記録。横長なので画像を分割して引用してます
7,500とあるのは年俸。あまり高額ではない
Register of the Department of State, 1902, p.19. より



新島亡きあと10年ちょっと経って、スイスでこんな会話が交わされていたとは。いい話である。
ハーディは牧野に自著の新島伝を贈呈したのではなかろうか。

当時の牧野の写真が掲載された素晴らしいブログを発見 →「直球感想文 和館 牧野伸顕伯爵家 政治家
峰子夫人の美貌にびっくり! これほど美しい女性が外交官の妻として国外に出ていたとは。うれしくなった。

※牧野伸顕の回想録に金蔵君は登場していなかった。ふたりが会っていたかは微妙なのであるが……残念。
posted by やぎたに at 18:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2017年04月10日

新島襄脱国の背後にあった事件のこと

最終更新 2017/07/07 ver.1.12

箱館(函館)」と「新島襄」の巻、その2。新島襄の脱国を手助けした協力者たちの側には、どんな事情があったのか。今回はそれを考察いたします。

◆   ◆   ◆


周知の通り、新島襄は1864年7月に箱館から米国商船ベルリン号に乗って脱国する。
1番目の協力者は、ベルリン号のセイヴォリー船長。この船長がうんと言わなければ、新島は船に乗ることはできなかった。
そして2番目の――便宜上2番目とするが、実際にはセイヴォリーと同じくらい重要な――功労者は、新島を小舟に乗せて沖合のベルリン号まで運んでくれた、日本人の富士屋卯之吉(うのきち、のちの名を福士成豊 1838〜1922.08.26、以下「福士」とする)である。彼が危険を冒して舟を漕がなければ、新島はベルリン号にたどりつけなかった。
そして、3番目の人物として、英国人商人のA・P・ポーター(もしくはアメリカ人商人のフレッド・ウィルキー)。セイヴォリー船長と、福士〜新島をつないだ人物である。

これらの3名は、なぜ新島脱国に協力したのか。
日本人の商用・留学目的による海外渡航が可能になったのは、1866年5月21日(慶応二年四月七日)のこと。新島が箱館にやってきた時点では、日本の外に出ることはまだ禁じられていた。密出国が見つかれば死罪になる可能性がある。当然、協力した側もただではすまない。

だが、それでも協力した側には、それなりの「事情」があったのだ。それをこれから見ていこう。

◆   ◆   ◆


まず、セイヴォリー船長である。前回にも少し書いたが、船長について必ずおさえておきたいのは、彼が1862年に Mary Capen という船の船長としてすでに箱館に来ていたことだ。
この最初の来箱時に、自分の船の水夫3名が問題を起こし、牢屋につながれる事件が起こる。「箱館奉行所文書」(件名番号177/181/183/186/188/199)から判断できることは、以下の通り。
○船長は水夫を牢に残したまま出港
○残された水夫の面倒を託されたのは箱館在住のアメリカ人商人ウィルキー F. Wilkie と、英国人商人ポーター A. P. Porter。前者は同じアメリカ人、後者は元船長という点でセイヴォリーと接点があった
○同国人のしでかした不始末について、箱館奉行所との連絡を担当したのは貿易事務官 Commercial Agent のライス E. E. Rice
※ライスの肩書きはときに米国商務官とも訳される。当時はまだ正式にはアメリカの領事 Consul ではないが、領事とほぼ同等の仕事をしていた。そのため彼は領事の辞令が出る前から「領事」と書かれることもある。

在箱のウィルキー、ポーター、ライス。1862年の時点でセイヴォリー船長はこの三者と親しくなっていた(ならざるを得なかった)。別の表現でいえば、彼らに「借り」を作ったのである。また、箱館奉行所に対しても、よろしくない感情を抱いたはずだ。自分の船の乗組員を牢屋にぶちこまれて喜ぶ船長などいないだろう。
(こうした船員入牢は港町では特殊な事例ではなく、乱暴狼藉――酔っ払っての地元民への暴力、喧嘩、馬を疾駆させることなど――を働く水夫や外国人がしばしば取締りにあっていたことが、箱館奉行所文書から見てとれる)

なお、アメリカ人としては上記のライスが1番早く箱館にやって来て商活動を開始した(先手必勝とばかりに貿易事務官の肩書きをゲットした)人物で、2番目がウィルキー。ウィルキーはライス不在時に代理領事を務めたこともあり、両者はビジネスパートナーにこそならなかったが、親しい関係だったはずだ。また、ポーターは次男にウィルキーと同じ名前をつけたことからして、これまた親しかったことがうかがえる(ただし、一番親しかったのは同国人のブラキストンだろう。長女と長男にはブラキストンゆかりの名をつけている)

そして、2年後の、西暦1864年。
6月13日(元治元年5月10日)に、ベルリン号が箱館に入港した。

元治元甲子年六月十四日
富士屋宇之吉の斡旋に依りて、この夜九時過ぎ密かに宇之吉と共に小舟に乗じ、米利堅商船に乗り得たり。
船主royes Mon. 18th, July, 1864
米利堅船に乗り箱楯港を出帆す。但し沢辺数馬、富士屋宇之吉の周旋に依りてこの行を得たり。この二友、骨に徹し忘るべからず。且つ菅沼精一郎君も右様の友なり。
――同志社編『新島襄自伝――手記・紀行文・日記』岩波文庫 2013, p.103


次の相関図をご覧いただきたい。

1864_新島脱国_01.jpg

武田斐三郎を訪ねていって、菅沼〜沢辺〜福士とつながった
新島七五三太。わらしべ長者のようである


新島を助けることになる福士成豊は、当時ポーター商会に務めていた。この福士氏は北海道では著名な人物で、豊田有恒の長編歴史小説『北方の夢――近代日本を先駆した風雲児ブラキストン伝』(祥伝社 1999)にも「ウノ」(卯之吉の「うの」)という名前で登場する。
北海道開拓の村にある旧福士家住宅に展示されている説明によると、「福士成豊は高度な造船技術を修得するために英語を学ぶ必要にせまられた。まず、アメリカ代理領事W・R・ペーチに学び、さらにイギリス人ポーターの経営する商会の店員となり生きた英語を身につけた」旧福士(成豊)家住宅(5・実績)

ここでなぜかペーチと表記されているのは、William R. Pitts=「ピッツ」のこと(「ペ−テ、プイツ、ピツノ、ピツツ、ヒツツ」としている資料もある。1942年の高橋一雄編『福士博士還暦祝賀記念誌――日本科学史上の先覚者福士成豊翁』では、「米国代理領事W・R・ペーヂ」となっている) 。1860〜61年に在箱し、ライスの不在時には米国貿易事務官代理(代理領事)を務めた。
このピッツ君の名前はあとで何度も登場するので、おぼえておいてほしい。
福士が英国商人ポーターの商店員となったのは文久2年10月(1862年11月)というから、ピッツの離箱後である。

福士は、いかなる理由で新島の力になったのだろう? 
深夜にボートをこぎ、誰何する役人をうまくごまかして新島をベルリン号まで送り届けたのだ。生半可な覚悟でここまでの手助けはできまい。
謝礼が動機ならまだわかるが、「金に縁なき」〔函館脱出之記〕新島に金子を包む資力はなかった。
新島の熱意に打たれ、彼の夢に共鳴して一肌脱いだ……というと聞こえはいいが、脱国幇助が露見すれば親兄弟にも影響が及ぶはず。処罰を考えて、しりごみしなかったのだろうか?
わたしには福士の動機が謎だった。

1864_新島脱国_03.jpg

「函館脱出之記」(『新島襄全集5』所収)に添えられたイラスト。
左側のちょんまげ・帯刀が福士成豊、右が新島七五三太。
新島の義理の甥・公義が筆写したもので、原本が存在しないため
「どこまで原図が忠実に模写されているかは確認のすべがない」
(新島襄全集5 解題 p.533)という。


だが、「箱館奉行所文書 A 1-3/12」を見ていて、これだ! と膝を打った。
件名番号58と75番。
新島脱国の3か月ほど前のこと。1864年4月11日付で、ポーターは「上海に行く際に日本人小使を同行させたい」として奉行所に許可を申請していた。ところがこの申請は小出美濃守によって却下されていたのである。

「ホルトル上海行ノ節日本人小使召連ノ儀、不許可」
(1864年4月14日付箱館奉行から英国領事宛書簡。「ホルトル」とはポーターのこと)

――そう、この、ポーターと上海に同行しそこなった小使(=従業員)が福士だったとしたら。

だったとしたら、と書いたが、わたしは絶対に福士だったと思っている。
ポーターと福士は、海外渡航の許可を奉行所に求めて、失敗していたのだ。

実は、3年前の1861年7月(文久元年五月)ころに、無断で上海まで行ってしまった日本人がいた。

「箱館在留米国商人フレツル、其僕幸次郎を無断にて上海に連行」という事件である。「フレツル」とはフレッチャー C. A. Fletcher (Charles Arnold Fletcher d.1885) のこと(英国の領事館にいた通訳〜のち横浜領事の Lachland Fletcher d.1869 と混同しないように)。箱館奉行はこの「不法」を同国貿易事務官代理ピッツに抗議している(維新史料綱要データベース/3巻/451頁)各国書翰留を見ると、フレッチャーの使用人だった幸次郎が帰国後数か月にわたって取り調べを受けたことがわかる。最終処分は不明だが(自らの意志ではなく主人のお供で出国したのだから、死罪にはなっていないだろう)、日本人が無断で出国すれば面倒なことになることがこれで知れ渡ったはずだ。
だからこそ、ポーターは正攻法で箱館奉行に許可を申請したものと考えられる。
しかし、(当然のごとく)答えはNOであった。

そんなわけで、上海渡航の夢があえなく潰えた福士。
そこへ出現したのが、5歳若い安中藩士の新島七五三太だった。
英語を学びたい、外国に渡りたいと熱く語る青年。
身分こそ違うけれど(福士は船大工の子だった)、英語を学びたいという情熱は同じ。
手を貸してやりたい。正攻法では無理だとわかっているが、自分なら手助けできる。
行けなかった自分の代わりに羽ばたいてほしい。そう思ったのでないか。

同志社大学の【新島襄ギャラリー
帰国後、福士と一緒に撮ったお写真あり。ふたりは無事に再会したのです!
(北海道に残った福士の出世も感動的。彼のお墓は函館の
称名寺にあり、2017年6月に訪問できました♪)


◆   ◆   ◆


さて、ここからはウィルキーについて。
新島を助けた商人は米人ウィルキーだったのか、英人ポーターだったのか、このことは同志社関係者のなかにも混乱(こじつけ、ねじ曲げ)が見られる。
このウィルキーの名前は、新島本人の日記類には出てこない。
出てくるのは Arthur Sherburne Hardy(1847-1930 / のちにアメリカで新島を助ける大恩人アルフィーアス・ハーディの三男)の書いた新島襄の伝記である。

In the summer of 1864 the brig Berlin, owned by Thomas Walsh & Co., of Nagasaki, arrived at Hakodate, consigned to Frederic Wilkie, Esq., in command of William B. Savory, of Salem, Mass. Just before leaving on the return voyage to Shanghai, Captain Savory was informed by Mr. Wilkie that a young Japanese, the friend of a native clerk in his office, was anxious to escape from Japan to the United States, where he hoped to obtain an education. Reminding the captain that serious consequences were likely to follow his detection in the act of taking a native out of the country, Mr. Wilkie called the young man, then about twenty-one years of age, into his office, and Captain Savory, through the clerk, Mr. Munokite [sic], who acted as interpreter, offered him a passage to Shanghai provided he could reach the brig without assistance from those on board, and promised to do what he could towards securing his transfer to some vessel returning to the United States.

― Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Houghton, Mifflin & Co.. 1891, p.1.
赤字は引用者による。「Munokite」は「うのきち」(=福士)のこと


上の本によれば、セイヴォリーに「日本を出てアメリカで学びたいと切望する日本人がいる」と伝えたのはフレデリック・ウィルキーで、新島とセイヴォリーが最初に会ったのはこのウィルキーの家ということになっている。

ウィルキーは、函館外国人墓地「7号墓碑」の人。
そう、函館に眠っているのだ。ドイツ系アメリカ人で、1832年生まれ。当時32歳である。
しかし、「the friend of a native clerk in his office」(彼の商会にいる日本人事務員の友人)という記述から、ここでウィルキーとあるのはポーター(当時41歳)の間違いのように見える。

同志社の本井先生は「A・S・ハーディーは、このウィルキーの名前を新島からではなくて、直接、セイヴォリーから聞き出した、と思われる」語っているが、これはわたしも同意見である。ハーディはセイヴォリーに直接取材したからこそ、ここでウィルキーの名前が出てきたのであろう。上述のように、セイヴォリーは2年前の水夫入牢事件のときポーターとウィルキー両者の世話になっていた。だから、箱館の話をするときに、セイヴォリーが両者の名前を持ちだした可能性はきわめて高い。

だが、ハーディは文章を書くときに2名の商人の名前をごちゃまぜにしてしまったのではあるまいか。つまりハーディのケアレスミスにより、ポーターがウィルキーに入れ替わったというのがわたしの解釈だ。
わたしはネットにこの項目をアップしたあとで、手塚竜麿氏の小論「箱館の外商フレデリック・ジョン・ウィルキー」(『新島研究63』1983年, pp.38-40)を読んだのだが、手塚氏もこれをハーディの間違いとする説をとっていた。(このあたりはまた後日)

では、ポーターはなぜ、新島を助けようと思ったのだろう。
つい先日起こった「上海行ノ節日本人小使召連ノ儀、不許可」への腹いせプラス、2年前の「水夫入牢事件」のうっぷん晴らしというところか。奉行所をギャフンと言わせたい! という気持ちなのであろう……そんなふうに考えていたところ、また別の事件が急浮上した。

新島より前に、箱館から脱国に成功していた男がいたのである!

1860年、すなわち新島脱国の4年前、ライス、ピッツ、また別のアメリカ人商人レオナードが手助けして、金蔵 (Kinzo) という名の日本人を密出国させていたのだ。新島ヴァージョンにおける福士の役割を果たして、ボートで金蔵を沖合の船まで送っていったのはピッツであった。

この試みは成功し、金蔵は無事オレゴン州に渡った。彼がその後どうなったかは、また後日詳しく書く予定でいる。
(『オレゴンから愛』の栄蔵は金蔵と関係があったのだろうか……←ないでしょ〜〜 なお、おもしろいことに、この金蔵君はキリスト教会とは関係がないが、新島襄とアメリカでいっとき、ひじょうに近い空間にいたのだ。実際に顔を合わせていた可能性すらある、と想像をたくましくしているヤギタニです)

成功裡に終わった、アメリカ人の関係する脱国事件。これと今までにあげた事件の関係者を整理すると、以下のようになる。

1864_新島脱国_02.jpg


ポーターもウィルキーも、1860年にはすでに箱館にいた。狭い外国人社会のこと、彼らがこの話(アメリカ人にとってはおそらく「武勇伝」)を共有していたとしても不思議はない。セイヴォリーも、新島の話をもちかけられたときにきっとこの話を聞かされたはずだ。福士も当然知っていた、とまでは言わないが、福士はピッツに英語を習い、ピッツは福士から日本語を習っていた。可能性はゼロではないだろう。

ようは、「注意深く実行すれば、なんとかなる」
彼らには、それがわかっていたのだ。

1860年に成功していたアメリカ船による日本人の密出国。
1862年の水夫入牢で、奉行所にうらみを感じていた船長、セイヴォリー。
1864年に上海に行きそびれた日本人店員、福士。
上のできごとをすべて知っていた商人、ポーターもしくはウィルキー。

これらの前提があったからこそ、新島襄の脱国は成功したのだとわたしは考える。


【次回予告】次こそは(新島襄との関連は薄れたがそれでも強引に)ウィルキーか! 脱国の先駆者・金蔵の話か! 絶讃迷い中!


【資料入手先】
家系総合 [ Ancestry.com ] [ Family Search ]
新聞検索  [ NewspaperArchive (USA) ] [ GenealogyBank (USA) ]
書籍 [ Internet Archive ] [ Google Books ] [ HathiTrust Digital Library ]
北海道立文書館 [ 箱館奉行所文書 ]
東京大学史料編纂所 [ データベース ]
函館市中央図書館 [ デジタル資料館 ]

【参考文献】
運上役所編『応接書上留 文久4子年』*函館市中央図書館蔵
高橋一雄 編『福士博士還暦祝賀記念誌――日本科学史上の先覚者福士成豊翁』福士博士還暦記念会出版部 1942
新島襄全集編集委員会『新島襄全集 5 日記・紀行編』同朋舎社出版 1984
同志社編『新島襄自伝――手記・紀行文・日記』岩波文庫 2013
本井康博「新島襄とW・T・セイヴォリー船長」  *本井先生に感謝!
The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea 1865
Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Boston: Houghton Mifflin, 1891
西島照男『函館港長に何があったか――お雇い英国人の悲運』北海道新聞社 1992
太田雄三『新島襄――良心之全身ニ充満シタル丈夫』ミネルヴァ書房 2005

ver1.0 2017/04/10
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2017年02月20日

新島襄とベルリン号のセイヴォリー船長

最終更新 2017/07/07 ver.2.02


箱館(函館)」と「新島襄」。このお題でクリホンに何か書くとしたら……やはりニコライと澤辺琢磨?
もちろんそれもいいのだけれど、今回は新島の密出国を手助けした恩人「セイヴォリー船長」をメインに取り上げます。当時の文献による日付けの特定、さらに船長の行動の背後にあった事件のことや、船長にまつわる記録など、だらだら書きますがお付き合いください。 
(箱館の商人フレッド・ウィルキーについてはまた後日)

◆   ◆   ◆


元治(げんじ)元年(1864年)のこと。21歳の新島襄(にいじまじょう Joseph Hardy Neesima 1843.02.12〜1890.01.23)は当時の鎖国令をおかして箱館からアメリカ船に乗り、国外へ脱出する。
上海を経由し、およそ1年をかけて北米ボストンに到着。
篤志家の援助を受けて当地の学校に学び、洗礼を受けた新島は、1874年に帰国して京都に同志社を創設した。

日本脱国からアメリカ到着に至る過程を、新島本人は以下のように簡潔にまとめている。
あれこれ苦労した末に、私は上海行きのアメリカ船〔ベルリン号〕に乗りこんだ。上海の河口に到着ののち、ワイルド・ローヴァー号に乗り換え、約八カ月間、中国沿岸を往来した。神に守られて、四カ月航海したのち、ボストン港に着いた。



1864 neesima j.jpg


箱館の港から夜陰に乗じて脱国する新島兄(後年の再現扮装写真より)
J. D. Davis の新島伝 p.25 所収のイラストを加工
「新島先生渡来の図」写真はこちらにも


新島の人生は、そもそも元治元年六月十四日夜半(1864年7月17日深夜)に「米利堅商船ベルリヨン」への乗船がゆるされなかったら、違うものになっていただろう。
船の名は、ベルリン号 Berlin。
船長の名は――ここで新島襄の手記を引用しよう――
自分の船を失う危険をおかしてまでも、親切に中国まで連れていってくださったその船長の名前をここで決して言い忘れてはならない。その人はマサチューセッツ州セーラムの市民、ウィリアム・T・セイヴォリー船長であった(『新島襄自伝』岩波文庫 p.67)

ここに、「新島襄とW・T・セイヴォリー船長」という素晴らしい講演録がある。語り手は、同志社大学神学部・本井康博教授。
http://www.christian-center.jp/dsweek/11sp/0531_01.html

上記のページが公開されていなかったら、わたしは以下の記事を書いてはいなかった。本井先生のお話を踏まえつつ(出典表記は〔本井〕とします)、現地の公式記録で補足するような内容にできればと思う。それでは、まずヤギタニの大好きな話題・家系のことから。

◆   ◆   ◆


■ セイヴォリー船長の出自と家族

セイヴォリー船長のフルネームは、ウィリアム・トマス・セイヴォリー (William Thomas Savory)。箱館で新島と出会ったときは、あと少しで37歳になるところ。故郷のアメリカ・マサチューセッツ州セーラム Salem, Massachusetts には妻と5歳&4歳の子どもがいた。

1864 Salem Savory.jpg

The Salem Directory 1864, p.169 より


セイヴォリー一族については、「家系本」が出版されている。A. W. Savary, A Genealogical and Biographical Record of the Savery Families (Savory and Savary) and of the Severy Family, Boston: The Collins Press, 1893 がそれで、そのpp.128-29とマサチューセッツ州の公記録を組み合わせると、以下の通り。


【William Thomas Savory】
父 Richard Savory (c.1781〜1841.02.12 [Find A Grave])
母 Betsey Lewis (c.1785.12〜1861.09.03)、両親は 1803.09.11 に Salem で結婚。
父リチャードはセーラムのユニヴァーサリスト教会の創設メンバーのひとりだった。この教会とは、Salem Directory 1864 にある First Universalist Society (Formed 1805) のことだろう。また、彼の遺言は公開されているので、関心のある方はチェックしてみてください。
船長は夫妻の11番目の子ども(4男、末子)として1827.07.25に誕生 [MA出生記録]。
1855.10.30、27歳のとき Salem で結婚 [MA結婚記録]。
逝去日は1897.02.12、死因は Salem の死亡記録によると肺気腫 pulmonary emphysema、69歳。
※本ページ後半に新聞の追悼記事記載※

◆妻ローラ Laura Deland(1828.11.30〜1883.10.31 / 両親は Robert Deland & Mary Welcome) 26歳で結婚。名前の判明している子どもは、以下のふたり。
◆長女:1859.07.08生まれのローラ Laura Lewis Savory
結婚 1883.04.25 Frank Luman Wing(1850.08.28〜1924.10.06)of Brooklyn, NY / 3男4女(1900年センサスによると8人出産、7人存命)あり。こんにち「セイヴォリー船長」の子孫とされる人は、すべて彼女の子孫。逝去の記録は未発見だが埋葬日は 1949.05.16、New York の Greenwood 墓地 Lot 28283 Section 184 に眠っている(夫、長男も同じ区画) / 美しい肖像写真あり → Find a Grave)。
◆長男:1860.07.20 生まれのウィリアム William W. Savory(ミドルネームの「W.」は Welcome だろう)
 1877.05.25、16歳で逝去、死亡記録にある死因は破傷風。
*上記2名のほかに、1857.12.03 死産とおぼしき記録がある(性別不詳)。
*一家は合衆国センサス(国勢調査)では1860、1870、1880、マサチューセッツ州センサスでは1865年、ニューヨーク州では1892年に記録あり(※一部の画像後出


■ 船の動き

つぎに、セイヴォリー船長の日本近海における「船長」としての動きを、当時の新聞から見てみよう。出典は、上海で発行されていた英字紙 North China Herald [NCH] の Shipping Intelligence である。
*紙面の活字が明瞭でない部分があり、非常に検索しにくいため、完璧なリストではありません。また、リストには姓しかなく、同姓の船長がいた場合の区別ができませんが、Savory 姓は比較的めずらしいため、同一人物と仮定して話をすすめます

【Captain Savory】
1862.07.04 上海入港 Mary Capen 号(195トン) 荷主:Augustine Heard and Co.
1862.12.05 上海入港 Mary Capen 号 荷主:Dow and Co.
1863.03.01 上海入港 Maryland 号(200トン bark) 荷主:Frazer and Co.
1863.06.10 上海出港 Yang-tsze 号(547トン bark) 荷主:Frazar and Co.

ボストンの新聞 [Boston Post] によるとMary Capen 号は1862年4月下旬に当地を出港、サンフランシスコおよびホノルルを経由して上海に到着した。積み荷は材木(lumber)。1863年にはまた別の船で上海に出入りしている。

【2017/03/12 追加】この Mary Capen が1862年9月、箱館に入港していた記録を発見! 箱館奉行所文書の目次に「ケーペン船主シウリー」「メリーケーベン船」などという文字が見えるではないか。上記のスケジュールから見て、間違いなく Mary Capen 号、シウリーとは Savory のことだ。前後の内容を見ると、アメリカ人水夫3名が入牢した事件があったことがわかる(件名番号177/181/183/186/188/199)。どうもセイヴォリー船長の部下だったらしく、船長はこのときのことを「怨み」に思っていて、奉行所に一泡吹かせるために新島脱出に手を貸した、と考えると腑に落ちる。
さらに、おもしろいことに気付いた。この Mary Capen 号は、「函館に眠るエルスペスとニュートン船長のお話」の巻で触れた、エーゲ号と入港時期がまったく同一なのである。セイヴォリー船長とエーゲ号のニュートン船長は、絶対箱館で顔を合わせたに違いない!(断言)

今度は、新島を箱館から運ぶことになるベルリン号 Berlin の動きを見てみよう。
出典は上述の North China Herald、そして箱館運上所の『応接書上留 文久4子年』〔文久3年8月〜元治元年12月の外国船の入出港記録含む〕である。

【Berlin】
1863 〜North China Herald では記録発見できず〜
1864.02.02(文久3.12.25) →上海入港 / 船長:Jellessin [?] 荷主:Russell and Co.
1864.02.17(文久4.01.10) 上海出港→ / 船長:Jellessin [?] 荷主:Russell and Co.
1864.04.26(元治1.03.21) →上海入港 / 船長:Savory 荷主:Russel and Co.
1864.05.04(元治1.03.29) 上海出港→ / 船長:Savory 荷主:Russel and Co. ★長崎経由で箱館へ
1864.06.13(元治1.05.10)→箱館入港〔応接書上留 文久4年〕
1864.07.16(元治1.06.13)箱館出港〔応接書上留 文久4年〕★翌日、新島襄乗船
1864.08.03(元治1.07.02) →上海入港 / 船長:Savory 荷主:Russell and Co. ★新島襄下船
1864.08.12(元治1.07.11)上海出港→ / 船長:Savory 荷主: Russel and Co. ★こののち長崎で船長解雇
1864.09.28(元治1.08.28)→箱館入港〔応接書上留 文久4年〕★また箱館に行っている!
1864.10.14(元治1.09.14)箱館出港〔応接書上留 文久4年〕
1864.11.05(元治1.10.06) →上海入港 / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co. ★新しい船長で入港
1864.11.12(元治1.10.13) 上海出港→ / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.
1864.12.12 →上海入港 / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.
1864.12.22 上海出港→ / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.
1865.03.05 →上海入港 / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.
1865.03.21 上海出港→ / 船長:Anderson 荷主: Russel and Co.


船の退帆(出港)日は新島が書き残した脱国の日と1日ずれているが、運行所(税関)での手続きが前日の日付けで行われたということだろう。そして新聞の記録でわかるのは、ベルリン号の上海入港が8月3日、すなわち元治元年7月2日であったことである。新島の航海日記でただ一言、「無事」と書かれている日だ。いっぽう、『箱楯よりの略記』には「七月朔日、蒸気船を雇ひ、其船を引き上海に到る」(新島襄全集5/同朋舎出版 1984/p.73)とある。実際に新島が上陸したのは1日なのか、2日なのか、脱国の日付けと船の退帆の日付けが一致しないのと同じで、これも不確定。
ともあれ一首:

  しめたが「無事」についたから 
    なながつふつかは 上陸記念日


ベルリン号は1年の間に3名の船長に操舵されていたこともわかった。仕向港(仕向け地) Destination はすべて長崎であり、もっぱら日本(長崎〜箱館)と上海の間を往復して荷物を運ぶのが任務だったようだ。すべての航海の荷主(荷送り人) consigners [consignors] として名前が載っているラッセル商会は、当時の上海の最大手の貿易会社のひとつで、アメリカ系。

*函館市中央図書館デジタル資料館で箱館運上役所の「応接書上留」が公開されている。ただし、2017年6月現在の公開は、安政6年、万延元年、文久元年分のみ。文久2年分は資料そのものの所蔵がない。幸い、2017年6月に現地で文久4年分を閲覧できたので、この項目を増強することができました。図書館に感謝!

新島襄を乗せた船は上記のごとく8月3日に上海に入港した。そして、セイヴォリー船長は新島を同じアメリカ人のホレース・S・テイラー船長 Captain Horace S. Taylor (1829〜1869.12.11) に託し、長崎に戻る。8月11日にセイヴォリー船長は【「此(この)船、無拠(よんどころな)き事件有之、再ひ日本へ帰らねばならぬ故に」と述べた】という〔本井〕。確かに新聞の出港記録ではベルリン号は翌12日に上海を発っており、ぴったり話が合致する。ただし、「よんどころなき事件」というのは、緊急召還というより、もともとのタイトなスケジュールを指していたのではあるまいか。

【ベルリン号のとんぼ返り】 運上所の記録でわかったことだが、ベルリン号はまたすぐに箱館に戻っていた。福士はおそらく港で出迎えたことだろう。新島はどうなったのか、首尾を聞かせてくれるはずの船長は、もうセイヴォリーではなかった。それを知った福士はどんな顔をしただろう。結果オーライとはいえ、当時はかなりの衝撃を受けたのではないかと想像する。

【セイヴォリー船長が「電報(電信)」で長崎に呼ばれた可能性について】 すでに telegram は実用化されており、1864年の新聞にも電信経由の記事が見出せる。ただし、きわめて数は少ない。1865年版 China Directory に電信会社やそのエージェントが一件も掲載されていないことからみて、64年当時の中国・日本地域ではまだ一般的なものではなかったといえる。なお、1868年版になると複数の関連会社が載っている。

ベルリン号は、長崎のウォルシュ商会の所有船だった〔本井〕。そして長崎で、ウォルシュによりセイヴォリー船長は船長を解雇されてしまう。


■ ウォルシュ兄弟
ここで長崎のウォルシュ兄弟4名についてまとめておく。1865年の Directory(長崎)に掲載があるのは三男をのぞく3名である。彼らの両親はアイルランドからアメリカに移民した。

◆長男トマス Thomas Walsh 1827.08.28 ジョージア州オーガスタ生まれ〜1901.08.30 イタリアのフィレンツェで逝去、ウォルシュ商会(長崎 Walsh & Co./ 横浜 Walsh Hall & Co.)経営者。当時37歳。旅券申請書が現存(1857/1871/1889)。 74歳没。
◆次男ジョン John Greer Walsh, John G. Walsh 1829.07.27 ニューヨークのYonkers生まれ〜1897.08.16 神戸で逝去、長崎の初代アメリカ領事 (1861年の Vice-Consul としての年俸3千ドル)。当時35歳。1863年長崎で日本女性と結婚。旅券申請書が現存(1858/1870)。68歳没。墓所は神戸。
◆三男リチャード Richard James Walsh, Richard J. Walsh 1831.04.19 ニューヨーク生まれ〜1881.01.09 ミズーリ州セントルイスで逝去。当時33歳。1854年アメリカ女性と結婚。49歳没。死亡記事には経済苦によるピストル自殺だったこと、また彼も日本にいたことが記されている(1862年版 Directory に掲載あり)。
◆四男ロバート Robert George Walsh, Robert G. Walsh 1841年ニューヨーク生まれ、1886年没。ウォルシュ家4男3女の末子。当時24歳くらい。1863年来日、1871年神戸で日本女性と結婚し1女をもうけた。45歳で没。

一家については、たとえば Concord Free Public Library のページを参照。
ウォルシュ兄弟全員が長崎でセイヴォリー船長と顔を合わせた可能性があるが、長男トマスは1863/65年版 Directory で「absent」となっているので、1864年8月には日本にいなかったかもしれない……と考えていたらドンピシャ! まさに1864年、トマスは上海にいたことが判明した 。
地質学者・探検家のラファエル・パンペリー (Raphael Pumpelly 1837-1923) が、上海在トマスの紹介で、1864年の夏、弟のジョンの長崎の屋敷に滞在したと書いているのだ(Travels and Adventures of Raphael Pumpelly, 1920, p.277)。しかも同書には“Unfortunately, Japan was at this time shaken from north to south by its internal and foreign troubles...”とあり、内外諸問題ですったもんだの時期に、アメリカ領事の関係する船が日本人の密出国に関わったことがおおやけになれば、まずいことになるのは決まっている。領事のジョンがセイヴォリー船長を解雇したことに不思議はない。

※蛇足ながら、アメリカ領事といっても本国から派遣された「外交官」というわけではなく、いわゆる「商人領事」(現地でビジネスを営む商人が領事職を兼務する。領事職にともなう利権が大きかったため、しばしば商人は無給でもこの仕事を受けた)なのでそこはお間違えなく。


角度を変えて見れば、セイヴォリー船長はアメリカ国民として、思慮の足りない行動をしたのだとも論評できる(2年前のうっぷんは晴らせただろうけれども)。むろん、結果オーライ、同志社関係者からは恩人の名で呼ばれることになるとはいえ、それは遠い未来のこと。扶養家族がいるのに職を失ってしまった当座は(次の就職に必要な人物証明書を書いてもらえたとも思えない)、自分の行動を後悔したのではないか。船長がのちにアメリカで何度も新島に面会したのは、自分の行動が過ちではなかったことを確認したいという望みがあったからかもしれない。


【ベルリン号はプロイセンの船だった!】
さて、応接書上留では興味深いことがわかった。その記録に残る「ヘルレン/ベルレン」号は「孛漏生商船」とあり、つまりプロイセンの船であった! 新島が「米利堅商船」と書いていたのですっかりだまされていた(船長がアメリカ人だから、アメリカ商船と思い込んでも無理はないが)。

1865年5月のことだが、New York で建造された大砲2門・207トンの船 Berlin(ベルリン号)という船を越前藩がプロイセンから1.1万メキシコドルで購入したことが記録に残っている (1867.04.27付 North China Herald)。わが新島襄ゆかりのベルリン号ではあるまいかと思っていたが、その可能性が高まった。

ベルリン号の船種は、資料によってブリッグともスクーナーとも書かれている。1867年版 Merchant Vessels of the United States p.28 記載の Berlin がもし同船だとすると、213.86トンのスクーナー、船籍港は Dunkirk, New York。また Lloyd's Register にはやはり同名で211トンのバーク船(1849年建造、所有 Evans & Co.、船長 Williams)が掲載されている。

なお、ベルリン号の模型が群馬県安中市の新島学園に寄贈され、同学園の玄関に展示されているという(2017.02.22 上毛新聞)。ほかに、同志社大学が2014年函館市に寄贈した復元模型があるが、どこに展示されているかは不明。判明したら追記します。


■ ワイルド・ローヴァー号の動き

ついでに、上海で新島襄が移乗した、テイラー船長のワイルド・ローヴァー号 Wild Rover の記録も見ておこう。1035.60トンのシップ〔3本マストの大型横帆船〕、船籍港 Boston, Mass. [ibid, p.250]。ベルリン号より4倍以上大きなこの船において、新島は船長付のボーイとして働いた。

【Wild Rover】
1863.07.26 上海入港 / 船長:Crowell 荷主:Russell and Co.
****.**.** 上海出港 ?????
1864.01.18 上海入港 / 船長:Rogers 荷主:Augustine Heard and Co.
****.**.** 上海出港 ?????
1864.05.14 上海入港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co.
1864.06.24 上海出港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 福州 Fuchauへ
1864.08.04 上海入港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 福州 Fuchauから
1864.09.07 上海出港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 福州 Fuchauへ
1864.10.13 上海入港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 香港から
1864.11.24 上海出港 / 船長:Taylor 荷主:Augustine Heard and Co. 香港へ

なんとか探せたのは上記のもののみ。荷主のオーガスティン・ハード商会はやはりアメリカ系で、当時の横浜にも支店があった(1862/63年 Directory に記載あり)。1865年の部も探したが、Wild Rover 号は見当たらず。つまり、新島襄を乗せた船は上海〜福州〜香港で積み荷を運んだあと、最終的に11.24に上海を出たと考えられる。そしてマニラを経由して、1865.7.20 ボストンに入港。箱館を出て1年余のことだった。

*新島はマニラを出た日を1865年4月1日もしくは8日とし、「四カ月の航海」と書いている(『新島襄自伝』岩波文庫 pp.69,121)。だが、この下に示した新聞記事によればマニラ出港は4月10日、ボストン入港は7月20日なので航海は101日間、3カ月と1週間と3日ということになる。


1865_07_21 Boston Wild Rover.jpg

Wild Rover のボストン入港を告げる新聞記事
Boston Post, 1865.07.21, p.3 より
テイラー船長はこの4年後に事故死する

ちなみに、上海の商船消息に登場する Taylor 船長はほかに2名いるのだが(ひとりは弟らしい)、前年の1863年8月に 長崎から入港した Caillop [? 綴り不明瞭] という280トンの船の船長も Taylorということがわかった [NCH, 1863.08.22]。荷主はベルリン号と同じ Russell and Co. である。もしこれがわがテイラー船長だったとしたら、すでに日本と日本人にある程度の親しみがあったことが推察できる。また、同じ荷主の荷物を長崎へ運んでいたセイヴォリー船長とのつながりも説明がしやすくなるように思う。

■ 船長の晩年

話をセイヴォリー船長にもどす。
ウォルシュ商会から解雇された彼は故郷にもどった(長崎からどういうルートで帰国したか、記録は未発見)。1865.08.24、ボストン港停泊中の船上にいる新島を訪問したことがわかっている〔本井〕。その数カ月前、1865.06.01に実施されたマサチューセッツ州国勢調査に船長の名前がある。この時期、彼は陸にいた(=失業していた)のだ。

1865 MA Census William T Savory.jpg
Massachusetts State Census, 1865 より
画像では切れているが、妻の兄姉3名(Deland 姓)も同居している
FamilySearch のリンク


1870年のセンサスにおいて、船長は世帯主ではなく、仕立物で生計を立てる義理姉妹(妻の姉2名)の家に居候しているようだ。1880年にも同じく義姉妹と同居、さらに下宿人もいる(この時代に使用人ではなく下宿人がいるのは、あまり生活が豊かでない証拠。本井講演で語られていた、船長の窮状がセンサスからも感じ取れる)。1883年に一人娘が結婚、その半年後には妻に先立たれてしまう。

やもめになった船長は1886年にセーラムからニューヨークのブルックリンに引っ越した〔本井〕というが、その地名でぴんときた。結婚した娘の住居がブルックリンなのだ。1889年の Brooklyn Directory を見てみると、船長の住所は 193 Quincy となっていて[Savory、ミドルネームのイニシャル G. は誤植]、娘婿の Frank L. Wing と同じである [Wing]。つまり船長は娘の家に身を寄せたのですね。1892年のセンサスでも同居が確認できる(娘夫妻、孫3名、使用人2名)。よく見るとまだ義理の姉といっしょ。困った時はお互いさま、一族郎党が同居する相互扶助の世界。婿さんが甲斐性のある男性でよかった〜〜と、ひとごとながらほっとした。(→フランク氏の素敵なお写真はこちら

ウィング家の孫娘とともに船長の名前が記載された
New York State Census, 1892 →Family Search のリンク


【おまけ】 27歳の新島襄 Joseph Neesima が掲載された1870年のセンサス
United States Census, 1870 →Family Search のリンク
検索用の文字列がすごいことになってますが、探してみてください♪



最後に、船長の追悼記事を載せておく。物故地はフロリダだが、ボストンの新聞に載ったものである。


1897 William T Savory death Boston Daily Globe.jpg
Capt William T. Savory Dead.
Boston Daily Globe, 1897.02.15, p.8
チリ、ブラジル、中国、ザンジバルなどの地名が挙がっている
まさに世界を股にかけた生涯だったようだ

新島襄は、留学時代の1871年と1874年、また2度目の渡米中の1885年にもセイヴォリー船長と会っている〔本井〕。
さらに、新島は1887年夏に函館を訪れた折、ポーター船長の家を見つけて、船長に挨拶したという〔西島, 1992, 85-87〕。また別の船長が出てくるの、ポーター船長って誰? といわれそうだが、このポーター船長、函館の歴史に関心のある人なら知らぬ者のない(たぶん)著名人物。実は、あの1864年の夜に新島をベルリン号まで小舟で連れて行ってくれたのはポーターの店の使用人・富士屋卯之吉(福士成豊 1838〜1922.08.26)であった。その縁での挨拶だったのである。
そもそも福士成豊はどうして新島に共鳴したのか? その謎解きは次回!

2015年秋に、英国系フリーメイソンの会員名簿が大量公開されて明らかになったのだが、英国出身のポーター船長 Alexander Pope Porter (1823-1891/93) は箱館に定住する以前、香港と上海でフリーメイソンの会員になっていた。そしてセイヴォリー船長もまた、会員だった。その記録を発見したとき、「それで、会員同士のポーターとセイヴォリーとのあいだで話がついたのか!?」と、大発見気分にひたったのだが、しかし、これは早とちり。セイヴォリー船長が会員になったのは、新島脱国の4年後、1868年である。従って、箱館でのことと、フリーメイソンリーは無関係でした。

マサチューセッツ州のメンバーシップカードの画像はこちら
名前も生年月日、職業も一致するがロッジ名が不詳という、謎の記録
(求職活動の一環・コネづくりのため入会したとヤギタニは推理しております)
William Thomas Savory discovered in Massachusetts, Mason Membership Cards, 1733-1990 - http://www.ancestry.com/sharing/10170689?h=573c12


ハコダテシリーズ・次回は「もうひとりの箱館の恩人? フレデリック・ウィルキー」の巻、1864年当時の箱館にいた外国人たちについて書ければいいなと思ってます。

*後日、後日と予告しながら書いてないネタが蓄積中…… 今回は、資料がたいして多くないからアップできたようなものです。ウィルキーも資料が少ないので、なんとかなるかしらん?


【資料入手先】
家系総合 [ Ancestry.com ] [ Family Search ]
新聞検索  [ NewspaperArchive ]
書籍 [ Internet Archive ] [ Google Books ] [ HathiTrust Digital Library ]
北海道立文書館 [ 箱館奉行所文書 各国書翰留 魯亜 ]

【参考文献】
運上役所編『応接書上留 文久4子年』*函館市中央図書館蔵
同志社編『新島襄書簡集』岩波文庫 1954
同志社編『新島襄自伝――手記・紀行文・日記』岩波文庫 2013
本井康博「新島襄とW・T・セイヴォリー船長」  *本井先生に感謝!
The Salem Directory 1864
The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea 1865
Merchant Vessels of the United States 1867
Lain's Brooklyn Directory 1889
Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Boston: Houghton Mifflin, 1891
A. W. Savary, A Genealogical and Biographical Record of the Savery Families (Savory and Savary) and of the Severy Family, Boston: The Collins Press, 1893
J. D. Davis, A Maker of New Japan Rev. Joseph Hardy Neesima, LL.D., President of Doshisha University, Kyoto , Felming H. Revell Co., 1894
西島照男『函館港長に何があったか――お雇い英国人の悲運』北海道新聞社 1992

*函館市中央図書館と文献読解にご協力いただいた方に心より感謝申し上げます

ver1.00 2017/02/20 ☆ ver2.00 2017/07/02

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2017年02月09日

来日プロテスタント宣教師の探し方

最終更新 2017/05/17 ver.1.10

2016年末から2017年頭にかけて、わたしはせっせと調べものをしていた。
某大事典に掲載されたプロテスタントの英米人宣教師(=主に英語圏の人物)の生年月日(年だけでなく出生日)と逝去日の空白を埋める作業である。日付けの確認はネットを経由して行ったが、「ネットで」といっても決して Wikipedia の項目を探したわけではない。
わたくしのミッションは、「当時の」なるべく「公的な資料」を探すこと。
事典に掲載された宣教師たちは、19世紀から20世紀初頭のあいだに生まれた人がほとんどだ。
これらの方々に関して、2017年1月現在、いったいどんな資料を見ることができるのか。
以下、長大な(はいはい、長いですよいつもと同じで)覚え書き。

【前提となる重要なこと 1.】
「ネット検索ができる」とは、すなわち検索用に提供されているテキストデータが存在することを意味する。印刷資料(紙の本)や手書き書類がもとになっている場合は、機械による解析(OCR)、もしくは人間による入力のいずれかによってそのテキストデータが用意されるわけだが、そもそも原本画像の質が悪く読み取れない、原本の手書きの文字にあまりにクセがある、単なるタイプミス、知識不足や思い込みからくる間違いなど、ミスの入り込む余地が非常に大きい。

つまり、検索にヒットしない=情報が存在しないことを必ず意味するわけではない。別のキーワードを使ってみたり、目視することで探せることもある。

わたし個人の体験からしても、テキスト検索では探せなかったものが、1枚1枚ページを見ることで探せたことが何度もあった。どうしても探したいものは、文字列検索だけに頼らず、ある程度範囲を絞ったうえで自らの眼でチェックすることが大切。その際、原本の筆記体を解読する能力、〈誤記〉のパターン(書類に書かれた綴りがつねに正しいとは限らない)、また地名・人名などの略し方、略号の意味を知っておくことが必須となる。また、イングランドとアメリカには同名の地名がひじょうに多い。これらの区別がつけられるかどうかが、検索の決め手となることもある。


略号・略称の例:Wm が William で Chas が Charles, etc.(Directoryによくある略称)
Dick が Richard、Bessie が Elizabeth の愛称であること etc.(国勢調査などに愛称が記されることもよくある)
「Clerk」「Clerk in H.O.(C of E)」=Clerk in Holy Orders, Church of England(英国国教会聖職のこと。公書類の職業欄に見られる)
名前の頭につく「Rev.」=Reverend、末尾につく「M.D.」= Medical Doctor など


【前提となる重要なこと 2.】
「本人特定」のため最も重要となる手がかりは、「出生地」。国勢調査をはじめ、旅券申請書や入国カードなど、多くの書類は生まれた場所を書くことになっている。出生地さえ判明していれば、人探しはぐんと楽になる。逆に、出生地を間違うと、探せるものも探せなくなることも。
日本人ではないのに、「子どもが日本生まれ」というのも重要な情報となる。

●人名綴りの確認
日本語の事典類には、綴りがそもそも間違って掲載されている例がある。
当時の Directory(英語の住所録)の一部がネット公開されているので、人名綴りの確認に使える。「Japan Directory」で検索してみよう。
国会図書館のデジタルライブラリーで閲覧できる、たとえば『基督教年鑑 大正8年』(1920)の「宣教師氏名及住所」や、聖公会なら『日本聖公会要覧』の「婦人宣教師ノ住所氏名一覽」「本邦在住他聖公會聖職等ノ住所氏名」なども参考になる。
【注意点】 あくまで参考に。つねに正しい綴りとは限らない。また、「正しい綴り」が必ずしも検索キーワードとして適切ではないこともある。「表記のゆれ」の幅は、パソコン入力時代のイメージからすると驚くほど大きい。このことはつねに意識する必要がある。
書籍版では、復刻された Japan Directory(幕末明治在日外国人・機関名鑑)が最も役に立つ。1861〜1912年までの在日外国人の名前が収録されている。都道府県立レベルの図書館を探してみよう。
ただし、せっかく当時の Directory が閲覧できても、名前がイニシャルだけで情報が少なく、歯がゆい思いをすることもしばしば。(イニシャルだけの人物を調べるのは難しいのです。フルネームを特定できず、人名調べを断念した人も何人かいます。クヤシイィィ)


●1900年までに亡くなった宣教師情報
プロテスタントの宣教師大会の議事録。
Proceedings of the General Conference of Protestant Missionaries in Japan: Held in Tokyo October 24-31, 1900
https://archive.org/details/proceedingsgene01unkngoog
APPENDIX の宣教師追悼記事はここから(所属組織別)

●1903年以降、1960年代までの宣教師情報
まず見るべきは日本で発行されていたプロテスタント年鑑 Japan Christian Yearbook の Obituary(追悼記事)。
創刊は1903年、途中1942〜49年、1952年、1969年は休刊。最終刊は69/70合併号。Internet Archive ほか、いくつかのサイトで1903〜1967年のもの(途中ヌケあり)が検索可能なPDF形式で公開されている。
1900〜1903年のスキマに世を去った人は、気の毒なことに情報が少ない。
【注意点】 この年鑑の追悼録には、記事内に「死亡年」がはっきり書かれていないために年鑑刊行の年なのか前年なのか判断に苦しむケースあり。また、戦後にまとめて複数の記録を並べている号では、年号が間違っていた例も。年号数字のみで「逝去日」がない場合は、別資料で裏を取ったほうがよい。なお、『日本キリスト教歴史大事典』(教文館 1988)の内容の一部はこれに負っているため、元の年鑑の間違いを踏襲した部分がある。
一般的にいって、教会を離れて(転会して)しまった人、配偶者や子孫がいない人、飛び抜けて長生きの人は追悼記事が見つかりにくい。


●英字新聞の死亡告知、追悼記事
○日本で刊行された英字紙
たとえば横浜で発行されていた Japan Weekly Mail など。GoogleBooksInternet Archive に一部が公開されている。全バックナンバーが検索できるわけではないが、トライしてみる価値あり。マイクロフィルムは東京の国立国会図書館で閲覧可能。わたしはネットで該当ページ数をチェックしてから、国会図のマイクロフィルムで確認したことがある。
地方紙に掲載された追悼記事には、死亡日と掲載日に開きがある場合もある。

○英米の英語新聞の死亡記事
英語圏の新聞は、国(アメリカ議会図書館など)や地方自治体レベル、新聞社やその他の商業的なものも含めて多数のサービスが有料/無料で提供されており、一長一短。すべての新聞を一気に串刺し検索できるサイトはまだない。
単にGoogle検索するだけで新聞記事がヒットするようになっているサイトもある。
【注意点】 クレジットカード番号を登録しないと無料トライアル自体がスタートできないサービスも。いっぽう、検索のみなら無料で、見出し部分だけでも情報が得られることがある。British Newspaper ArchiveThe New York Times Search など。
19〜20世紀初めには現在イメージするような全国紙はなく、新聞の基本はローカル情報である。従って、誰かを探すときは、その人物の生活の拠点のあった地域の新聞に注目しよう。
新聞検索の最大の注意点は、シンプルなキーワードだと厖大な記事がヒットして、目的の人物を特定するのが難しい場合があること。また、OCR 誤変換が最も多く見られる資料がここ。検索には慣れとテクニックが必要。また「yesterday」などと相対的に書かれた時制にも注意。その紙面にある日付の1日前とは限らないからだ(夕刊など、翌日の日付で発行されている新聞もあるため)。
誤変換の山にはがっかりするが、それでも同じ時期の日本の新聞を検索していてしみじみ思うのは、いかに英語のアルファベット活字がシンプルかということだ。しかも19世紀と21世紀で、活字に変化がない!(←ここ重要) 英語のアルファベット活字は、すべての言語のなかでもっともデータ化に向いているのではなかろうか(ただし19世紀以降の活字に限る。18世紀の活字は「s」の字が「f」の形状をしているので注意)。



1900_V_Marshall_Law_Obituary.jpg
San Francisco Call, Volume 87, Number 160, 29 April 1900 より
米国聖公会司祭兼宣教医V・マーシャル・ロー師の追悼記事
Rev. Victor Marshall Law (1853-1900.04.28)
在日本 1888〜1892頃 立教大学校校長も務めた
末娘は1890年6月に日本で生まれている(後出の国勢調査で判明)


●英国の遺言索引
Probate Calendar 1858年〜現在まで 死亡日(推定死亡日)は必ず掲載されている。
英国人(に限らず、英国で遺言を遺した可能性のある人)の死亡日を調べるには、わたしはまず遺言索引(検認された遺言のリスト)を見る。フルネームとともに、きれいに逝去日が判明するからだ。むろん、遺言を遺していない人はこのインデックスには載らないが、英米において遺言は決して富裕層だけが書くものではなく、聖職者/宣教師は遺言存在率がかなり高い。ある年代までは死亡地(最終居住地)、遺言執行者や遺産額も記載。1件£10で閲覧も可能(PDFファイルとして到着)で、閲覧理由などは問われない。ただし他人の遺言を公表するには遺族の許可が必要とされている。
英国政府がIndexをネットで無料公開しているがhttps://probatesearch.service.gov.uk/#wills、非常に見づらく、探すにはコツがいる。また、技術的な問題ゆえか、ときどき検索不能なページがある。
Ancestry.com の検索がおすすめだが、すべての年度が検索可能とはなっていない。遺言執行者まで含めて検索できたらベストなのだが……(同姓同名者がいた場合、未亡人 widow の名前によって本人特定ができることもあります)。なお、政府サイトでは検索できなかった人物を Ancestry で捜し当て、政府のほうに閲覧申請を出したら、ちゃんと通った体験あり。

England & Wales, National Probate Calendar (Index of Wills and Administrations), 1858-1966, 1973-1995 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=1904
Web: Northern Ireland, Will Calendar Index, 1858-1965 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=70726
スコットランドの遺言を探す手引き https://www.nrscotland.gov.uk/research/guides/wills-and-testaments

1885 Arthur William Poole Will_bb.jpg

1885.07.14 に亡くなった Arthur William Poole
(プール主教)の遺言記録
The Right Reverend は Bishop の個人名につく敬称


●死亡記録
通常の死亡の記録は、たとえばこちらでチェック。
U.S., Social Security Death Index, 1935-2014 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=3693
England & Wales, Civil Registration Death Index, 1837-1915 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=8914
England & Wales, Civil Registration Death Index, 1916-2007 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=7579

【注意点】これらをサーチすれば死亡が完全に確認できるかと思えば、さにあらず。どこをどう探しても出てこない人もいる。フルネームでは載らない(ミドルネームがイニシャルになる、もしくは消える)ことがまずネック。英国の Index は、あくまで謄本を取り寄せるときのためのIndexなので、逝去日ではなく「届けの出された時期(3カ月の範囲)」しかわからない。従って、上記の遺言索引が役に立つわけだ。

死因(なんの原因で亡くなったか)まで載っているものは、アメリカの (Medical) Certificate of Death(Virginia, Indiana, Massachusetts, Pennsylvania, North Carolina, Texas, etc.)、カナダでは Ontario の Registrations of Deaths など。これらの書類の「死亡日」については信頼がおけるが、同時に記載されている「出生日」については申請者の自己申告によるものであることに注意(出生証明書と同時提出、などという仕組みにはなっていない)。
国外の領事館に提出された死亡届(死亡状況報告書)には、埋葬場所や連絡先家族リストもついていたりする。日本で逝去した人は要チェック。
国外で死亡したアメリカ市民の報告書 
Reports of Deaths of American Citizens Abroad, 1835-1974
http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=1616
Deaths of U.S. Citizens in Foreign Countries
https://www.archives.gov/research/vital-records/american-deaths-overseas.html
このエリアで見つかる記録には、たとえば新島襄と同じ船で来日したアメリカン・ボード宣教医アダムス Rev Arthur Hyman Adams、聖路加のトイスラー医師 Dr Rudolf Bolling Teusler など。

●アメリカの遺言、無遺言者の記録など
州によっては遺言そのもの、また無遺言死亡者の財産を遺族に引き渡すまでの事務書類などが画像で公開されている(Massachusetts, Wills and Probate Records, 1635-1991 ほか、Pennsylvania, Alabama, Texas, New York, California, Florida, Washington, D.C., etc.)。逝去日が必ず掲載されているわけではないが、原本を読み解くと言及されていることも。

●墓碑データベース
近年の充実がいちじるしいのがお墓の分野。文化的ボランティアとして、墓石上の文言を渉猟してデータ公開している人もいる。英語圏の最大手は Find A Grave。著名人ばかりでなく、市井の人々も多数登録されており、意外な人がヒットすることがある。メンバー登録すれば誰でもこのデータベースに貢献できるのも良い。
【注意点】 日付けがなく年号のみの墓碑、亡くなった日のみ記載の墓石も多い。善意の素人の提供データのため、間違い(数字の読み取りミス)が入り込んでいる可能性も。必ず墓石本体の画像を自分でチェックすること。外国で亡くなった人の「記念碑」も含まれているので、間違わないように。
石に刻んだ記録は、意外に長持ちしない(劣化し、読み取り不能になってしまう)ということもよくわかる。

hilton pedley grave.JPG

Hilton & Martha Clark Pedley の墓石
漢字で「日本」の文字が刻まれている
Find a Grave より

●教会の受洗記録
近年、怒濤の勢いでデータベース化されているのが教会の記録だ。たとえば英国国教会の受洗簿の一部は原本画像が公開されており、それを見ると受洗日(洗礼を受けた日)とあわせて出生日が記載されていることがある(そもそもの受洗簿フォーマットは一様ではなく、必ず出生日がわかるわけではない)。両親の名前、父親の職業はデフォルト。
アメリカの教会(とくに聖公会)の受洗記録も一部が公開済。たとえば、津田梅子の名前が掲載された1873年の受洗簿も見ることができる。MA、PA は充実度が高い。
教会の記録は Ancestry.com(後出)で一気に探すことができる。
アメリカのクエーカー(キリスト友会、Society of Friends)の記録は Swarthmore College や Haverford College のコレクションがデータベース化され、目を見張るほどの充実ぶりだ(資料の読み解きには慣れが必要)。
U.S., Quaker Meeting Records, 1681-1935 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=2189
ドイツの記録も近年充実してきた。ただしドイツ語表示。
Germany, Select Births and Baptisms, 1558-1898 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=9866

こうした受洗記録には、(原本がなく)テキストデータのみ公開されているものもあるが、転写ミスが紛れ込むため、原本より信頼性が落ちることは否めない。
【注意点】 同姓同名同出生地の人物と混同しないよう、両親の名前を照合すること。国勢調査票と合致するかをチェック。
なお、出生から受洗までの日数はさまざまであり、一概に洗礼の「3日前」あるいは「1カ月前」が出生日などとは言えない。受洗記録を確認していると、「受洗日=出生日」として事典などに書かれているケースがあることに気づく。実際には(命の危険があるなどの場合をのぞき)、出生の当日受洗という子どもは多くない。


●出生届
英米ともに、役所へ登録された年(時期)はわかる。出生日そのものは必ずしも記載がない。
England & Wales, Civil Registration Birth Index, 1837-1915 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=8912
England & Wales, Civil Registration Birth Index, 1916-2005 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=8782

【注意点】上記の英国の Index は、死亡届と同じく、実際の出生から登録までどのくらい日が開いているかは一概には言えない。1月〜3月の登録には、前年12月生まれがまじっている可能性があるので要注意。
アメリカでは、New Jersey など、出生日まで記載された出生記録を公開している自治体もある。


●新聞(既出)の Family Notice / Announcement
父親が〈紳士〉の場合、新聞(とくに地方新聞)の告知欄に「息子誕生」「娘誕生」と報告される(性別のみ。名前は通常記載なし……というより、名前が決まる前に出生のみを告知するためのコーナー)。出生届と併用して、新聞の誕生告知から出生日が確定できた例では、熊本にいた聖公会司祭のブランドラム(Rev. John Baptist Brandram b.1858.12.14。18日付新聞に告知あり)がいる。当然ながら、本人の父親の名前と住所が判明していないと探せない。
なお地域と時代によっては「Stillborn(死産)」も新聞に告知する慣習があった(「○日に△△通りの××の妻が死産」、という告知を見つけたときはどきっとした。いかに子どもの死が身近にあったかがわかる)。

●図書館の目録
著作のある人は、本に生年が記載されており、図書館の目録にデータが掲載されていることも。たとえば英国のカトリック司祭 Fr Leo Paul Ward は1897か98年生まれか確定が難しかったが、著作に生年があったらしく、図書館の目録で判明した。(彼の父親は名士だったが、新聞検索では出生日はヒットしなかった)

●国勢調査(センサス)
ごく初期のものをのぞき、すべての国勢調査には満年齢の記載があるので生年の推定は可能だが、月日までは載っていない(設問にない)ことがほとんど。本人特定に迷ったときは、職業のほか、子どもの情報に注意。子どもが日本生まれなら、その出生年には日本にいた、ということが確認できるからだ(あえて賜暇中に本国で生む人もいますが)。女性宣教師は職業が「教師」であることも多い。設問と公開状況は国によりさまざま。以下地域別のメモ。

◇アメリカ:有用なものでは1850年〜1940年まで原本画像が公開済。合衆国のもの(United States Federal Census 末尾0年に10年おき)と、州のものがある。同じ原本がいくつものサイト経由で検索できるようになっているので、ひとつのサイトで見つからないときは別サイトでも探してみるとよい。結果が異なることがある。
合衆国の1900年は「生年と月」を書く欄あり。1890/1900/1910=女性が出産した子どもの数、そのうち存命の子どもの数を記載(出産10名、生存4名など)。1921年の火災により、1890年の記録はごく一部を除いて焼失しているのは残念。
州のセンサス(末尾5年が多い): Florida, Iowa, Kansas, Minnesota, Missouri, New Jersey, New York, Rhode Island, Wisconsin などのものが公開済。

◇英国(イングランド&ウェールズ):末尾1年に10年おき。有用なものでは1841年〜1911年まで原本画像が公開済。年齢のみ記載なので、誕生年は推定できるだけ。1911年センサスは世帯単位となり、とても見やすくなった。女性の出産した子どもの数(正確には、最後の夫により生まれた子ども数)、そのうち存命の子ども数を記載。

◇英国(スコットランド):Scotland People で原本画像を確認できる。ただし検索結果を見るところから料金が課される(さすがスコットランドw)

◇カナダ:1901年は生年月日記載1911は年月のみ記載。 1881/1891/1901/1911/1921年のセンサスには「宗教」欄があり、一家の信仰がわかる。
http://www.bac-lac.gc.ca/eng/census/Pages/census.aspx

◇アイルランド:無料公開は1821/1831/1841/1851/1901/1911 分。1851年以前のものはまだデータベースとして不充分なので、期待しないこと。1901/1911年ともに「宗教」欄がある。
http://www.census.nationalarchives.ie/search/

◇オーストラリア:英米のものに比べるとデータ化は遅れている。一部はこちらで検索可能。
http://search.ancestry.com.au/search/group/auscensus

◇ニュージーランド:こちらも、使える資料となるのはまだまだ先のこと。
http://www.stats.govt.nz/Census.aspx

【注意点】 センサスの記録は自己申告(裏付け証明書は義務ではない)のため、女性の年齢過少申告の実例多数あり。可能な限り若い時代のものを見つけること。また、調査票に書き込むのが本人ではなく調査員である場合は(調査票の前後の世帯の筆跡が同じかどうかで判断できる)、書き間違い、綴り間違いの入り込む余地も大きい。同姓同名の人がいたら、出生地と配偶者の名前が本人特定の手がかりとなる。
センサス資料は「生活レベル」、つまりはその人の生まれを判断する参考になる。判断基準は住所そのもの(どんな地域に住んでいるか)、父親の職業、そして19世紀までは住み込みの名使いの数。わたしが今までチェックした宣教師のなかで、もっとも召使い数が多かったのは「松江バンド」のバクストン (Barclay Fowell Buxton 1860-1946) の実家だった(彼は遺産も高額で、なんと£17,461。とても裕福な方だったのです)。また、宣教師の父親が牧師である例も相当数あった(とくに女性宣教師)。
アメリカのセンサスは1940年まで公開されているので、宣教師が離日後アメリカに帰国した場合、どんな晩年だったのかを推察できる資料となる。アメリカの国勢調査には住居が持ち家か借家か、その資産価値や収入、最終学歴まで書く年もあるからだ。なかには、気の毒な状況とわかる方も……(70歳を過ぎても 専門職以外で働いている、男性なのに世帯主ではなく間借り人、高齢独身の実子・複数名と同居、など)


●アメリカ人のルックス(人相書き、外見=身長、髪や目の色、顔立ちの特徴など)がわかる記録
宣教師の身長や目の色がわかるとぐっと親しみが増す。顔写真が見つかると、とてもうれしくなる。
人相書き(Description of Applicant / Description of Registrant)が充実したアメリカの資料をご紹介。

【一例】 ヘボン先生の人相書き
Dr James Curtis Hepburn の旅券申請書より
ここをクリック→ 1840.10.16

○旅券申請書
U.S. Passport Applications, 1795-1925 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=1174
https://familysearch.org/search/collection/2185145

生年月日、人相描写あり。妻帯者なら妻子のデータもあり。1916年頃から写真添付あり(画像の2枚目を必ずチェックすること)。まさに日本に行くためにこれらの書類が申請されたのかと思うと、胸が熱くなる。しかしすべての来日アメリカ人の申請書が見つかるわけではない。20世紀初頭まで、外国間の移動に必ずしも旅券は必要とされなかった(旅券なしでも日本に入国可能だった)ことはおぼえておきたい。

○帰化申請書 
U.S., Naturalization Records, 1840-1957 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=1193
いつどこで生まれ、いつ合衆国に上陸したか、人相書き、保証人など。(国勢調査にも帰化年記入が必須の年がある)
イングランド生まれのある宣教師が出した申請書には「Chinese Name」を書く欄があり、その宣教師が中国で使っていた漢字名が記されていた。

○在留届 
U.S., Consular Registration Certificates, 1907-1918 http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=2995
外国暮らしのアメリカ人が領事館に提出したもの。いつからいつまでどこに住んでいたかを記すため、在任地や離日時期の確認に使える。結婚の日付や、生年月日(宣教師一家全員の生年月日や出生地が一気にわかることも)

○戦時登録カード(男性のみ)Registration Card 
第一次と第二次大戦時、特定の期間に生まれた男性に課せられた登録証。生年月日とルックス(体格)が記載。ほかにも恩給の記録など、軍隊関係の記録公開はかなり進んでいることに感心させられる。

ついでながら、英国の記録で人相書きはまだ見たことがない。従軍登録も年齢(何歳何カ月と書く)のみで、書類に生年月日が求められていないのがとても不思議。

●旅客名簿(船客名簿)Passenger List
旅客名簿(乗船名簿)は、年代によりまったく情報の質が違う。手書きで姓とイニシャル、性別がわかる程度のもの(こんな適当なリストなら、偽名で国外逃亡なんて簡単だったろうと思えるもの)から、生年月日や本土の連絡先、人相書きもしっかり備えた名簿が存在する。ほかの資料でどうしてもわからなかったミドルネームが、船客名簿によって判明した、という例もあった。

戦争中の記録は、本人確認が厳しかったせいかひじょうに充実しているので、探す価値がある(船員の項目を見てみたら、身体的特徴を書く欄 Marks of Identification にイレズミの部位なども詳しく書いてあり、興味深かった。人相書きに関していえば、たとえば岩下壮一神父。ハワイ渡航の際の船客名簿に Crippled foot であったことが記されている)。船客名簿の利点は、同じ船で来日した人びとがまとめて確認できること。「あっ、この人と一緒に旅している!」という発見がある。

【注意点】 来日宣教師を調べていてよくヒットするのは San Francisco、Seattle、Vancouver、Honolulu 出入港の名簿。英国人の来日ルートは東回り西回りいずれもあり、現在のところ、北米(カナダ、アメリカ)経由のほうのみサーチ可能。
名簿画像を見るときは「2枚目」がないか、必ず確認すること。タイプライター打ちの名簿はともかく、手書きの名簿に期待しすぎるとがっかりする。新聞の Passenger 告知欄にも港に到着した人々の名前が記されている(港の税関に張り出された船客名簿の写しの転載)ので、ダブルチェックできる。ただし新聞の方は船名と名前のみで、年齢などはない。いつ船が入港したのか、日付けに関しては新聞が頼りになる。
タイプ打ちの乗客リストはABC順に整理されるのが一般的で、「同伴者」が別姓の場合、意識して探さないとわからないことがある(たとえば聖公会のウィリアムズ主教は1908年に建築家のガーディナーに付き添われて帰国したが、名簿の記載は別々のページになっている)。また、目的地(下船する港)別に整理されたリストもある。
余計な話題:建築家のアントニン・レイモンド夫妻について調べたら、旅客名簿がかなりの枚数ヒットした。旅の人生だったのである。彼らが実際に日本にいた年月は、短かめに考える必要があるのではないかと感じた。

ある時代から、宣教師がカナダに出入国した記録がかなりヒットする。というのも、ヨーロッパから日本に行くにはカナダ経由が早くて快適だったからだ。1894年当時、横浜から英国までカナダ経由なら4週間未満。いっぽうスエズと香港を経由する東回りでは、所要6週間だったという(Basil Hall Chamberlain の A Handbook for Travellers in Japan, 4th ed., 1894, p.529) 。

【生年月日掲載名簿の例】
1951 横浜→サンフランシスコ
1943 ポルトガル→ニューヨーク
1941 横浜→ロサンゼルス
1937 神戸→ロサンゼルス
1936 横浜→シアトル
1934 神戸→ロサンゼルス
1931 ロンドン→ニューヨーク
1930 神戸→ニューヨーク
1929 神戸→シアトル
1929 横浜→ロサンゼルス
1927 横浜→ホノルル
1921 サンフランシスコ→ホノルル
1919 横浜→シアトル

戦後、1950年代以降の飛行機の乗客名簿は、情報量が劇的に少なくなってしまい(年齢記載もない)、情報としてあまり役に立たない。ただし名前の綴りが判明したり、同じ名簿にある家族(妻、子ども)の名前とほかの資料を組み合わせて、本人特定ができることもある。
ほかに、入国カードも参考になる。カナダの Declation of Passenger to Canada など。

おおざっぱに言えば、アメリカ人の生年月日特定には利用できる資料が多い。
英国人のほうは、洗礼を受けていないと出生日特定はかなり困難だといえる。

●教会の婚姻証明書
○英国国教会/イングランド聖公会 
おそらく最も公開が進んでいるのが、イングランドの記録。年齢はもちろん、新郎新婦ともに父親の名前と職業を書くので、国勢調査でチェックする手がかりになる。また、証人2名の名前も参考になる(なぜ、結婚式には証人が2名必要なのか、証明書を見てよくわかった)。年齢に関しては、19世紀には「full(成人/婚姻可能年齢)」とあるだけで年齢が数字で書かれていない例、また2歳くらいごまかしている例もある(たいてい、女性が年上のケース。2歳若く書きたい気持ちはわかります)。よくロマンス本に登場する、特別結婚許可証(Special license)も婚姻証明書に紐づいて公開されており、一読の価値あり。

○国外の領事館への婚姻届 
英国の国教会司祭が国教会の祈祷書により執り行った結婚式は法的効力が発生するため、婚姻証明書は公的文書となる。本国に送られたそれらの文書(写し)の一部がいま公開されている。
独身で来日して、日本で伴侶(白人)を見つけ、日本で式を挙げた宣教師は何人もいる。証明書にサインした司祭や領事は誰か、チェックするのもおもしろい。
Foreign and Overseas Registers of British Subjects, 1628-1969
http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=1993

(2017年2月現在閲覧可能な資料の一部。1900年前後の記録が中心で、件数はあまり多くない)
神戸 1876〜1939 Union Protestant Church, All Saints Church
横浜 1888〜1907 Yokohama Christ Church
長崎 1892〜1903
東京 1892〜1903 St Andrews Church
大阪 1892〜1904 Holy Trinity Church
上記のほか、函館と下関での結婚記録も見つかった。函館のほうには、札幌農学校のミルトン・ヘイト (Milton Haight 1855-1896) 先生の記録が入っていた。ウォルター・アンドルーズ(アンデレス)司祭により、札幌ではなく函館で挙式していたのですね。


UK, Registers of Births, Marriages and Deaths From British Consulates, 1810-1968
http://search.ancestry.com/search/db.aspx?dbid=60911
1870-1921年の死亡と結婚の記録。東京、横浜、神戸、下関など。


●教会文書、伝道雑誌など
その教派の大会・総会記録、宣教協会や海外伝道局の月報、年次報告書など。神学校の会報なども。
記録を大事にするプロテスタントが面目躍如の分野。詳しい宣教師のプロフィールがわかることもある。
Google や Hathi Digital Library の検索で自然にヒットする(Hathi には Google がデジタル化した資料が多く含まれているが、Google とは別枠で検索する必要あり)。
とくにアメリカの大学や神学校の卒業生・同窓会名簿は大量に公開されつつある。入学・在籍はしたが卒業はしていないことが確認できるような名簿もあるので(Yale など)、「学歴詐称」の確認も容易になってきた。

●一族本(家系本)
一族本(家系本)ってなんですかそれ、と言われそうだが、ある一族の Family History を扱った本のこと。ネットで本の中身が検索できるようになるまで、わたしはこのような本のジャンルがあることを寡聞にして知らなかった。英国とアメリカでは19世紀後半〜20世紀の冒頭の刊行が多く、基本的には非売品の自費出版。つまりは系図学者と印刷所に支払いができる裕福な一族のみが刊行できたもの。大学図書館などの蔵書となり、それがいま Google さんの尽力で検索可能となっている。

「誰々の子孫・誰々はいつどこで生まれ誰と結婚し、子どもは……」というデータを何代にもわたって淡々と文章で記録したもので、たまに家系図(ラインを引っ張ったもの)や画像(肖像や邸宅の写真など)も入っていることも。その一族になんのゆかりもない人には無意味な本だが、出生日や出生地、ときには現住所が載っているので、宣教師の出自がこれで確認できた例もある。また、「○○の親戚」という風説が間違いだとわかった例も。

●名前に関する注意点
○ミドルネーム
男性は、母親の旧姓をミドルネームとして与えられ、終生使うことがある。
女性は結婚すると、独身時代のミドルネーム(あれば)を放棄し、旧姓をミドルネームに用いるケースが多い。代々、長男・長女が父親・母親とまったく同一の名前を受け継ぐケースもある。アメリカではシニア・ジュニアが有名だが、三代、四代続くケースも。英国では「ないことはない」という程度で、アメリカほど多くない。とはいえ19世紀までは一族間の「名前の使い回し」がとても目につく(名付け親を親戚に頼むというだけの話かもしれないが)
たとえば「Mary Catherine Brown」という名の、まったく同名の母娘がいたとする。こういう場合には、互いを区別するため娘はミドルネームの Catherine を第一の名前として用い、「M. Catherine Brown」「M. Kate Brown」「Kate Brown」あるいは「M. C. Brown」などと書類などに記すことがある。この手の、名前の「五段活用」にはつねに注意が必要。

○愛称・略称・イニシャルの使用
とくにアメリカでは愛称がそのまま「本名」扱いになり、書類にも愛称が記され、一見すると生誕時と死亡時で別人のようにうつるケースがある。また、旅券申請書にまでファーストネーム・ミドルネームをイニシャルにしたままの人も実際にいた。
日本的な常識で考えると、「こんなこと許されるの!?」と驚くケース多数あり。

○女性の改姓
結婚による女性の改姓にはつねに留意すること。人によっては2度結婚し、生涯で3つの姓を名乗る人もいる。
旧姓を子どものファーストネームやミドルネームに使う例がよくあるので、本人特定に迷ったときは子どもの名前に注意しよう。
【注意点】この下で述べる Ancestry.com などの家系探訪サイトで検索するとき、女性の旧姓を入れるか結婚してからの姓を入れるかで、出てくる結果がかなり違う。結婚後の姓が判明しているなら、どちらも調べてみるべし。

●家系探訪サイト
「自分のルーツを探したい」という人びとの期待に応えて、英語圏では多くの家系探訪サイトが開設されている。このルーツ探し願望は移民の国アメリカにおいてことのほか高く、某新聞検索サイトでは「(出生・結婚・死亡などの告知を通じて)あなたのご先祖を探そう!」をうたい文句にしているほどだ。新聞検索サイトでは単純なテキストを探すことしかできないが、家系探訪サイトのすごさは、「この人とこの人は同一人物ではないか」と、記録同士の関係をマッチングしてくれる点にある。ネット環境のインフラ整備に加え、この情報解析プログラムの発達がもたらした成果は計り知れないといってよい。いまや、家から一歩も出ることなく、各種公文書やデジタル化された図書資料を使って先祖の足跡を調べ上げ、オリジナルの家系図を作り、親戚を探すことなどが可能になっている。

有料サービス最大手は Ancestry.com。いままで紹介してきたデータベースも、多くはここのもの。べつに英米に先祖を持たない日本人でも、19〜20世紀の歴史上の人物を調べるために利用できる。もし自分の先祖や親戚に、1960年頃以前に英米に旅行した人、1940年以前に駐在した人がいれば、名前を調べてみてもおもしろいだろう。国勢調査や旅客名簿、入国カードに足跡が残っている可能性がある(アメリカの神学校に留学していた日本人牧師の記録を何人も見つけました)

ここの最大の利点は、利用できる基礎データが多く、細かな設定で串刺し検索できること(単品資料での検索も可能)。串刺し検索の圧倒的な便利さは、いくら強調してもしすぎることはない。たとえば、英国から米国に渡ってさらに日本で亡くなった人がいた場合、それぞれの地での資料検索はたとえ可能であっても、結びつけることは難しい。それが串刺し検索によって、同一人物の記録ではないかと関連性が表示されるのである。
データは毎月増強されており、1年前になかった情報がいまならアクセス可能、ということもしばしば(使っている本人の実感です)。先に挙げた略称の注意点も考慮した上で検索結果を出してくれるのも良い。
自分で家系図や Facts のページ(利用者が人物の資料をまとめたページ)を作って、手持ちの資料(写真など)をアップすることも可能。調査対象者の子孫を探したり、利用者同士がコンタクトする道も拓かれている。

【注意点】 無料トライアルにもクレジットカードが必要。いきなり1年契約は避け、まず最低料金のみ払って様子を見よう。退会手続きしてしばらくすると、割り引きオファーがメールで来る(2016年7月当時の1年会費=約180ドル、月1,200円程度)。メンバーの紹介で加入しても安くなるし、会員権をギフトにして他人に贈ることも可能。
他人の作った Facts ページは参考にはなるが、やはり善意の素人が構築したものなので、別人と取り違えていたり、資料解釈が間違っていることもある。最終判断は必ず自分でおこなうこと。Ancestry の Facts はメンバー以外に見えないエリアにあるが、いっぽう、同類の家系探訪サイトに書き込まれた「素人系図学者」の作品が通常の検索で読めることもある。一見、あたかも権威のある情報のようにうつるが、実際のところは玉石混交。あくまで参考程度に。
わたしが「見ることができてよかった」と思ったコレクションは、英国の国教会聖職者年鑑、医師年鑑、英国系フリーメーソンのメンバーリスト(台帳)、航海士・船長免許控えなど。ヒットして驚いた記録は、刑務所やワークハウスの履歴、軍隊の病院や精神病院の記録、離婚裁判の記録など。学校の卒業アルバムや同窓会名簿など、思わぬ資料が検索できるいっぽう、新聞に関しては情報が少ないので別のサイトで調べた方がよい。また、スコットランドのセンサス原本画像を見るには Scotland People に行く必要がある。
まとめると、 (1) なんでもかんでもすべてが Ancestry でわかるわけではない (2) それでも、驚くほど多彩な資料がここでアクセス可能! 

無料でアメリカの国勢調査ほかのデータを見るには末日聖徒イエス・キリスト教会提供のファミリーサーチ FamilySearchがある。こちらも串刺し検索ができて便利。主義主張があってモルモンのサイトは避けたい、という人をのぞき、利用価値あり(資料によっては有料サービスの findmypast に誘導される)。原本画像そのもの、また検索用データも Ancestry.com とはまた別のデータ/マッチング機能を使っているので、Ancestry で探せなかったものがこちらで発見できることも。

◆   ◆   ◆


いま見つからなくても、3カ月後には新たな記録がデータベース化され、見つかるかもしれない。
そんな世界にわたしたちは生きている。
(その昔、外国にまで行って苦労して資料を探していた先達者の皆さま。ヒキコモリのヤギタニでも調べものができ、クレジットカードで資料画像が取り寄せできる世の中になってしまってごめんなさい)
2017年2月、ヤギタニ記。ちまちま追記する予定です。

【おまけ】 とある宣教師をチェックしていたら、その人を共同被告人にした離婚訴訟の記録を発見して唖然(思わず中味を読んでしまったヒマなヤギタニ(笑)。これぞ串刺し検索の成果であろう。「2015年まで非公開」と表にカキコしてあり、百年の封印が解かれたものだった。ご本人はいまごろ泉下で「ヤギタニにだけは見つけてほしくなかった」とつぶやいているかも……)

ver1.0 2017/02/09

posted by やぎたに at 21:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする