2018年04月27日

国際結婚第一号 南貞助の妻イライザの消息 2-後半生

最終更新 2018/05/11 ver.1.4


国際結婚第一号、南貞助と結婚した英国女性イライザ・ピットマン(Eliza Pittman)の消息を探るの巻、その1-前半生のつづきでございます。
植木屋を父に、8人きょうだいの末っ子として生まれ、23歳で日本人の南貞助と結婚したイライザ。日本に渡ったものの34歳で離婚し、英国に戻った彼女にいかなる生活が待っていたのか。
国勢調査から見えてくる暮らしぶりは、決して悪くないものでした。
その様子を語る前に、まずは彼女が日本にいたあいだの、身内の動きを見ておくことにしましょう。
親兄姉のことなんて関係ないのとちがう? なぁんて思ったら大間違い。関係大あり!でした。


イライザの足跡を追った総合地図 →GoogleMyMaps


◆   ◆   ◆


【国勢調査(センサス)の記録-2】
●1881年 母亡きあと、父と姉はどうしていたか
イライザが英国不在の年のセンサスです。
この年、77歳で寡夫の父チャールズはクロイドン Croydon のすぐ西、ベディントン Beddington のコテージに引っ越していました。正確な場所は不明ですが、現在の Waddon 駅と Wallington 駅の中間あたりでないかと推理します。国勢調査票の前後に掲載された方々の職は、やはり園丁や農夫が多いですね。

ひとつのコテージに3家族、合計9名が居住していました。チャールズの世帯は、家政婦さんとの2人暮らし。家政婦さんの名前はハリエット・ヒル Harriet Hill、独身、35歳。むむ、この名前、どこかで見たような……?
(ここで気づいたヤギタニ、すごい! 臆面もなく自画自賛!)
そうだ、1871年の国勢調査票! チャールズの名前のすぐ上に記載されている女性の名前が同じ Harriet Hill でした! ただの偶然ではありません。同じ番地に下宿していた女性と、10年後にチャールズはひとつ世帯で暮らしていたのです。なんとなんと。

親子ほど年の離れたふたり。ただの高齢男性&雇われた家政婦という関係だったのか。それとも……? そもそも、チャールズには存命中の実子がいるのに、どうして実子の世話になっていないのか(福祉の制度が整備されていない当時、身内がいれば身内で面倒を見あうのがふつうです)。実子を頼らず、他人の世話になる背後には、どんな事情があったのか……
*こんなチャールズのもとに、南貞助は書留郵便で手紙を送ったといいますが、高齢の庭師が返事を書いてしかもそれを国際郵便で送るなんてこと、相当ハードル高かったに違いありません。(いやその前に、ちゃんと届いたのかしらん貞助の手紙?)

そして、イライザの姉マリア。彼女はもうピムリコにはいませんでした。テムズの南岸、かつて暮らしていた場所に近いカンバーウェル Camberwell のペッカム Peckham に戻り、54 Parkstone Rd(通りは現存せず)で暮らしていました。1つの番地に2世帯が入っていて、彼女の家族は12歳から2歳までの4人の子ども(全員、ピムリコ生まれ)。住み込みの召使いはなし。マリアの職業は「石炭商人」になっています。

(こちらも職業:石炭商人)はピムリコにいました。ただし以前の Lupus St ではなく、別の住所の単身世帯です。同じ番地の居住者は彼を含めて7名。仕事の都合でマリアと別居していたのか、実質上の離婚ということなのか、事情はわかりません。ただし Directory(住人人名・住所録)の記載を見る限り、1880年頃にはお店の経営を縮小していたようです。死亡は1880年代後半と推定されます。ちなみに官報の破産者告知に名前は見えず。

上述のように、マリアは4人の子と暮らしていましたが、2歳の末息子の名前がユニークです。「Tesk M Collins」、とても英国人の名前とは思えない。書き間違いにしては妙ちくりんではありませんか。

別の資料で、この不思議な名前の謎が解けたときの驚きといったら。――あら、もう想像はついちゃいました? イライザの甥っ子にあたるこの子については、またあとで。
なお、1890年の Peckham の Directory にマリアの名前は未掲載でした。つまり、ちゃんとしたお店を経営していたわけではないと思われます。

1883 Mrs Minami passenger.JPG

イライザが1883年に日本から去ったことを示す船客名簿
4月5日に横浜を出港し香港に向かった Bangalore 号の旅客に Mrs Minami の名がある
Japan Weekly Mail, 7 Apr 1883, p.227. より


●1891年 イライザ、姪っ子とともにアッパーな暮らし?
さあ1891年、イライザは英国にいます。帰国した彼女はどこに暮らしていたのでしょうか。
最初に指摘しておきたいのは、彼女は離婚後もずっとイライザ・ミナミ Eliza Minami という名前で通したということ。再婚はしませんでした。また、旧姓を加えて Eliza Pittman Minami と名乗ることもなかったようです。

日本をあとにして7年が経過。1891年に、彼女の住所はちょっと意外な場所にありました。
47 Abingdon Villas, Kensington。ハイストリート・ケンジントン Hign Street Kensington 地下鉄駅の近く、品の良いエリアです。少なくとも、貧困にあえぐ人が「世帯主」として(召使いではなく)住める地域ではありません。



残念なのは、イライザと貞助が新婚当時に暮らした場所についての資料がないことです。前述のように、婚姻届けが出た場所はケンジントン。ひょっとしたら、ここと同じ家、あるいはこの近所で新婚生活を送った可能性もあります。

イライザは4*歳(ばってんが邪魔して数字読めず)の「寡婦 Widow」になっています。貞助は日本で生きてるのに、未亡人とは何ごとか? とツッコミたくなりますが、まだ離婚がめずらしかった当時は、たとえ離婚者でも Divorced と正直に書く人は少数派でした。職業欄は「Private M」、すなわち「private means」=不労所得で暮らしを立てている、の意ですね。これは、貞助さんが離婚後も律儀にお手当てを送金していたことを意味するのではないでしょうか。それ以外に彼女の暮らし向きが(結婚前よりも)向上した理由が思いつきません。日本帰りの事情通として、どこかの商社からコンサルタント代をもらってた……なんてことはまずないでしょうし(サリー・ロックハートじゃないんだから)

世帯にはイライザのほかに3人。まずコリンズ姓の独身女性2人――そう、姉マリアの長女イーディス Edith Louise と次女スザンナ Susannah です。あとの1人は召使いではなく、下宿人のアメリカ青年でした。住み込みの召使いはいませんが、通いだったかもしれないし、実質的に姪っ子たちを女中代わりにしていた可能性もあります。
ただ、わたしの解釈では、姪2人との同居は「姉の窮状を知ったうえで、年頃の姪には良い縁談が舞い込むよう、見苦しくないお屋敷に住まわせた親切」のあらわれだったように思います。なぜなら、のちにイーディスはソコソコの「良縁」をつかんでいるからです(後述)。

カウンティと教区の選挙人名簿 Electoral Registers(List of Persons Registered as County and Parochial Electors)では、1892年〜1900年版までイライザの住所はここになっています(1890、1891年版は同住所に登録者なし)。ところが、Directory を見てみると、1895年版でなぜか47番地は欠番!(下の画像参照) 住人の名前がありません。ずっと住んでいたはずなのに、Directory には載っていない謎のミセス・ミナミ…… どういうことなのか、不思議ですね。

1895 London Directory Abingdon Villas.jpg

1895年の Abingdon Villas(北側、奇数番地)の住人たち
なぜか47番地が未掲載
出典:Post Office London Directory For 1895 (Street Directory, p.163)


*お屋敷の現在の姿をぜひご覧あれ! →Google StreetView
1975年当時の白黒写真
* 通りの研究 建物の外観もわかります The Abingdon Villas and Scarsdale Villas area


さて、今度は父チャールズ(86才)です。彼は10年前と同じベディントンの Church Path にいました。教区教会である St Mary's Church(聖マリア教会)のすぐ横です。1891/1892年の Electoral Registers では Sunnyside, Church Path, Beddington, Croydon とあり、おそらくここが死亡時の住所でしょう。職業は「Retired Gardener」、仕事はやっと引退です。

同居していたのは、前回と同じくハリエット・ヒル(召使い、年齢さば読みで42歳)、そして間借り人にトマス・ヒル Thomas Hill という24歳の農夫。ふたりとも独身ですが、姓と出生地が同じなので、親戚もしくは親子(非嫡出子)とも考えられます。

* 同居していた Thomas Hill について。国勢調査は「世帯主から見た関係」しか記載されないので、ハリエットとトマスとの関係は不明でした。しかし、その後ハリエットの実家をつきとめ、妹弟の動きを追ってみたところ、このトマスがハリエットの末弟 George Thomas Hill と同一人物であると確信するに至りました(ただし末弟は1863年の後半に出生登録されているので、1891年の国勢調査当時の正確な満年齢は27歳。彼の出生前にハリエットは家を出ていたものと思われる)。末弟はその後もベディントンに住みつづけ、ハリエットの支えになったのではないかと推定されます(後述)。

そしてチャールズは翌1892年の1月はじめ、ここベディントンで亡くなりました。聖マリア教会の教会墓地に埋葬されたのは1月12日のこと。教会の台帳には、年齢は80歳と記録されています。
彼は国勢調査では妻より年上になってましたが、上記の記録が正しいのなら、3歳くらい若い夫だったことになります。
謎のハリエットについてはまたあとで登場するのでお待ちください。

次に姉マリアです。娘ふたりがイライザと暮らしていたことは上で書いたとおり。マリアはどうしていたのかというと、前と同じカンバーウェルのペッカム、38 Azenby Square(通りは現存せず。Directory 記載なし)にいました。個人収入で暮らす(Living On Own Means)未亡人、同居しているのは12歳の息子スティーヴン Stephen と5歳の末娘リリー Lilly。リリーの出生地はペッカムの東隣の New Cross になっていることからすると、何度か引っ越ししていたようですね。

国勢調査で判断する限り、マリアには少なくとも6人子どもがいました(全員実子かどうかは不明)。長男は兄ジェイムズの娘、つまり本人の従妹にあたるハリエット(父の家政婦とは別のハリエット)と結婚して、ジェイムズの家に同居していました(職業 Sweetshop's seller 菓子屋の店員)。次男の消息は不明。長女イーディスと次女スザンナはイライザと同居。三男と三女が実母と暮らす、という状況でした。それで、前のセンサスにいた息子の「Tesk M」はどこへ? ―― はい、実はこのテスク君、スティーブンと同一人物だったんです。Stephen の愛称が Tesk ってこと? いや、違います。

ここで種明かしをすると、マリアの三男のフルネームは Teiske [Teske] Minami Stephen Collins。そうです、この子は義理の叔父・南貞助の名前をもらっていたのです! といっても出生時に登録された名前は、Stephen のみ。Teiske Minami [Teske Minami] の名が登場するのは国勢調査や結婚、選挙人の登録などです。

テイスケ・ミナミ・スティーヴン・コリンズの出生が登録されたのは1880年。1880年ということは、父のトマスはまだ健在、そしてイライザ離婚の3年前。イライザがまだ日本にいるときです。なぜロンドンに住む甥っ子に貞助の名前がついたのか。いろいろな想像ができますね。
    妄想アワーの開始:
    結婚してなかなか子どもが生まれず、あせるイライザ。貞助の資産を受け継ぐ子どもがほしい。養子をもらうというのはどうか。日本人ではなく英国人の子。姉には何人も子どもがいる(兄のジェイムズもそれにまさる子沢山だったが、マリアのほうが親しかった)。生まれた甥っ子に貞助の名前をつけてもらい、いわば予約済状態にした。
    あるいは、イライザのあずかり知らぬところで、マリアが独断で日本人義弟の名をつけてしまったのが真相。そう、当時マリア夫の仕事がうまくいかなくなり、この子のために「裕福な日本人」の支援(遺産)を確保したかった! とか。手紙で知らされたイライザはびっくり!? でもうれしい♪ なんて状況だったりして。
    :妄想アワー終了

●1901年 イライザはお店を経営、姉マリアは家政婦に
1901年、50代になったイライザ。最後のセンサスは、死の1年前となります。彼女はどこにいるでしょうか。

ケンジントンにはもういませんでした。前回姉マリアの住んでいたペッカムのやや南側、ナンヘッド Nunhead 駅の近く、82 Ansdell Road の住人となっていました。



51歳の未亡人、今度の職業は「Shopkeeper (General) own account」とあり、雑貨屋を自営していたと考えられます。同居人はなく、1つの番地にひとり世帯として記録されています。Electoral Registers におけるイライザ最後の記載(1902年版)もこの住所です。
1896年の Directory を見てみると、この番地には Robert Davey, decorator(室内装飾業者)が住んでいました。1900年版では Joseph Fletcher, grocer(食料雑貨店主)とあり、82番地が店舗だったことはまず間違いありません。

1901 Punch general store.jpg

Punch, 6 Feb 1901, p.113. より
当時の General Store の雰囲気がわかるイラスト
イライザもカウンターのうしろに立ったのだろうか


残念ながら彼女の名前の入った Directory は見つかりませんでしたが、再婚せず独り身を通した彼女は、「お店を持って自活する」という、労働者階級の女性の夢を最後にかなえたのかもしれません。
いよいよこのあと、イライザに死が訪れますが、その話はもう少しあとで。

いっぽう、1901年に姉マリアはペッカムの 38 Victoria Road にいました。現在の Bellenden Road、Peckham Rye 駅の近くです。世帯主はジョン・ノット John Knott(1848/10 Tavistock, Devon 生まれ)という独身52歳のヴァイオリニスト(1900年版 Directory によるとヴァイオリン教師 teacher of violin)。マリアは彼の家で住み込みの家政婦 House Keeper になっていました。

息子のスティーヴン(Teske の表記はない)22歳と、末娘のリリアン15歳も下宿人(賄いつき)として一緒です。前者の職業は Railway Porter(鉄道の赤帽さん)、後者は Necklace maker(首飾り製造者)。イライザがもと帽子を作っていたことを思い出します。
独身の音楽家ノットさんが子連れの未亡人マリアに空き部屋を提供し、そのうちマリアに身の回りの世話をしてもらうようになった、というような展開でしょうか(またまた妄想)

1909年、カンバーウェルで64歳の Maria Collins の死亡届けが出ています。イライザの死から7年後のことでした。

あくまで10年おきの国勢調査を見た限りのことですが、イライザとマリアの姉妹を比較すると、イライザの帰国後の生活は(物質的な意味では)そう悪いものではなかったといえそうです。彼女は誰かの世話にならず、下宿人にもならず、ずっと「世帯主」でいたのですから。

●1911年センサス、姪と甥と
イライザの死について触れる前に、一連の関係者のなかから、マリアの子どもたちふたりのその後を紹介しましょう。

まず、マリアの長女で、一時イライザとケンジントンで暮らしていたイーディス。1897年、彼女が結婚した相手はトマス・エドワード・ウェブ Thomas Edward Webb という32歳年上の医者でした。ペッカムの 13 Commercial Road に診察室をかまえ、125 Evelina Road でも暮らしていました(後者は、1901年当時のイライザの家から徒歩数分の距離)
子どもは生まれず、結婚10年で夫は亡くなり(遺産額£1,002)、1911年には未亡人としてペッカムでひとり暮らし。彼女はその後も独身を通して、1953年に亡くなります。

マリアの三男・貞助スティーヴンも結婚し、1911年にも10年前と同じ 38 Victoria Road にいました。叔母も母もすでに亡く、いるのは妻と下宿人。世帯主となった彼は、初めてセンサスでフルネーム「Teske Minami Stephen Collins」を使っています。
仕事は Insurance Agent(保険代理店), Prudential Assurance Co. Ltd [現在の Prudential plc のことか?] となっており、鉄道の赤帽から大躍進しました。
*フルネームを記した営業用の名刺を使い、変わった名前なのでお客さまにすぐ覚えてもらえます、などと言ってる姿が浮かびます。妄想ですが
*「Teske」はスラブ系ドイツ人の姓でもあるので(そちらのほうも珍しいけれど)、ドイツ系だと思われた可能性もありますね


この貞助スティーブンは、その後2つの世界大戦を生き延び、ごくふつうの市民として(=良くも悪くも、官報や新聞に載るようなことはせずに)生涯を終えたようです。亡くなったのは1950年。英国と日本が交戦状態になったとき、彼の胸を去来したのはどんな思いだったのでしょうか。

1909 Teiske Minami Stephen Collins marriage b.jpg

1909年、Islington の St Saviour Church でおこなわれた
結婚式におけるスティーヴンの署名(画像は加工してあります)。
Teiske Minami Stephen Collins とサインしている
出典:Church of England Parish Registers. London Metropolitan Archives, London.
Ancestry.com. London, England, Church of England Marriages and Banns, 1754-1932 [database on-line]. Provo, UT, USA: Ancestry.com Operations, Inc., 2010.


彼について特筆すべきことがあるとしたら、それは配偶者運の悪さです。少なくとも4回結婚していて、そのうち3回は死別でした――1902年結婚のアニーはわずか23歳、1909年再婚のエリザベス(上の婚姻証明書の女性)は46歳、1923年結婚のジョージーは63歳で逝去。4度目の結婚は1940年、彼が60歳のときでした。最後の妻エミリーがいつ亡くなったのか、また、彼に子どもがいたのかどうかもわかりません。ただ、イングランドの出生登録を検索した限りでは、「Teske Minami」の名前を受け継いだ男児は存在しないようです。

【1902年 イライザの死と埋葬】
いよいよイライザの死について語るときが来ました。
逝去した日は、1902年7月9日。満53歳でした。
遺言検認索引に記された最期の住所は「5 Wandle-terrace Richmond-road Beddington Surrey」となっています。ベディントン――そう、父チャールズの最後のセンサスの住所と同じ町です。彼女は前年のナンヘッドではなく、かつて父の住んでいた家から徒歩10分ほどの場所で亡くなっていました。前述の通り、Electoral Registers にあった最後の住所はナンヘッドでしたから、彼女はベディントンに住所を移して1年以内に逝去したことになります(引っ越したわけではなく、たまたま訪問した先で頓死した可能性もある)



イライザの遺産額は£396 14s. 3d(396ポンド14シリング3ペンス)。労働者階級の「未亡人」にしては、決して少なくない金額です。遺産額がわかるのは、遺言検認索引に記載があったから。相続の執行人は兄のジェイムズでした。

*検認索引にはただ Administration とあるので、残念ながら遺言状があるわけではなく、兄が死亡を確認して相続手続きしたという意味合いのようです。10ポンド払えばここから閲覧できますので、関心のある方はどうぞ。

埋葬されたのは、1902年7月14日。父と同じベディントン・聖マリア教会の教会墓地に葬られました。

St Mary Church Beddington.jpg

Google StreetViewによる教会墓地の眺め
画像にある墓碑のどれかがイライザのものかもしれない


*Noboru Koyama の前掲論文によれば、墓石には以下のように刻まれているそうです。

'In Memory of Eliza Teiske Minami, who departed this life, July the 9th, 1902. The marriage in 1872 of the above Eliza Teiske Minami, an Englishwoman, with Teiske Minami, a Japanese, was the first known union between subjects of the two countries.'
[Noboru Koyama, ‘Three Meiji Marriages between Japanese Men and English Women’ − Hugh Cortazzi, Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol.4, 2003, p.393]


もし聖マリア教会でイライザの墓碑を見つけた方がいたら、ぜひご一報ください。



【 イライザの兄ジェイムズと、エドワードはどんな仕事をしていたか】
イライザの死亡届けを出した兄ジェイムズ。職業は、1862年の結婚当時が父と同じ Gardener、1891年は「General Labourer(雑役労働者)」、1901年には「Carman(荷馬車の御者)」、1911年は「firewood cutter(薪を切る人、薪屋)」。1911年には娘の Eliza Coleman の一家に同居していて(足が不自由との記載あり)、娘婿もその兄も全員同じ職業でした。イライザの遺言検認索引には「retired wood-dealer(引退した材木商)」となってますが、相当ふくらし粉をかけた表現です。
1898年に先立った妻とのあいだに少なくとも9人の子どもをもうけ、1915年、Wandsworth で亡くなりました。

すぐ上の兄、エドワードも同じく肉体労働者でした。1881/1891/1901年の職業は(港湾)労働者、1911年には Night Watchman(夜警)。同居している息子や娘たちの職業は、雑役労働者、荷馬車の御者、洗濯女、召使い。9人の子どもをもうけ、1911年当時7人生存。1914年に Richmond, Surrey で亡くなりました。
この、ジェイムズとエドワードの子孫はいまもどこかにご存命かもしれません。

余計な話ですが、イライザの兄姉はおしなべて子沢山です。このことを貞助が知っていたのだとしたら、「彼女と結婚すれば自分も子沢山♪」と期待しちゃったかもしれませんね。

◆   ◆   ◆

【最後のミステリー 謎の家政婦ハリエット】
さて、イライザの父の面倒をみていた家政婦ハリエット。彼女はその後どうなったのでしょう?

上述のごとく、イライザの父チャールズは1892年におそらく Church Path, Beddington で亡くなっています。9年後の1901年国勢調査を見てみると、ハリエットはまだベディントンにいました。住所は 5 Richmond Road, Beddington ―― あら、どこかで見たような住所だな……そう、イライザの最終住所と似ています……

  イライザ(1902年) 5 Wandle-terrace Richmond-road Beddington Surrey
  ハリエット(1901年) 5 Richmond Road, Beddington, Surrey


Wandle Terrace を抜けば同じ住所でないの?

これは偶然とは思えません。実は、同じ場所ではなかったでしょうか?
*Wandle 川にちなんだ命名とおぼしき「Wandle Terrace」は、建物の名前(「うぐいす荘」みたいな)と考えればあり得る! と強引に解釈
つまり、イライザは、ハリエットと同じ家で亡くなった…… もっと想像をたくましくするなら、父と同じように、ハリエットに看取られながら亡くなった? なんて可能性はないでしょうか。

もう一度センサスの記録を思い起こしてみましょう。イライザの父チャールズは1871年以降、自分の家族と暮らすことはありませんでした。イライザは帰国後、姪と同居はしても、父を引き取ったりはしていません。なのになぜ、最後の最後に、父と同じ町、父の家政婦(イライザより4歳年上)の住まいと同じ住所で最期を迎えたのか。ハリエットが呼び寄せたのか、イライザが押しかけたのか、もしやふたりは友人か?

謎の家政婦、ハリエット・ヒル。彼女はピットマン一族にとってどんな役割を果たしたのか。それはミステリーとして残りました。
*別にイライザの兄ジェイムズにうらみはないけれど、わたしは、彼が「本来ハリエットもしくはマリアが受け取るはずだったイライザの遺産を、強引にもぎとったワルモノ」であったという可能性のことを考えてしまいます……はい、十割妄想ですが

●ハリエットとその身内たち
イライザの父だけでなく、イライザともなんらかの関係があったらしいハリエット。
1901年のセンサスでは彼女が世帯主となっていて、職業は洗濯ものの請負(自営の洗濯業)。同居人は60歳の義弟ジョン・ソーントン John Thornton(足が不自由 Cripple という記載あり) および幼児2名(里子、養い子)、合計4名の世帯でした。

この義弟ソーントンは、ハリエットの5歳年下の妹セアラ Sarah Hill の夫にあたります。さて、もういちど1881年センサスをよーく見てみると、ハリエットの名前のすぐ下にこのソーントン夫妻の名前が……! お隣に住んでいたのです、妹夫婦が。絶対に偶然ではありえない。

* ハリエットとこの妹セアラは、ヒル家の7人姉妹のなかでややイレギュラーな扱いを受けています。ひとりだけよそに奉公に出されたハリエット。そしてセアラは、1871年センサスでは、ひとり、隣村の伯父宅で家事手伝いをしているのです。彼女はその隣村で結婚相手を見つけました。それがジョン・ソーントンだったわけです。弟3人は故郷を出て Leicester、Oxfordshire、そして Surrey に移住しましたが、姉妹たちのうちで家を離れ、しかも遠い大都会ロンドンまで出ていったのは次女のハリエットと四女のセアラのみです。残りの姉妹は全員 Warwickshire にとどまり、そこで生涯を終えました。
なお、姉妹の母親も、寡婦になってからは娘たちとともに洗濯女をしていました(1881、1891年センサスによる)。


このソーントン夫妻、1891年にはどうしていたのでしょうか。またセンサスをチェックしてみると、ベディントンの西隣・ウォリントン Wallington に住んでいました。ハリエットにとっては、妹夫婦が近居してたわけです。そのときの義弟の職業は「Gardener」! これまた偶然とは思えません(それまではただの Labourer でしたから)。ハリエットの妹セアラは子どものないまま1894年に亡くなったため、残されたソーントンは義姉にあたるハリエットと共同生活を送る状況になったのでしょう。親族同士の相互扶助の典型例ですね。


ハリエットのことも国勢調査などでチェックしてみました。一部の家族の消息も含みます。

●ハリエットの動向
1845年1〜3月 George & Anne Hill を両親に、Priors Hardwick, Warwickshire で生まれる(7女3男の次女)
1845年5月 Priors Hadwick 教区教会で洗礼を受ける
1851 父 George(農場労働者)母、生まれたばかりの妹 Sarah を含む6人家族、Priors Hardwick 在
1850年代 一家は5マイル西の Fenny Compton, Warwickshire にうつる
1861 きょうだいでひとりだけ、実家を出ている(Staffordshire で女中奉公?)
1871 ロンドンの Brixton で、チャールズ・ピットマンと同じ家に下宿(職業記載なし)
1879 父逝去(65歳)
1881 ベディントンに移り住んだチャールズ・ピットマンの家政婦として、ふたりぐらし。隣家には妹セアラ(34歳)とその夫ソーントン(40歳、労働者)が居住
1891 同じ住所に、チャールズの家政婦として暮らす。末弟ジョージ(27歳)も同居。妹セアラとその夫ソーントン(職業 gardener)はウォリントンで近居
1891 7月、末弟ジョージ(職業 gardener)がウォリントンで結婚
1892 チャールズ・ピットマン、ベディントンで逝去(検認された遺言なし)
1894 妹セアラ逝去
1901 ベディントンで、亡妹の夫ソーントン(60歳、職業なし)、そして2人のロンドン生まれの里子と4人暮らし。仕事は洗濯物請負。末弟ジョージ(職業 Painter)一家も近居
1902 母逝去(84歳)
1902 7月、すぐ近所、もしくは同じ家で、チャールズの末子イライザが逝去
1911 ベディントンで義弟ソーントン(71歳、夜警)、里子のひとりと3人暮らし。仕事は洗濯物請負。末弟ジョージ(45歳、House Painter)が近居、子ども9人と妻の11人家族


少なくとも人生の30年以上、ピットマン家の誰かと関わりを持っていたこと、また、確認できた限りでは1881年頃から近くに身内が住んでいたことがわかりました。とくに、末弟ジョージの存在は、ハリエットのベディントンでの生活を大いに助けてくれたのではないでしょうか。
1924年にソーントン、1927年にハリエット(83歳)とおぼしき人の死亡届けが Croydon で出ています。1921年の国勢調査が今後公開されれば、彼女の最晩年の暮らしぶりがわかるでしょう。

◆   ◆   ◆


国際結婚第一号となった英国女性、イライザ・ピットマンの話はこれにて終了。
以前、エリザベス・サンダースについて調べたとき以来の、労働者階級の「相互扶助」が垣間見える探究となりました。
教訓:労働者階級の人を追うときは、きょうだい全員の動向を追え!


☆どなたか、『嵐が丘』になぞらえて、家政婦のハリエットがイライザの生涯を語る設定の小説を書きませんか〜〜?☆


【参考文献/資料入手先】
Ancestry.com
Famiry Search
Gene Reunited
Internet Archive
HathiTrust Digital Library
Google Books

手塚竜麿「南貞助と妻ライザ」〜『英学史研究(7)』1974. *ネット版
小山謄「明治前期国際結婚の研究:国籍事項を中心に」〜『近代日本研究』Vol.11, 1994. *ネット版
Noboru Koyama, ‘Three Meiji Marriages between Japanese Men and English Women’ − Hugh Cortazzi, Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol.4, 2003.
郎女迷々日録 幕末東西 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 上
  高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 中
  高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 下


ver0.8 2018/04/25; ver1.0 2018/04/29

posted by やぎたに at 10:22 | Comment(0) | 歴史と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年04月25日

国際結婚第一号 南貞助の妻イライザの消息 1-前半生

最終更新 2018/05/19 ver.1.04


19世紀生まれの人物探究が大好きなくりほん研究室。今回と次回、2つに分けてお贈りするのは、とある英国女性の消息です。その女性とは、日本人の南貞助(みなみ・ていすけ 1847-1915)と結婚した、ライザ・ピットマン(1849-1902)なるひと。わが国における「国際結婚第一号」として知られるカップルの妻です。
このライザさん、結婚前はどこで何をしていて、離婚後はどうしていたのか。
両親の結婚からはじまり本人の埋葬に至るまで、国勢調査や登記簿、選挙人名簿の記録をたどり、今回初めて GoogleMyMap の機能を使って、彼女の移動を整理してみました。記事はいつものように長いです。
忍耐力のある人のみお付き合いください。

◆   ◆   ◆


今日はなんの日ーー?
3月14日のこと。わたしはたまたま、とある場所にいて、「今日はどんなことがあった日か」が話題になっているのを耳にしました。紹介されていたのは、「国際結婚の日」、すなわち1873年3月14日。その日、日本人男性と外国人女性の結婚が日本で初めて認められたといいます。実際に結婚が成立したのは前年の1872年、場所は日本ではなく、英国のロンドンだったとのこと。

1872年。しかもロンドン。その年号と場所を知ってがぜん関心が芽生えました。前年の1871年の国勢調査にふたりとも載っている可能性がありますから。ふたりの名前はなんでしょう?
ネット検索すると、すぐヒットしました。南貞助とライザ・ピットマン。

1871 Punch Vanity.jpg
Punch, 20 May 1871, p.208. より
こんな感じのカップルだったんでしょうか……?


国会図書館のデジタルコレクションに、明治14年(1881年)7月筆の南貞助略歴が入っているのを見つけました。
  二十四歳 サレ縣タレジ村「シ、ピットメン」氏第四女ト婚姻ス
とあります。サレ県って Surrey のことでしょうね。

国立公文書館のアジア歴史資料センターサイトを検索。なになに、長州出身の南貞助さんは、ガルトネル事件のことで箱館出張した人? ということは、函館外人墓地に眠るウィルキーさんとも会ったことがあるかもしれない! 強引な関連づけですけれど、わたしのなかでは貞助さんは函館関係者扱いとなりました。

さらに検索すると、後出の小山謄 Noboru Koyama 氏が英語でかなりの情報を書いてくださっているとわかりました。まず、女性の名前はライザではなくイライザ、もしくはエリザです。Eliza Pittman、1849年5月20日、Brixton, Surrey 生まれ。Dulwich 在住の Charles Pittman と Sarah の四女で、お母さんの旧姓は French、お父さんの職業は gardener(園丁、庭師)。James という兄がいるとのこと。
*Noboru Koyama, ‘Three Meiji Marriages between Japanese Men and English Women’ − Hugh Cortazzi, Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol.4, 2003, p.387

「サレ縣タレジ村」とは Dulwich, Surrey で確定ですね。
――ここまで情報があれば、サクサクと関係書類がヒットしそうです。

小山氏提供情報を一見してすぐわかるのは、彼女がレディの生まれではなかったことです。労働者階級なのは明らかで、結婚直前の国勢調査でどんな職業になっているのか、もしかすると召使いではなかったか、だとすると誰の召使いか、意外な人物が出てくるかも……などと期待が膨らみます。
以下、見ていきましょう。

【国際結婚第一号の女性は、なぜ「イライザ」なのに「ライザ」と紹介されているの?】

一番影響が大きいのはこの本ではないでしょうか。
小山謄『国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始』講談社 1995

小山謄(こやま のぼる)氏はこの本を上梓する前年、『近代日本研究』Vol.11, 1994 に発表した「明治前期国際結婚の研究:国籍事項を中心に」(DLはこちらから)でも「ライザ・ピットマン(Eliza Pittman)」と書いてます。ついでながらこの論文は本項の前提としてひじょうに重要なので、興味を感じた方はぜひ読んでみてください。

実は、「親亀」らしき論文が1974年に出ていました。わが敬愛する手塚竜麿氏の「南貞助と妻ライザ」〜『英学史研究(7)』1974 (DLはこちら)です。「ライザ」の名付け親は、手塚氏なのかもしれません。ただしこの論考に、名前の英語綴りは記載なし。
手塚論文には、ライザについて『略歴には「1856年ヨリ1871年マデ英国タレチ井ケンシングトン学校転習研究」』とあります。これも手がかりになりそうです。彼女は Dulwich から Kensington に引っ越したらしい。さて、それを裏付けるなにかが出てくるでしょうか。


【国教会の記録】
まずは国教会(イングランド聖公会 Church of England)の記録の紹介からはじめましょう。
イライザの属するピットマン一家は、国教徒(イングランド聖公会の信徒)でした。
両親は1833年6月1日、クラパム Clapham の聖三一教会 Holy Trinity Church で結婚しています。ここは奴隷制度廃止に大きな役割を果たした「クラパム・セクト」の面々が礼拝をささげた教会として有名。
現在、教会の結婚登記簿の記録が閲覧できますが、残念ながら当時のものは新郎新婦の両親の名前や年齢の記載がありません。ただし、ふたりが初婚だったこと、ちゃんと3回の結婚予告をして挙式したことはわかりました。当時はクラパムに住んでいたのですね。

Parish church of Clapham.JPG

両親が結婚した The Parish Church of Clapham
magnolia box サイトより


ふたりは、生まれた子どもたちに国教会の洗礼を受けさせました。
夫婦の名と、子どもたちの名前を以下に挙げてみます。

父 チャールズ・ピットマン Charles Pittman 1805/1809/1812-1892
母 セアラ・フレンチ Sarah née French c.1809-1875

 1.長男 チャールズ・ジョン Charles John | b.1834 | ★1834
 2.長女 スザンナ Susannah | b.1835 | ★1835
 3.次女 エマ Emma | b.1837 | ★1837
 4.次男 ウィリアム William | b.1840 | ★1840
 5.三男 ジェイムズ James | b.1842 | ▲1850
 6.三女 マリア Maria | b.1844 |▲1850
 7.四男 エドワード Edward | b.1846/47 | ▲1850
 8.四女 イライザ Eliza | b.1849 | ▲1850

わがイライザは第8子の四女。末っ子です。★と▲印のあとにあげた年号は、受洗年。
同じ両親の記録では、上にあげた以外の子どもは見つかりませんでした。

★印の受洗教会は St Matthew’s Church Brixton, Lambeth 以下「聖マタイ教会」
▲印は St Paul's Church, Herne Hill 以下「聖パウロ教会」
*例によって家系図を作ってありますが、今回は自粛してアップしません


聖マタイ教会の4名は、ひとりづつ洗礼を受けています。生まれてほどない時期の、幼児洗礼とみて間違いないでしょう。
いっぽう、聖パウロ教会の4人は、1850年4月29日に4人まとめて受洗しており(受洗簿画像あり)、年齢は7歳から11カ月まで。母親が40歳くらいで生まれた末子(予定)イライザの洗礼に合わせて、未受洗だった3人の兄姉も一気に片づけてみました、という展開です(こうすれば司祭への謝礼が1回で済むので、経済的に苦しかったことがうかがえる)
受洗簿をよく見ると、同じ日に同じ司祭から、近所の同業者の娘が洗礼を受けています。ピットマン家の集団洗礼は、同僚の子の幼児洗礼がきっかけだったのかもしれません。
教会に残る埋葬の記録については、後編で紹介します。


今回はイライザの足跡を追った総合地図も用意しました♪ →GoogleMyMaps


【国勢調査(センサス)の記録】
さて、イングランドのセンサスです。ある特定の日にそこに住んでいた人間の記録を書類に残すという大事業を開始し、10年おきに実施してその記録を保持し、1840年から1911年までの原本画像を公開(2018年現在)、さらに記載されている人がテキスト検索できるようになっている点、本当に英国という国をしみじみ尊敬してしまうのですが(この資料がなければ、こんな原稿を書くことは百パーセント不可能でした)、はたしてイライザの記録は残っているのでしょうか――? いままでのわたしの経験では、どう探しても出てこない人、あるいは同姓同名同年齢が多すぎて特定できない人もいます。

はい。結論からいいますと、日本にいた1881年のものをのぞき、イライザの記録はすべて発見できました。v(^-^)b
年代順に紹介してみましょう。

●1841年 6人家族
まずは、イライザが生まれる前の一家の記録から。1833年に結婚した夫婦にとって初のセンサス、1841年にはもう4人の子どもが生まれています。名前や世帯主の職業を手がかりにチェックしてみると……ありました! 構成員の名前が上のリストにぴったり一致します(ただし長男は Charles、長女は Susan と簡略化された記載)。父の職業は gardener、間違いありません。
住所はランベス Lambeth 教区、Brixton、現在の Regent Road のあたり(鉄道 Herne Hill 駅近く)でした。聖マタイ教会から1マイルほど。挙式したクラパムから引っ越していたんですね。

おもしろいことに、国勢調査の同じシートには世帯主が gardener の一家が何軒も記載されていました。近くの Brockwell Park のために雇われた園丁たちの社宅みたいな場所だったのかもしれません。

●1851年 イライザ初登場、9人家族
下のきょうだい4人が洗礼を受けた1年後、イライザ(2歳)が初めて記載されたセンサス。住まいは1本東側の通り、Herne Place に変わりました。
サリー州東地区の、ランベス・聖メアリ教会教区 Parish of St. Mary, Lambeth 内選挙人登録簿(Register of the Electors for the Eastern Division of the County of Surrey)において、1857年から1872年までチャールズ・ピットマンはこの住所(Herne Place, Herne Hill)で記載されています。



一家は両親+長男をのぞくきょうだい7名、合計9名で暮らしていました。長女の名前が Susannah と正確になりました。記載のない長男 Charles John(当時17歳)については、就職・結婚で家を出たのか、亡くなったのか、はっきりしたことはわかりません(教会の記録見当たらず)

なお、父親の職業はこのセンサスのみ「Nurseryman(園芸家)」となっています。同じシートに gardener が2名記載されているなかで、わざわざ別の名前になっているのは、仕事の質が少し違う(植物の育生をする、苗を売るプロ)ということを言いたかったのでしょう。
また、このセンサスで初めて父親チャールズが地元 Surrey ではなく、バース Bath, Somerset 生まれであることが明らかになりました。母セアラは Dulwich、子どもたちは全員 Brixton 生まれ。そして、注目すべきはセンサスの右端の欄――ここは障害の有無を書く場所なのですが、母親のところに「Deaf」という文字が!(この問題は後述)

●1861年 姪と甥が家族に加わる
10年後です。1860年の Directory には、父親の住所は Water Lane(現在の Dulwich Road)と記載されていますが、より詳細に記すと 1 Herne Place, Water Lane。10年前と同じです。ただし、一家の構成が変わりました。
両親、三女マリア(17歳、職業欄記載なし)、四男エドワード(16歳 Milk boy=牛乳配達人/牛乳屋の小僧)、イライザは12歳で職業欄には「School」とあります。学校に通わせてもらっていたんですね。そして、同世帯にファニー・イライザ Fanny Eliza Kendall(5歳)、ジョージ George Kendall(4歳)という「孫」の名が入っています。
調べてみたら、孫ふたりは長女スザンナの子ども(イライザにとっては姪甥)でした。1856年に結婚したスザンナは、この国勢調査が行われる少し前に亡くなっていたのです。

また、名前の見えなくなった姉兄についても調べてみたところ、次女エマは1859年、次男ウィリアムは1861年、三男ジェイムズは1862年にそれぞれ結婚しています。きちんと年齢順ですね。


1865_05_13_The Gardeners' Chronicle and Agricultural Gazette_415.jpg

父チャールズの名前が記された、苗の競売広告
当時は「園芸家」もしくは「植木屋」という日本語をあてるのがいいかもしれない
Herne Hill 鉄道駅(1863年開設)にほど近い 1 Herne Place に園芸店舗があった
The Gardeners' Chronicle and Agricultural Gazette, 13 May 1865, p.415 より


そして、母親の「Deaf」問題について。この国勢調査票にも同じ文言の記載があります。記載箇所は父親チャールズの行ですが、出生地が Dulwich とあるので、これはセアラの情報をうっかり1行上に書いてしまった調査員のミスと判断するのが妥当でしょう。
つまり、イライザの母親は、耳と口が不自由だったのでした。

●1871年 謎の動き! 両親の別居
さあ、イライザが南貞助と結婚する前年のセンサスです。どうやってふたりが知り合ったのか、手がかりはつかめるでしょうか?

22歳になったイライザは、67歳の母とふたりでテムズの北側に移り住んでいました。すでに兄姉は全員結婚しています。住所はウエストミンスター Westminster 地区の 4 St George's Row ――現在この通りはありません。当時の Directory から推察するに、Ebury Bridge の近く、Victoria 駅の線路の東側だったと思われます。暮らしの豊かな階層の住むエリアではなく、同じ番地に3世帯8名の名前があり、さらに店舗(後述)まであったことからすると、ぎゅうづめ生活、ひょっとして屋根裏部屋暮らしだったかもしれません。

母の出生地は Dulwich で変わりませんが、調査票の右側が折れていて、Deaf 表記のあるなしは確認できませんでした。

重要な情報ひとつ。イライザの職業欄です。そこにあった単語は「ミリナー milliner」――婦人帽を製造する人、もしくは販売する人のこと。お針子さんのお仲間ですね。あとで触れる、イライザの身内の女性がついた職業のうち、比較的上層に属するといえます(雑働きの召使いや洗濯女よりはマシという意味で)

1871 Census Eliza Pittman 280 b2.jpg

1871年のイングランド国勢調査より
母 Sarah Pittman の下に記載された Eliza Pittman(部分)
出典:Class: RG10; Piece: 113; Folio: 26; Page: 44; GSU roll: 838766
Census Returns of England and Wales, 1871. Kew, Surrey, England: The National Archives of the UK (TNA): Public Record Office (PRO), 1871

*ミリナーとは?  Needlewomen: Dressmakers, Milliners, and Slop-workers

それにしても、彼女はなぜこの住所に? お父さんはどこへ行った?
1つめの謎は、イライザのすぐ上の姉・マリアの動向を調べることで解けました。マリアはトマス・コリンズ Thomas Collins という商人と結婚していて [*]、この人が 4 St George's Row で果物屋を開いていたのです。彼はその店舗と同じ番地の部屋に義母と義妹を住まわせ、近くの 121 Lupus St(現在の地下鉄ピムリコ Pimlico 駅近く)に自宅と石炭店を構えていました。Lupus のほうを自宅にしていたことは、子どもたちの出生地としてこの通りの名前が記載されていることでわかります。

[*] Thomas Collins と Maria Pittman の婚姻は、イライザと貞助が日本に去ったあとの1874年に Kensinton で登録されています。しかし1871年にはすでに夫と妻として同居していました。Collins 姓の子どもたちが、全員マリアの生んだ子であるかどうかは不明です(前妻の子の可能性あり)。

そしてこのマリア夫婦の世帯、夫の妹(職業は女店員 Shop Woman)が間借りしていて、もう一人召使いがいますが、名前がファニー Fanny E Kendall、15歳……そう、前回のセンサスで同居していた姪っ子ではないですか。姪を召使いとして申告するとは、厳しい世界ですね。弟の George の行方はわかりません。

ともあれ、商人コリンズ氏は自分の家族+妹のほかに、妻の一族3人の面倒も見ていたことになります。この時点では、頼りになる男だったのでしょう。この、イライザのすぐ上の姉マリア・コリンズのことは覚えておいてください。あとで何度も登場しますので。

さて、父親チャールズはどこへ行ったのか。まだ亡くなってはいません。彼は前回のセンサスの住所から1マイルほど北上した 3 Hardess Street, Brixton にいました(GoogleMap)。年齢53歳(さば読み)、gardener、下宿屋の間借り人(賄いなし)としてひとり世帯。1つの番地に登録が12名という、これまたすし詰め環境でした。

なぜお父さん一人がテムズの南側に残ったのか? いわゆる単身赴任か、熟年離婚による別居か。想像を巡らせてみます。手がかりは、上で掲げた園芸品オークションの広告と、州選挙の登録人名簿です。1857年から1872年まで Herne Place の住所で登録があったことは前にも触れましたが、どうもチャールズ氏は5番地分も家を借りていたようです。この時点では、成功した園芸家だったのではないでしょうか。ところが、1873年の登録簿から彼の名前は消えてしまいます。世帯主ではなくなり、間借り生活となったからです(次に選挙の登録簿に見つかるのは1891年、死の間際)。
前掲の広告や国勢調査の結果と合わせて考えると、1871年初頭、なんらかの不運――仕事の失敗? 子どもの問題? 借金? 天災?――にみまわれ、家族解体に至った可能性が高いように思えます。
このことが、イライザに外国人との結婚を決心させた一因となった……と想像するのはいきすぎでしょうか。
それにしても、父親だけが単身テムズの南側に残った理由はよくわかりません。ピムリコでは高齢の園丁の仕事の口がないから、という理由だったのでしょうか。


●1871年の南貞助@ロンドン
ここでイライザから一旦離れて、南貞助の記録を探してみます。1871年のセンサスに記載されているかどうか…… ありました! Nagato(長門), Japan 生まれの23歳 Student(=大学など高等教育機関の学生)、表記は Teisuke ではなく「Teaske Minami」。ティースケ・ミナミですね。姓は「マイナーミ」と発音されちゃってたのかも。

1871 Census Teaske Minami b.jpg

1871年のイングランド国勢調査より
Teaske Minami と表記されている
出典:Class: RG10; Piece: 196; Folio: 62; Page: 29; GSU roll: 824589
Census Returns of England and Wales, 1871. Kew, Surrey, England: The National Archives of the UK (TNA): Public Record Office (PRO), 1871



*彼の名前は綴りの変種(誤植)が多数あるので、検索には注意が必要。誤植例として Teski / Yeiske / Manimi / Miname / Uinami など。

彼の住まいは現在の South Hampsted 駅のすぐ東、 45 Alexandra Road にありました(Google StreetView


召使いのいる中流階級の住むエリアで、下宿屋も多かったようです。貞助は賄い付きの下宿人でした。女主人は28歳のスティーヴンス夫人 Mrs Elizabeth Stevens、7歳の子持ち。下宿人2名のうちのひとりが貞助、もうひとりはインド・カルカッタ出身のトマス Thomas Brae 君。15歳の scholar(初等・中等教育機関の生徒)です。

この、トマス君と同じ家に間借りしたことが、国際結婚に踏み切る‘最後の一押し’になったのではありますまいか。大胆な推測をしてみます。貞助の「人種改良論」はけっして机上の理論ではなく、彼がロンドンで実際に混血の人びとを目にしたことに影響を受けていると考えられるからです。

同じ屋根の下に住むトマス少年も、クリスチャンのインド男性と白人女性とのハーフでした(もちろん国勢調査にハーフと記載があるわけではありません。インドに残る彼の受洗・結婚記録による推定です)。トマス少年は、顔立ちも性格も良い、理想的な混血少年だったのではないでしょうか。貞助君の「人種改良論」を後押ししてくれるような、美しい「見本」だったのではないかとわたしは想像しています。十割想像ですが。
この推理が正しければ、スティーヴンス夫人がおいていた下宿人は、2人ともアジア系の若い男性だったということになりますね。

さらに見つかった資料は、法学院の登録記録です。貞助の今回の渡英の目的は、法律修行でした。センサス実施の1871年4月2日からちょうど7カ月後に、リンカーンズ・イン Lincoln's Inn に登録されていました。

1896_The Records of the Honorable Society of Lincoln's Inn 350 b.jpg

1871年11月3日付の登録記録(画像は加工してあります)
名前は SHUNPOW TESKÉ MINAMI, of Tooky, Japan, Cizoku.
「Tooky」は「Tokyo」の誤植とわかるが、「Cizoku」は何のことか不明。
INDEX においては「SHUNPOW」が見出し(姓扱い)になっている
Lincoln's Inn, The Records of the Honorable Society of Lincoln's Inn. Vol.II. Admissions from A.D. 1800 to A.D. 1893, and Chapel Registers, 1896, p.350.


興味深いことに、同年11月11日には25歳の Goronoske Yoshiyama, of Nagato, Japan が登録されています。「Achigo Yoshiyama の息子」とあるので、日本で初めてバリスター(法廷弁護士)の資格を取った福原芳山(ふくばらよしやま 1847-1882)のことと見て間違いありません。貞助さんは彼より8日早く、すなわち日本人として初めて法学院に入学を許された人なんですね。ただし貞助は、弁護士資格を取得せずに終わっています。(資格を取らずに中退、また資格を取っても開業しない人というのも結構いました)

4月現在の貞助の下宿先から、この法学院(27 Newman's Row)までは4.5マイルほど。もし法学院入学当時も同じ住まいだったとしたら、当時のことですから往復3時間くらいは要したのでないでしょうか(いまなら地下鉄使用で片道40分弱)。

ミリナーだったイライザと、法学を学ぶ貞助がいかに知り合ったのか。この問題について、センサスからなにかを判断するのは困難です。地図を見るとわかる通り、ふたりの住まいは相当離れていて、ご近所さんというわけでもありません。イライザはピムリコの義兄の果物屋の店で売り子もしていて、そこに貞助君が果物を買いに来た? でも貞助がピムリコに出没する理由があったでしょうか? イライザが Oxford Circus あたりのお店に勤めていて、通学途中の貞助がその店に立ち寄った、という推理がいちばんそれらしいですが、まったく想像の域を出ません。

ここで1871年4月当時のイライザの状況をまとめておくと、

★22歳、婦人帽に関わる仕事をしている →働かないと生きていけない、労働者階級
★かつて学校に行っていた →読み書きはできる
★父親は園丁(庭師、園芸家、植木屋)で、耳の不自由な母親とは別居中 →父親の経済状況になにか激変があったらしい
★8人きょうだいの末っ子で、兄姉たち(うち少なくとも2名は死亡)は全員既婚者 →結婚してないのは自分だけ
★高齢の母親とふたりで、姉一家の近くに暮らす →頼れるのは父ではなく、義兄と姉

どうも、輝かしい未来が開けているような状況ではありません。
自分の生活を上向きにしてくれるような配偶者がほしい。ある程度のお金をもっているひとなら、条件は問わない。そんな心理にあったとみても見当外れではないでしょう。

1871-large-hats-fashion-Victorian-era.jpg
1871年の婦人帽
Clipartqueen.com / Victorian Ladies Dress Hats より
イライザはこんな帽子をつくってたのでしょうか


*当時のファッションを知りたいひとは、たとえば Ms Lynn Coleman のブログをどうぞ → 1872 Women's Fashions


【1872年の結婚記録】
さて、貞助とイライザの結婚の記録です。上記の小山氏提供情報と、登記簿の索引からわかることを記しますと、1872年(明治5年)9月20日、届けが出されたのはケンジントン Kensington。上で紹介した、貞助の住むエリアとも、イライザのそれとも違います。教会での記録は、いまのところ見つかっていません(教会婚を望むなら貞助も洗礼を受ける必要があるので、おそらく役所の登記だけでしょう)。上述した「英国タレチ井ケンシングトン学校転習研究」なる一節、そして届けがケンジントンで出されたことから、イライザは1871年4月以降、ケンジントンに住所を移していたものと思われます。

索引にある表記は以下の通り。
  MINAMI, Shunpou Teske
  PITTMAN, Eliza

貞助さん、リンカーンズ・インの登録簿にあった Shunpow が、今度は Shunpou に。「しゅんぽう」とはなんなんでしょうか、わたしにはわかりません(どなたか、ご存じの方はお知らせください)。
貞助=Teske という表記は今後スタンダードになります。

結婚の翌1873年、イライザは貞助に連れられて日本に向かいます。ともに暮らしていた母セアラはどこへ? マリア宅に引き取られたと考えるのが妥当なところでしょう。1875年の初頭、Sarah Pitman という67歳女性の死亡届けがウエストミンスター地区で出ています。これが母セアラの終焉と思われます。

1873_05_10 Japan Weekly Mail Mrs Munami.jpg

南夫妻の帰国を告げる新聞記事
1873年5月5日に香港から横浜に到着した Sunda 号の旅客名簿に
Mr and Mrs Munami [sic] の名前がある
Japan Weekly Mail, 10 May 1873, p.315. より


◆   ◆   ◆


【日本でのイライザ】
貞助は日本でイライザに英語学校の教師をさせたといいます。しかし、いままでの記録を見る限り、イライザが高い教養を身につける環境で育ったとは思えません。むろん、センサスの隙間を縫ってなにかの機会があった可能性はゼロではありませんけれども、結局英語学校がうまくいかなかった理由は、イライザの無教養、そもそもの実力不足にあったと見るのが自然なように思えます。

また、英国は階級社会ですから、喋り方や立ち居振る舞いで彼女の育ちが良くないことは同国人には一目でわかったはず(彼女が名女優だったなら話は別だけれど)。「レディ」ではない彼女は、当時の東京における狭い英国人社会で肩身の狭い思いをしたのではないか。もっといえば、アジアの二流国・日本の男と結婚したものずきな女として、好奇あるいは軽蔑の目で見られたのかも。そのことからくるフラストレーション、そして貞助が思ったほどの「金持ち」「高官」ではなかった、それゆえ期待したほどの玉の輿生活ができなかったという不満がねじり合わさり、家庭内暴力というかたちで噴出したとも考えられます。

イライザの家庭内暴力に堪えかねた貞助は、子どもができなかったこともあり、ついに離婚を選択しました。
イライザの帰国は1883年。従って1881年のセンサスに彼女は登場せず、次は1891年となります。

以下次号(参考文献は次号にまとめて掲載します) 

【後半生編で扱う話題】
ロンドンにいた2人目の南貞助とは誰?
イライザの父を支えた女性とは?
イライザの死亡地にまつわるミステリー
彼女の遺した遺産はいくら?
兄姉姪甥などの消息

posted by やぎたに at 20:27 | Comment(0) | 歴史と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年04月12日

埼玉の幼児教育の母・アプタン先生の名前の由来

最終更新 2018/04/27 Ver.1.4

今回の話題は、わたくしの暮らす埼玉県に16もの幼稚園を設立し、入間郡毛呂山町と大宮市(現さいたま市)の名誉町民/市民になった郷土の偉人、ミス・アプタンのこと。1880年8月24日アメリカのメイン州に生まれ、米国聖公会の女性宣教師として1907年11月に初来日、1966年7月2日に毛呂山町で亡くなりました。
彼女の正式名(親からもらった名前)は何か。また、家系や本人のルックスなども明らかにします。典拠は主にアメリカの文献によります。
幼稚園や教会での働きは本項のテーマではありませんので、ご了承ください。

◆   ◆   ◆


彼女の名前を調べようと思ったきっかけは、ミドルネーム表記の食い違いでした。
エリザベス・フローラ(Flora)・アプタンと、エリザベス・フローレンス(Florence)・アプタン。この2種類の表記のうち、どちらが正解なのか。(Elizabeth は聖公会では「エリザベツ」という表記になりますが、今回はその問題には触れません)

【ミドルネームについて】
結論からいうと、フローラでも、フローレンスでもありませんでした。
彼女のミドルネームは Fenno(フェノー)
エリザベス・フェノー・アプタン Elizabeth Fenno Upton が正確なフルネームです。

1910_Upton, Elizabeth Fenno Vassar college b.jpg

大学の校友誌に掲載されたミス・アプタンの経歴と、1910年の消息。
パリのソルボンヌ大、ドイツのベルリン大でも学んでいる。
現住所は埼玉県の川越
The Fourth General Catalogue of the Officers and Graduates of Vassar College, Poughkeepsie, New York. 1861-1910, 1910, p.223.


1920_Upton, Elizabeth Fenno Vassar college b.jpg

1920年の消息。現住所は大宮
The Fifth General Catalogue of the Officers and Alumnae of Vassar College, May 1920, p.98.


1920 Elizabeth Fenno Upton signature.jpg

1920年の旅券申請書に記された本人の署名(画像は加工してあります)
National Archives and Records Administration (NARA); Washington D.C.; Volume #: Volume 005: Japan



それにしても「Fenno」というのは、女性名としては見慣れない名前です。Flora もしくは Florence の書き間違いと解釈されてしまったとしても無理はない。
これは「名前」ではないでしょう。ミス・アプタン――以下、彼女のことはこの表記にします――の母親の実家の「姓」ではありますまいか。ミドルネームに母方の実家姓を使うというのは、英米では実によくある慣習です。最初わたしはそう推理しました。それを確認するため作ったのが、以下の家系図です。

family tree of Elizabeth Fenno Upton c.jpg

【家系図1】Family Tree of Miss Elizabeth F. Upton (1880-1966)
クリックすると拡大します


先祖の名前を整理してみてわかったのは、

○ミス・アプタンの母親の名は Elizabeth Fenno Perry、その母親は Elizabeth Fenno Curtis、つまり「Elizabeth Fenno」は3代続いた名前である
○Fenno は、ミス・アプタンの母方の曾祖母の実家の姓(family name)である

ということでした。

そして、家系図を調べていて感嘆したのは、ミス・アプタンはアメリカでも屈指の古い家柄の出身ということです。父方のアプタン家も、母方のペリー家も、17世紀後半に英国からニューイングランドに渡ってきた旧家でした(家系図に記載したのはその一部に過ぎませんが、聖書由来の名付けが多いことにご注目)。まさにピューリタンの末裔、典型的なWASPといっていいでしょう。なお、旧家の慣習に、一族の名前を繰り返し子どもにつける、というものがあります。ミス・アプタンの父の名、そして祖父の名などもそのまま息子や孫に受け継がれています。

*ミス・アプタンの曾祖母が作った刺繍作品 Rare Needlework Sampler, Phebe Wood, Danvers, Massachusetts, dated 1796 Sotheby's サイトより


【ミス・アプタンとペリー提督の関係は?】
母方はペリー Perry という一族なので、あの黒船のペリー提督の親戚と書かれることがありますが(出典は後出の森清一司祭か?)、これは事実ではないようです。黒船ペリー家も、ミス・アプタンのペリー家も、どちらも家系本(一族のルーツを辿り、そのメンバーの情報を整理して記した本。19〜20世紀の転換期によく自費出版された)が出版されており、今はネットで自由に読むことができます。それによると前者は Devonshire、後者は Wales の出身で、共通する人物は出てきません。名付けのパターンも違います。ペリー提督とミス・アプタンは無関係とみたほうがいいでしょう。親戚だったらおもしろかったんですけどね。同じ聖公会だし。


【父と継母、高学歴家族】
ミス・アプタンの父親フランシス・ロビンス・アプタン(アプトン/アプトゥン)Francis Robbins Upton (1852-1921) は、あのトマス・エジソンの片腕だった物理学者・数学者、電気技師、企業経営者。プリンストン大学、ボードイン大学、そしてドイツでも学び、ピアノを弾きこなす教養豊かな彼は、エジソンから「カルチャー Culture」の愛称で呼ばれ、全幅の信頼を置かれるようになります。アプタンの家は、個人宅としては州ではじめて「電灯がついた家」となりました。エジソンの成功は、アプタンにも経済的な成功をもたらします。
ミス・アプタンが「自給」(ミッションから給与を支給されない)宣教師として来日して、英米で「幼児教育の諸問題について研修」し、「私財を投じて」埼玉に幼稚園を設立できたのも、この父を通じて得た財産のおかげでしょう。埼玉県の幼児教育の進展に、エジソンの発明が関係していたわけです。


*Wilipedia 英語版 Francis Robbins Upton
*ボードイン大学物故卒業生録には、子どもたちの名前も掲載されている
Obituary Record of the Graduates of Bowdoin College, 1922. / Class of 1875: Francis Robbins Upton (p.58)


この父の最初の結婚で生まれた長女がミス・アプタンでした。ところが、同じ名前をもつ母は3番目の子どもを生んでほどなく、28歳で亡くなってしまいます。そのとき、ミス・アプタンはわずか4歳でした。父が再婚したのは彼女がもうじき8歳になろうというとき。ということは、幼少期の3年間を母親不在のまま成長したわけで、その体験が、彼女を幼児教育に向かわせたのかもしれません。

*余談ながら、長女も長男も名付けは母方の一族に由来しています。父方由来の命名になったのは3番目の子どもから。ミス・アプタンの父は、奥さんを熱愛していたものと思われます。

【ミス・アプタンの幼少期】
森清一司祭による伝記『みどりの舟 アプタン先生の愛仕の生涯』(以下、森清一本と記す)によると、母を亡くしたミス・アプタンたちきょうだいは、母方の祖母の家に引き取られて養育されたそうです。ミス・アプタンの祖母エリザベスは1880年当時、Brunswick で次男カーティスを筆頭にした独身の息子4人、そして3人の召使いと暮らしていました。森清一本によると、ミス・アプタンの母が死亡した年(1885)に家を売り払い、Braintree に引っ越しました。当時の Directory によれば、Elm on Hill, Braintree, Norfolk, Massachusetts がその住所。ここで小さなアプタン3きょうだいは、祖母と、独身のおじたちに囲まれて育ったわけです(うちひとりの叔父は1887年に逝去)。

森清一本には「伯父にも四人の子供がいた」とありますが、この時点で結婚して子どもがいたペリー家の「おじ」は、祖母の長男 ウィリアムのみ。下の【家系図2】を見ていただくとわかる通り、彼にはアプタン姉弟とちょうど同じ年頃の子どもがいました。一緒に遊ぶにはもってこいですが、彼ら一家が暮らしていたのは50マイルほど離れた Worcester。もともとはウィリアムの妻の祖父の家で、結婚当初は義母や義姉夫妻らとも同居していました。義祖父の死後は家を譲り受けたらしく、その後も義母、義姉らと同じ住所&世帯で暮らしました。こういう状況なので、長男ながらペリー家の実母とは同居できなかったと思われます。

family tree of Perrys.jpg

【家系図2】 Perry Family
クリックすると拡大します

Miss Elizabeth F Upton 1890s.jpg

ハイスクール時代のミス・アプタン
(『みどりの舟』口絵より 画像を加工しました)


2度目の母になったマーガレット・ストームは、ヴァッサー・カレッジ Vassar Collegeに学んだ才媛でした校友誌の結婚告知。ミス・アプタンが継母と同じヴァッサーに進学し、さらにフランスやドイツに留学したのは、高学歴両親の存在あってこそでしょう。異母妹ふたりも、フランスとスイスに留学し、帰国後もカレッジで学んでいます(余談ながら――というか、このブログは全体が余談のかたまりですが――高学歴すぎたせいなのか、それとも財産に恵まれすぎたせいなのか、アプタン家の3姉妹は3人とも生涯独身でした)

【ミス・アプタンの受洗】
アプタン家はもともとユニテリアンでしたが、継母マーガレットが聖公会の信徒だったため、ミス・アプタンも聖公会の礼拝に出席するようになったと森清一本にあります。
受洗は1900年(復活主日の4月15日?)、教会は 112 William St, City of Orange, New Jersey にあったグレース教会 Grace Episcopal Church(1905年の写真はこちら)でした。洗礼をほどこしたのは、2代目牧師のアントニー・スカイラー師(Rev. Anthony Schuyler 在任1868-1900)で、この方は同じ年の11月、84歳で亡くなっています(お墓はこちら)。All One Hundred Years of Grace : a History of Grace Episcopal Church, Orange, New Jersey, 1854-1954 という本によると、ミス・アプタンは Chancel Guild の一員として奉仕したとのこと。グレース教会は現存せず、別住所にある Church of the Epiphany and Christ Church がその流れを汲んでいます。


† 現在閲覧できる在留届けによると、妹たちのスイス留学は1907年8月から2年ほど(ミス・アプタンの初来日の時期と重なります)。別の資料によれば、上の妹 Lucy Upton が学んだ大学は Columbia University 1914、及び Barnard College 1916。下の妹は Smith College 1909、Brown University Womens College 1910。ただし、ふたりとも生涯職業には就かなかったとのこと。

Upton brothers 1907-1916.jpg

ミス・アプタンの弟妹たち
(カレッジの卒業記念アルバムより、画像を一部加工)
弟ふたりはプリンストン卒、写真が見つかったのはボードインでも学んだ下の弟のみ。
妹たちの撮影時期に7年の隔たりがあり、ヘアスタイル流行の変遷がわかる

名門ヴァッサーに学んだことは、有力な卒業生ネットワークの恩恵を受けることになり、ミス・アプタンと埼玉県との縁を作りました。ヴァッサーの先輩ミス・ヘイウッド/ヘーウッド Caroline Gertrude Heywood (1877-1961) が聖公会の宣教師として川越に派遣されていたからです。東京の立教女学院に転任となった先輩のあとを受けて、ミス・アプタンは川越初雁幼稚園の園長となりました。

*ヴァッサーにおいてミス・ヘイウッドは1899年、ミス・アプタンは1903年の卒業生。森清一本によると、1900年の大学の集会で、ミス・ヘイウッドを初めて知ったとのこと。ちなみに、大山伯爵夫人こと山川捨松は1882年、『あしながおじさん』のジーン・ウエブスター Jean Webster は1901年の卒業生でした。『あしながおじさん』を読むと、ミス・アプタンの大学生活の雰囲気が感じ取れるかもしれません。

ミス・アプタンは、日本に1907年11月〜1912年5月まで滞在したあと、アメリカ経由で英国に渡り、1914年の秋から(ミス・ヘイウッドが学んだのと同じ)聖公会の神学校 St Faith's Deaconess Training School, New York (New York Training School for Deaconesses [NYTSD] で1年間学びました。


*大学新聞掲載記事(1924年) MISS UPTON TELLS OF WORK IN JAPAN, Vassar Miscellany News, Volume IX, Number 22, 17 December 1924. *帰国時に、日本での17年の体験を語ったもの。ヴァッサーの学友たちが献金してくれたこともわかる

*ニューヨークの神学校で学んだあとのミス・アプタンの足取りを、パスポートと船客名簿の記録で追ってみると、
日本:1915年10月〜1916年3月〔大宮初の幼稚園を開設〕
英国:1916年3月〜1917年10月
日本:1917年12月〜1920年6月〔大宮に住む〕
英国:1920年8月〜1921年4月
日本:1921年10月〜1924年9月
ベルギー→アメリカ:1929年10月
フランス→アメリカ:1931年9月
日本→アメリカ:1941年4月17日
第一次大戦中のさなかに日本・アメリカ・英国を船で行ったり来たりしていた行動力(と財力)は特筆ものですね。1939年9月に読売新聞の取材を受けたとき、「ロンドンでツェッペリンの空襲を受けた経験がある」と語っています。また1941年の日米開戦前に帰国せざるを得なくなったとき、「35年のうち一度国に帰っただけ」とも語っていますが(読売新聞1941.04.18)、これは大袈裟な表現だったようです(帰国はしたが、自宅には帰還していないという意味か?)。


◆   ◆   ◆

【瞳は灰色】
さて、ミス・アプタンについて「クリ色の髪で青い目の美しいアメリカ女性」という形容を見つけました(読売新聞埼玉版1977.11.18)。しかし、目の色は青ではなく灰色だったことが旅券の人相書きに記されています。

【ミス・アプタン 人相書きの変遷】
年齢  | 25歳     | 31歳      | 39歳
身長  | 169cm     | 168cm      | 〃 
額   | 高い     | 中くらい     | 〃
瞳   | グレイ(灰色)| 〃       | 〃
鼻   | ふつう    | まっすぐ    | 〃
口   | 中くらい   | 〃       | 〃
顎   | 丸い     | 〃       | 〃
髪   | ブロンド   | ブラウン(茶色)| 〃
肌色  | 白      | 〃       | 中くらい
顔   | 卵形     | 〃       | 〃


25歳と27歳の書類にはブロンド(金髪)で 5 feet 6 1/2 inches と書いていたのに、31歳からは髪の色はブラウンで 5 feet 6 inches(少し縮んだ)、39歳になると肌の色が fair から medium(darkとfairの中間)に。この変化、ちょっとおもしろいですね。

ついでながら、身長・瞳・髪色の順に、お父さんは 5 feet 10 inches(178cm)でブルー/ブラウン。お母さんは 5 feet 3 1/2 inches(161cm)でブルー/ライト(金髪〜明るいブラウン)。上の弟は 5 feet 11 inches(180cm)、ブルー/?。下の弟は身長不明(tall)、ブルー/ブラウン。つまり彼女以外の家族は青い目だったと記録は告げています。
2度目の母は 5 feet 6 inches(168cm)のヘイゼル/ブラウン、異母妹ふたりは 5 feet 7 inches(170cm)、ブルー/ブラウン、ブラウン/ブラウンでした(いずれも旅券申請書及び徴兵登録記録による)

名前表記MEMO
●ミドルネーム「フローラ」採用記事
東京朝日新聞埼玉版 1966.07.03 エリザベッツ・フロラ・アプタン 
毎日新聞夕刊 1966.07.02 エリザベツ・フローラー・アプタン女史 
さいたま市大宮区 聖愛幼稚園 ミス・フローラ・アプタン女史
さいたま市中央区 与野愛仕幼稚園 エリザベス・フローラ・アプタン先生
さいたま市名誉市民 エリザベツ・フローラ・アプタン

●ミドルネーム「Florence フローレンス」採用文献
日本聖公会教役者名簿外人男子女子名簿 Miss Upton, Elizabeth Florence 川越初雁幼/大宮愛仕幼/愛仕母学校/毛呂山聖霊
矢口徹也「第8章 女子補導団活動の実際−地方における展開」〜『女子補導団――日本のガールスカウト前史』 E.F.アプタン(Miss. Upton, Elizabeth Florence 1880−1966年)
デジタル版 日本人名大辞典+Plus アプタン Upton, Elizabeth Florence

●ミドルネーム「フェンノ」採用文献
森清一『みどりの舟――アプタン先生の愛仕の生涯』毎日新聞社 1977, p.33. エリザベツ・フェンノ・アプタン



【参考文献/資料入手先】
Ancestry.com
Internet Archive
HathiTrust Digital Library
John Adams Vinton, The Upton Memorial : A Genealogical Record of the Descendants of John Upton, of North Reading, Mass, 1874 *アプトン家家系本。Francis Robbins
William Richard Cutter, Genealogical and Personal Memoirs relating to the Families of Boston and Eastern Massachusetts, 1908 *Elijah Wood Upton
Rev. Calbraith Bourn Perry, The Perrys of Rhode Island, and Tales of Silver Creek; the Bosworth-Bourn-Perry Homestead, 1909 *黒船ペリーの家系本
“Thomas Edison was old family friend,” News and Observer, Raleigh, North Carolina, 09 Nov 1958, p.50. *末妹エリノアのインタビュー記事
ニール・ボールドウィン『エジソン――20世紀を発明した男』椿正晴 訳 三田出版会 1997

森清一『みどりの舟――アプタン先生の愛仕の生涯』毎日新聞社 1977 *本項の9割を書いてから、わたしはこの本を読んだのですが、ミドルネームはちゃんと Fenno を日本語表記したもの(フェンノ)になっていました。この本の情報が、現在まったく無視されていることの事情は不明です。

ver1.0 2018/04/12
posted by やぎたに at 22:20 | Comment(0) | 宣教師 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年03月30日

『幕末明治の肖像写真』人名索引



*この本の登場人物を含む幕末明治の人名に関してはこちらのページ【人名索引:幕末明治海外渡航者と百官履歴】もご覧ください

人名索引

====あ行====

青木周蔵(あおきしゅうぞう)◆161
赤松大三郎(あかまつだいざぶろう)◆64
浅野長勲(あさのながこと)◆98
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひとしんのう)◆70
有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)◆73
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)◆71
池田謙斎(いけだけんさい)◆228
石黒寛次(いしぐろかんじ)◆44
石黒忠悳(いしぐろただのり)◆233
石田英吉(いしだえいきち)◆114
伊地知正治(いじちまさはる)◆112
板垣退助(たがきたいすけ)◆138
市川渡(いちかわわたり)◆37
伊東玄伯(いとうげんぱく)◆59
伊藤博文(いとうひろぶみ)◆134
井上馨(いのうえかおる)◆137
井上勝(いのうえまさる)◆195
井上良智(いのうえりょうち・よしとも)◆189
岩倉具視(いわくらともみ)◆80
岩崎豊太夫(いわさきとよだゆう)◆38
岩崎弥太郎(いわさきやたろう)◆192
岩佐純(いわさじゅん)◆228
岩下方平(いわしたみちひら・まさひら)◆172
上田寅吉(うえだとらきち)◆57
上田友輔(うえだゆうすけ)◆17
上野景範(うえのかげのり)◆151
内田恒次郎(うちだつねじろう)◆54
江藤新平(えとうしんぺい)◆104
榎本武揚(えのもとたけあき)◆49
大河喜太郎(おおかわきたろう)◆58
大木喬任(おおきたかとう)◆166
大久保一翁(おおくばいちおう)◆167
大久保利通(おおくぼとしみち)◆124
大隈重信(おおくましげのぶ)◆140
太田源三郎(おおたげんざぶろう)◆25
大谷光尊(おおたにこうそん)◆219
大鳥圭介(おおとりけいすけ)◆116
大野弥三郎(おおのやさぶろう)◆56
大山巌(おおやまいわお)◆185
大山絅介(おおやまつなすけ)◆159
岡崎藤左衛門(おかざきとうざえもん)◆16
岡鹿之助(おかしかのすけ)◆45
緒方惟準(おがたこれよし)◆226

====か行====

華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう)◆70
勝海舟/勝麟太郎(かつかいしゅう・りんたろう)◆129
桂小五郎(かつらこごろう)→木戸孝允
桂太郎(かつらたろう)◆146
川上音二郎(かわかみおとじろう)◆210
川上貞奴(かわかみさだやっこ)◆211
川上操六(かわかみそうろく)◆177
川崎道民(かわさきどうみん)◆34
川路利良(かわじとしよし)◆112
川村純義(かわむらすみよし)◆114
閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)◆78
菊池容斎(きくちようさい)◆202
岸田吟香(きしだぎんこう)◆208
北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)◆231
北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)◆76
北畠道龍(きたばたけどうりゅう)◆220
木戸孝允(きどたかよし)◆122
京極高朗(きょうごくたかあき)◆12
桐野利秋(きりのとしあき)◆174
九鬼隆一(くきりゅういち)◆217
楠本正隆(くすもとまさたか)◆169
黒沢新左衛門(くろさわしんざえもん)◆38
黒田清隆(くろだきよたか)◆132
黒田長溥(くろだながひろ)◆96
河野敏鎌(こうのとがま)◆126
五代友厚(ごだいともあつ)◆193
後藤象二郎(ごとうしょうじろう)◆127
小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)◆69

====さ行====

西郷隆盛(さいごうたかもり)◆107
西郷従道(さいごうつぐみち・じゅうどう)◆180
斎藤大之進(さいとうだいのしん)◆19
榊原鍵吉(さかきばらけんきち)◆205
坂本龍馬(さかもとりょうま)◆101
佐久間象山(さくましょうざん・ぞうざん)◆100
佐佐木高行(ささきたかゆき)◆115
佐藤尚中(さとうしょうちゅう)◆222
佐藤進(さとうすすむ)◆230
佐藤恒蔵(さとうつねぞう)◆41
佐野鼎(さのかなえ)◆40
佐野常民(さのつねたみ)◆223
鮫島尚信(さめしまなおのぶ)◆148
沢太郎左衛門(さわたろうざえもん)◆52
沢宣嘉(さわのぶよし)◆79
三条実美(さんじょうさねとみ)◆82
篠原国幹(しのはらくにもと)◆109
柴田剛中(しばたたけなか)◆12
渋沢栄一(しぶさわえいいち)◆197
島地黙雷(しまじもくらい)◆221
島田一郎(しまだいちろう)◆111
下田歌子(しもだうたこ)◆218
重兵衛(じゅうべえ)◆41
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)◆68
杉浦譲(すぎうらゆずる)◆202
杉孫七郎(すぎまごしちろう)◆43

====た行====

高木兼寛(たかぎかねひろ)◆229
高島祐啓(たかしますけひろ・ゆうけい)◆33
高島鞆之助(たかしまとものすけ)◆187
高杉晋作(たかすぎしんさく)◆103
高橋是清(たかはにれきよ)◆145
高松彦三郎(たかまつひこさぶろう)◆19
高間応輔(たかままさすけ)◆36
田口俊平(たぐちしゅんぺい)◆54
竹内保徳(だけうちやすのり)◆12
立広作(たちこうさく)◆24
伊達宗城(だてむねなり)◆95
田中不二麿(だなかふじまろ)◆209
田辺太一(だなべたいち)◆162
谷干城(たにたてき)◆115
津田梅子(つだうめこ)◆214
津田真道(つだまみち)◆60
寺内正毅(てらうちまさたけ)◆188
寺島宗則(てらしまむねのり)◆30
東海散士(とうかいさんし)◆212
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)◆191
徳川昭武(とくがわあきたけ)◆88
徳川家達(とくがわいえさと)◆89
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)◆86
徳大寺実則(とくだいじさねつね)◆84
戸塚文海(とつかぶんかい)◆222
鳥尾小弥太(とりおこやだ)◆183

====な行====

永井繁子(ながいしげこ)◆216
中岡慎太郎(なかおかしんたろう)◆102
長岡護美(ながおかもりょし)◆158
長尾条助(ながおじょうすけ)◆36
中島兼吉(なかじまかねきち)◆61
中原狷介(なかはらゆうすけ)◆105
中村倉之助(なかむたくらのすけ)◆188
中村半次郎(なかむらはんじろう)→桐野利秋
中村正直(なかむらまさなお)◆204
長持五郎次(ながもちごろうじ)◆39
修山弥一郎(ながやまやいちろう)◆110
長与専斎(ながよせんさい)◆224
鍋島直大(なべしまなおひろ)◆164
鍋島直正/鍋島閑叟(なべしまなおまさ・かんそう)◆92
鍋島栄子(なべしまながこ)◆165
成島柳北(なるしまりゅうほく)◆203
新島襄(にいじまじょう)◆204
仁礼景範(にれかげのり)◆179
乃木希典(のぎまれすけ)◆184
野沢郁太(のざわいくた)◆37
野津道貫(のづみちつら)◆183

====は行====

橋本綱常(はしもとつなつね)◆227
畠山義成(はたけやまよしなり)◆200
花房義質(はなぶさよしもと)◆163
林研海(はやしけんかい)◆55
林董(はやしただす)◆160
原覚蔵(はらかくぞう)◆42
東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)◆84
東伏見宮彰仁親王(ひがしふしみのみやあきひとしんのう)→小松宮彰仁親王
土方久元(ひじかたひさもと)◆137
日高圭三郎(ひだかけいざぶろう)◆14
平岡煕(ひらおかひろし)◆218
広沢真臣(ひろさわさねおみ)◆106
福岡孝弟(ふくぉかたかちか)◆120
福澤諭吉(ふくざわゆきち)◆26
福田作太郎(ふくださくたろう)◆15
福地源一郎(ふくちげんいちろう)◆21
福羽美静(ふくばびせい・よししず)◆209
伏見宮貞愛親王(ふしみのみやさだなるしんのう)◆77
淵辺徳蔵(ふちのべとくぞう)◆15
古川庄八(ふるかわしょうはち)◆62
別府晋介(べっぷしんすけ)◆110
細川潤次郎(ほそかわじゅんじろう)◆213

====ま行====

前島密(まえじまひそか)◆139
前原一誠(まえばらいっせい)◆106
牧野伸顕(まきののぶあき)◆147
益頭駿次郎(ましずしゅんじろう)◆17
松方正義(まつかたまさよし)◆196
松木弘安(まつきこうあん)→寺島宗則
松平容保(まつだいらかたもり)◆97
松平康直(まつだいらやすなお)◆12
松平慶永/松平春嶽(まつだいらよしなが・しゅんがく)◆94
松田道之(まつだみちゆき)◆169
松本良順(まつもとりょうじゅん)◆225
三浦梧楼(みうらごろう)◆190
三島通庸(みしまみちつね)◆171
水品楽太郎(みずしならくたろう)◆46
箕作秋坪(みつくりしゅうへい)◆29
箕作麟祥(みつくりりんしょう)◆206
三宅秀(みやけひいず)◆232
陸奥宗光(むつむねみつ)◆157
村田新八(むらたしんぱち)◆111
明治天皇(めいじてんのう)◆66
森有礼(もりありのり)◆153
森鉢太郎(もりはちたろう)◆18
森山多吉郎(もりやまたきちろう)◆15

====や・わ行====

矢田部良吉(やたべりょうきち)◆207
柳原前光(やなぎわらさきみつ)◆156
山内容堂(やまうちようどう)◆93
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)◆113
山尾庸三(やまおようぞう)◆118
山県有朋(やまがたありとも)◆143
山川健次郎(やまかわけんじろう)◆217
山川捨松(やまかわすてまつ)◆212
山下岩吉(やましたいわきち)◆63
山階宮晃親王(やましなのみやあきらしんのう)◆75
山階宮菊麿王(やましなのみやきくまろおう)◆75
山田顕義(やまだあきよし)◆176
山田八郎(やまだはちろう)◆20
芳川顕正(よしかわあきまさ)◆170
吉原重俊(よしはらしげとし)◆194
渡辺洪基(わたなべこうき)◆170
渡辺昇(わたなべのぼり・のぼる)◆173

posted by やぎたに at 19:11 | Comment(0) | 書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年01月26日

函館遺愛女学校とカロライン・ライト夫人

最終更新 2018/05/11 ver.1.10


今回のくりほんは、函館シリーズの一篇。函館の誇るミッションスクール、遺愛女学校(現・遺愛学院 遺愛女子中学・高等学校)の設立功労者であるカロライン・ライト(キャロライン・ライト)夫人がテーマです。
    遺愛女学校は、「カロライン・ライト・メモリアル女子校」という名前でその歩みを始めました。
    愛娘を亡くしてしまったライト夫人は、貯めていたその娘の教育資金を函館のメソジスト系女学校(のちの遺愛女学校)設立のために寄附したことが、夫人の名前を冠する由来となったとされています。
    その娘の名前はなにで、何歳で亡くなったのか。
    それを知りたくてアメリカに残る資料を調べてみたところ、娘たちの名前のほか、夫人の来歴、お墓の場所なども判明しました。
    厖大な情報が集まったため、Q&A形式でまとめてみます。ゆかりの地マップ、年譜も用意しました。(例によって)長いので、覚悟してご覧ください。

*遺愛関連の話を先に読みたい人は、「夫人は函館の女学校のためにいくら寄附したのですか?」の文字を検索してジャンプしてください。

◆   ◆   ◆


◆カロライン・ライト夫人はいつ生まれ、いつ亡くなったのでしょう
1812年2月4日 アメリカ、ニューヨーク州オールバニー Albany 生まれ
*地図:おそらくは Rensselaer のあたり
1896年4月17日 マンハッタンの自宅 452 Lexington Avenue, New York で逝去、84歳
*地図:このあたり
1896年4月20日に葬儀&埋葬されました。

カロライン・R・ライトの年譜 & ゆかりの地マップへのリンク
1812.02.04 Caroline Rockwell Davis として Albany, New York で誕生
1833頃 最初の結婚により長女 Eliza Howe Brown [Browne] 誕生
1836.07 Alvah Deuel と New York のメソジスト教会で結婚
1837頃 次女 Mary Frances Deuel 誕生
1839頃 New York Clothing Society で慈善活動
1842.03 2歳6カ月の三女 Caroline Jane Deuel 死亡
1843.09 297 Broadway に Mrs Deuel が帽子店を開店
1845.07 長男&末子の Theodore Bond Deuel 2歳で死亡
1850年代初頭 New York Ladies' Home Missionary Society での働き開始
1854.06 長女 Eliza が Darley Randall と結婚
1857.05 (元)夫の Alva 死亡
1860.02 同居していた実母 Martha Davis 84歳で死亡
1861.04〜65.05 南北戦争
1863.10.11 元インディアナ州知事・元プロイセン公使 Hon. Joseph Albert Wright と結婚
1865.08 孫 Carrie Randall 死亡
1865.09 プロイセン公使に再任命された Joseph、ベルリンに着任
1867.05 夫 Joseph Albert Wright がベルリンで死亡
1868.03 長女 Eliza H. Randall 死亡
1868.09 孫 Grace Frances Peck 誕生
1870年代半ば メソジスト監督教会・婦人外国伝道協会での働きを開始
1874.01.26 メソジスト監督教会、函館での伝道を開始(ハリス夫妻来函) 
1876.10 フローラ・B・ハリス夫人が婦人外国伝道協会機関誌に「如何にして婦人を救うべきか」を発表
1879.02 次女 Mary Frances Peck 死亡
1879.11 継娘 Hattie B. Wright が結婚
1879.12.26 東京・築地のメソジストミッションの建物が全焼する
1880.11 手芸品を売る3日間の即売会を自宅で開催
1880.12 函館の女学校設立のため1,700ドルを婦人外国伝道協会ニューヨーク支部に寄附(その後100ドルを追加)
1882.02.01 函館に Caroline Wright Memorial School(遺愛女学校)開校
1886 弘前教会内に Preparatory Caroline Wright Memorial School(来徳女学校)が開設
1896.04.17 自宅(452 Lexington Avenue)で逝去、84歳


*夫人の娘について、父親が同じではありませんが、便宜上通しで「長女、次女、三女」という表現を使っています。ご了承ください





◆お墓はどこにありますか?
アメリカ、ニューヨークのブルックリンにあるグリーンウッド霊園です。[地図:ここ]
夫の、元インディアナ州知事ジョーゼフ・A・ライト Joseph Albert Wright と同じ墓(Lot 17065, Section 120)に眠っています。
*お墓の画像はこちら
また、母や娘・孫一家なども同じ一角に葬られています。
Green-Wood Cemetery, Brooklyn, New York, USA

◆どんな外見だったのでしょう
晩年の横顔写真は遺愛の資料にあります。
また、夫人が1872年に申請した旅券 [†] の記録では、身長5フィート4インチ(約162センチ、当時の女性としてはやや高め)、顔はたまご形、額は高く、鷲鼻、口の大きさは中くらい、目の色はグレイ(灰色)、髪の毛と肌色ともに dark となっています。
彼女の姉と、姪の写真も現存しています。
†エルサレムなどの聖地旅行のため、旅券を申請したとみられます。残念ながら日本訪問はしていないようです(少なくとも1872年の日本の新聞の船客名簿には名前なし)。

_Mrs_Caroline_R_Wright_portrait_2.jpg


◆死因はなんですか?
新聞の追悼記事によると、死の数か月前に paralytic stroke(中風の発作)を起こし回復しなかった、とのことです。満84歳でした。
The Sun, April 21, 1896, p.2.〔本稿末尾に記事画像あり〕

◆本人の結婚前の名前と、結婚相手の名前を教えてください
生まれたときはカロライン・ロックウェル・デイヴィス Caroline Rockwell Davis
最初の夫(1833年以前に結婚) ブラウン Brown/Browne (Mrs Brown/Mrs Browne) ※名は不明
2度目の夫(1836年7月結婚) アルヴァ・B・デュエル Alva B. Deuel (Mrs Caroline R. Deuel)
3度目の夫(1863年10月結婚) ジョーゼフ・アルバート・ライト Joseph Albert Wright(Mrs J. A. Wright, Mrs Governor Wright)

◆両親やきょうだい、先祖はどんな方でしたか
父のアルバン・デイヴィス Alban Davis については、生没年以外に調べがつきませんでした。1810年の国勢調査では8人家族の長、現 Albany の Greenbush, Rensselaer, New York 在住となっています。
母方のカウリー Cowley 家は、アイルランドの出身。祖父の St. Leger Cowley がアメリカに移民し、アメリカ独立戦争で戦ったことがニューヨーク州デラウェア郡(Delaware Co.)の郡史に載っています。
Lineage Book by Daughters of the American Revolution, 1910, p.302 にも言及あり
カロラインの母マーサ・カウリー Martha Cowely は1776年 Harpersfield, Delaware Co., New York の生まれ。1796年、20歳でアルバンと結婚しましたが、末の子であるカロラインが生まれた翌年離婚しました(新聞の告知あり)。晩年はカロラインと同居(葬儀の記録あり、墓も同じ区画)
判明したきょうだいのうち、兄の Joel Hubbard Davis は農業、のち大工。兄 William R. Davis は鉄砲鍛冶。姉 Eliza の夫はパン&菓子屋。

◆子孫の方はいますか
以下の家系図をご覧ください。2018年現在、直系の子孫はいません。最後のひ孫(エリノア・S・ウェンデル Eleanor S. Wendell)が独身で亡くなり、彼女の血を継いだ子孫は絶えました。このエリノアさんが亡くなったのは1992年なので、『遺愛七十五周年史』の出た1960年にはまだまだお元気だったはず。

_mrs_c_r_wright_familytree_2.jpg
日本語版簡易家系図
(クリックすると拡大)
英語版詳細家系図(pdf)はこちら
Family
Tree of Mrs Caroline R. Wright 1812-1896


◆血の繋がった、いちばん近い親族は?
やはり教会活動に熱心だった、10歳年上の姉エリザさん(ハウ夫人)の子孫がアメリカで存命しています。なかでも、お名前を受け継いだ Caroline Lockwood Duncombe (Caroline Duncombe Pelz 1918-2007) さんに注目。彼女の追悼記事はこちら→ New York Times / Legacy.com
また、14歳年上の兄ジョエルさんの子孫も存命しています。

◆ライト夫人が所属していた教会は?
教派はメソジストです(2番目、3番目の結婚はメソジスト教会で挙式)。
2番目の結婚以降の所属教会名は、ニューヨークのマンハッタンにある聖パウロ・メソジスト監督教会 St. Paul's M.E. Church [St. Paul's Methodist Episcopal Church]。当時は通りの名前でも呼ばれていたようです(例:Mulberry Street Church)
夫人が函館の女学校のため献金したときの報告は、所属教会名で「St. Paul's ($1,800.00 from Mrs Jos. A. Wright for Memorial School at Hakodate)」となっています。ライト夫人の葬儀を司式したのは、同教会の牧師パーマー師 Rev. Abraham John Palmer (1847-1922) でした。
*教会の歴史はこちら
この教会は1857年まで 305 Mulberry Street にありましたが、Fourth Avenue at 22nd Street に移転、現在はさらに場所と名前を変えて聖パウロ・聖アンデレ・ユナイテッドメソジスト教会 St. Paul and St. Andrew United Methodist Church, 263 W 86th NYC として存続しています。(ゆかりの地マップ参照)


◆夫人はお金持ちの生まれだったのですか
父親の職業が判明していませんが、いわゆる富裕層の出身ではないようです。かといって最下層でもありません。
判明した範囲では、農夫、鉄砲鍛冶、商店主、商人が近い身内にいます。

◆夫人の経歴・職業などについて教えてください
夫アルヴァ・デュエルは帽子屋で、1 Maiden-Lane で営業していました。娘婿も商人、姉の夫はパンやお菓子を製造販売していました。メソジストに多かった商人、小売業従事者です。
カロラインも一時期、マンハッタンで婦人帽のお店(帽子屋)を営んでいたことが判明しています。
1843年、末の子の出産から3カ月後、ヨーロッパの最新流行を取り入れたというふれこみの帽子店を 297 Broadway (ブルックリンではなく、マンハッタンのブロードウェイ)に開店。その名も「Paris Millinery」といいました(下の新聞広告参照)。このことは、のちの献金の話と関係してきますので覚えておいてください。

1843_09_21 Mrs Deuel Paris Millinery AD.jpg

*当時の女性ファッションのイメージはこちら

1845/46には店は 369 Broadway に移転、1850/51からは341番地に移り、店をたたんだのは1852年頃のようです。その後は 4 Bond Street に住み milliner(帽子製造人)の職業名を挙げていましたが、1860/61版 Directory から職業名が消え、また国勢調査にも職業がないので、1860年にはもう帽子製造はやめていたと思われます。この 4 Bond Street には、夫に帯同してベルリンに行くまで住所がありました。
*New York Board of Education, Manual, 1866 ed. p.335.

_1857_NYDirectory_CRD.jpg

1857年版 New York City Directory より


◆夫人はすべての夫と死に別れたのですか?
20歳前後で結婚したとおぼしき最初の夫ブラウン Brown / Browne 氏について、結婚や死亡の記録などは発見されていません。また本稿では「最初の夫」としていますが、夫人や娘の名前によって確認された限りでの、最初の夫という意味です。
24歳で結婚したアルヴァとは、離婚していた可能性があります。というのも、彼は1857年にイリノイ州で亡くなったのですが、その遺産処理の書類で、当時唯一生存していた子どもであるメアリ Mary Frances Deuel(後述)が「唯一の係累・相続人」となっていたからです(遺産1,356ドル5セント)。娘が唯一の相続人ということは、カロラインはもはや法的な妻ではなかったと考えられます。
離婚の記録そのものは未発見ですが、末子が死んだ1845年の New York City Directory にはアルヴァの名前の記載がないので、その頃には少なくとも別居していたはずです。
51歳で結婚した最後の夫ジョーゼフはベルリンで亡くなり、遺体はアメリカに運ばれ、聖パウロ・メソジスト監督教会で葬儀が行われました(説教者は、結婚式を司ったジェーンズ監督、後述)。55歳で寡婦となったカロラインは以後独身を通し、ライト夫人として亡くなりました。
*彼女の名前表記として、Mrs. ex-Gov. Wright, N.Y. / Mrs. Governor Wright, of New York / Mrs. Governor Joseph A. Wright などのパターンあり。

_1896 CRW death notice.jpg

夫人の死亡告知
New York Herald, 20 April 1896, p.1
この新聞以外にもいくつかの新聞に記載あり


◆夫人が書き残したものはありますか
夫人の書いた書籍や冊子類では以下のものがあります。
Caroline R. Deuel, Scripture Lessons, Designed for Sunday Schools and Families: Subjects: the Bible, Six Ages, Miracles, Prophecies, Jerusalem, and Characters, Carlton & Porter, 1858(日曜学校と家庭のための聖書日課、総174頁)
Duty and Blessedness of Christian Effort, compiled by Mrs. Caroline R. Wright(キリスト者の働きのうちにある義務と幸い/小冊子/自費出版)
ほかに、Sunday-School Manual(日曜学校の手引き)という小冊子もあるようです。
遺言も現存します(たとえば https://www.ancestry.com/ で閲覧可能です)。

また、メソジスト監督教会のエドモンド・S・ジェーンズ監督 Edmund S. Janes (1807-1876) の伝記に、長年の友人として言及があります。
The Life of Edmund S. Janes, by Henry Bascom Ridgaway, 1882, pp.42-43, 259, 291.

◆夫人は函館の女学校のためにいくら寄附したのですか?
1,800ドルですHeathen Woman's Friend, July 1881, p.2)
1,700ドルとしている資料がいくつかありますが、その寄附は1880年12月時点のもので、その後100ドルが追加され、合計1,800ドルとなりました。
夫人の寄附はこれにとどまらず、その後も、たとえば:
1884年4月に100ドルを学校に献金Heathen Woman's Friend, June 1884, p.291
1886年末にクリスマスツリーや Mason & Hamlin(ピアノ)などの贈り物ibid, April 1887, p.258)
なお、1889年の遺愛校長のサラリーは600ドルでした。(*)

◆夫人が女学校設立のために献金した経緯を教えてください(英語版)
英語の主な資料には以下のものがあります。
Heathen Woman's Friend, January 1881, p.160 *この時点の金額$1,700
Heathen Woman's Friend, July 1881, p.2; pp.11-12 *100ドルが加えられて、金額$1,800
The Story of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1869-1895, by Frances J. Baker, 1898, pp.335-37.


上記の話をまとめると、以下のようになります。
1879年の暮れ〔12月26日〕、東京・明石町(築地)のメソジストミッション関連施設が火災で焼失(cf. メソジスト外国伝道協会年次報告1880, pp.168-69, 172 / *)。ライト夫人はこの校舎再建の助けになればと、バザー用の手芸品の準備を始めたが、献金に到る前に、東京の建物再建は早々に目途が立ち、いわば目標を失うかたちになった。そこへ、友人から函館の女学校設立の話を聞き、献金先を変更。みずから刺繍針を動かし、2名の孫娘も手伝って、8カ月かけて手芸品を準備した。自邸で即売会を開き友人や支援者から1,700ドルを得た。その後に得た50ドルの寄附に、みずからの献金を加えて合計1,800ドルとした。婦人外国伝道協会ニューヨーク支部は、この献金で夫人の名前を冠した学校を建てるよう函館ミッションの責任者デヴィッドソン師に要請した。
というものです。
* 火元は日本橋箔屋町の焚き火で、西北の強風に乗り、現在の新富町・入船町・築地などに被害が広がる大火となった。明治12年12月27日付東京日日新聞別刷は1頁を被災地図、別の1頁をすべて記事に割き、「〔…〕船松町より明石町へ移り外国館を焼立てし」とある。

キリスト教的に強調されているエピソードは、(ただ小切手を書くのではなく)神さまの御用のために自分の労力をそそいで奉仕したい、そして亡くした娘たちの思い出のためになにかをしたいという気持ちから、ライト夫人が自らの手でひとさしひとさし刺繍した手芸品を献品した、ということです。夫人は上述のごとく、かつて婦人帽子のお店を開いていたため、非常にセンスの良い、プロ並みの作品が作れたのでしょう。また、それらを買い上げてくれる友がいた、それだけの人脈・交友関係があったということも見逃せません。
なお、函館の女学校のことを夫人に教えた「友人」が誰だったのかは、わかっていません。日本にいたフローラ・ハリス夫人(Flora Best Harris 1850-1909)の可能性が高いですが、彼女と文通していたのかどうかは、まだ確認が取れていません。

◆夫人が女学校設立のために献金した経緯を教えてください(日本語版)
日本語で読める主な書籍資料では、以下のものがあります。
○『遺愛女学校五十年略史 : 明治15年創立 遺愛女学校』遺愛女学校 1932 / pp.8-9
○七十五周年誌編纂委員編『遺愛七十五周年史』遺愛女子高等学校 1960 / pp.12-13
○「カロライン・ライト 函館遺愛女学校を生んだ人」〜須藤隆仙『北海道と宗教人』教学研究会 1965 / pp.159-160
○遺愛100年史編集委員会編『遺愛百年史』遺愛学院 1987 / pp.29-30


ネットでは
○遺愛学校法人 遺愛学院 歴史沿革 http://www.iaijoshi-h.ed.jp/main/about/history.html
○創立の背景と歴史 学校法人 遺愛学院 http://soper.kirisutokyo.jp/pdf/IaiGkuin.pdf
○日本キリスト教団 教団新報 【4771号】宣教師からの声 番外編 2013/04/20 http://uccj.org/newaccount/9665.html *かつて遺愛に伝わっていた「危篤の娘の元に駆けつけ」エピソードを盛り込んだヴァージョン


上記の教団新報にあるエピソードが「ライト夫人伝説」とでもいうべきもので、外国(ベルリンもしくはセビリア)にいた夫人が、娘の危篤の報に急遽帰国、ぎりぎり臨終に間に合った。夫人は神の恩寵に感謝し、この娘の教育資金+編み物・刺繍の売上げを函館の女学校のため献げた、というものです。このエピソードは上に挙げた主な日本語の書籍資料すべてに載っていますが、現在の遺愛の公式サイトで閲覧できる「沿革」には掲載されていません。

◆ライト夫人が亡くした娘の名前を教えてください
ライト夫人は判明している限りでは、子どもを4人生んだことがわかっています。その全員が、夫人より先に死亡しています。
長女:エリザ・ハウ・ブラウン Eliza Howe Brown 最初の夫 Brown の娘、1833年頃誕生。結婚して Mrs Darley Randall となる。なお、Eliza Howe とはカロラインの姉の名(結婚後の名前)で、いかに姉妹の関係が強かったかがわかります。
次女:メアリー・フランセス・デュエル Mary Frances Deuel 2度目の夫 Deuel の娘、1837年頃誕生。結婚して Mrs William Ward Peck となる。
三女:Caroline Jane Deuel 1839年誕生、2歳で死亡。
長男:Theodore Bond Deuel 1843年誕生の末子。唯一の息子と思われるが、1845年に2歳で死亡。

◆夫人が遺愛に献金する動機となった娘は、どの人ですか?
長女エリザは1868年に35歳前後で亡くなっています。
次女メアリー・フランセスはその11年後、1879年2月13日に死亡、年齢は42歳ほどでした。死亡時期から考えて、このメアリー・フランセス(ペック夫人)が「臨終に間に合った愛娘」に該当するといえそうですが、年齢は上記のごとく40歳を過ぎていたので、貯めていた教育資金を献金、というストーリーには当てはまりません(ただし、メアリーを亡くした同じ年、30ドルを彼女の記念として伝道協会に献金した記録あり)

1880年12月の新聞記事では、夫人は「娘の Mrs Mary Peck の思い出のために1,700ドルを寄附」したと報じられています。

1880_12_23_Northern Christian Advocate 02.jpg

Northern Christian Advocate (Syracuse, New York), 23 Dec 1880, p.5
おそらくは学校のことが報じられたもっとも初期の記事
函館の綴りが Hakodati となっている


いっぽうで、Heathen Woman's Friend の記事では子どもは複数形です。すなわち、「in tender memory of her two only and sainted daughters.」「as a perpetual memorial and a mother's monument to her children.」(January 1881, p.160)、「as a precious memorial of her children」(July 1881, p.2) とあるので、片方の娘ではなく、成人後に亡くしたふたりの娘を記念して献金したと受け取るのが適切と思われます。
※ひとりの娘の思い出のためというなら、なぜ校名を「Mary F. Peck Memorial School」としなかったのかという疑問も湧きます。

◆夫人にはほかに義理の子どもがいましたか?
最後の夫、ライト元知事が亡くなったとき、彼には存命の子どもが3名いました。
最初の妻の息子ジョン・クック・ライト John Cook Wright 1832-1926(1861年に結婚)
2番目の妻の息子(ふたご)ジョーゼフ Joseph Albert Wright Jr 1855-1932
娘(ふたご)ハティー Harriet [Hattie] Burbridge Wright 1855-1923
ふたごの2人は父親が亡くなったときまだ11歳。義母カロラインの下で成長したようです。後者のハティーは夫人の家で結婚式を挙げています(1879年11月)。

◆娘のメアリー・フランセスが亡くなる直前、夫人は、夫が公使をしていたベルリンにいたのですか?
プロイセン公使だった最後の夫ジョーゼフ Joseph Albert Wright がベルリンで57歳で亡くなったのは1867年5月11日です。メアリー・フランセスの死よりも12年前のことで、少なくとも夫の任期中にベルリンから駆けつけたわけではありません
「夫君と共に長くベルリンに滞在」と書かれていることがありますが、結婚が1863年10月、2年後の1865年9月に夫がベルリンに着任(2度目)、そして1867年5月に夫が亡くなっているので、公使夫人としてのベルリン滞在は2年に満たないということになります。
プロイセン駐在のアメリカ人外交官リスト 1777-1865
余談◆南北戦争終結の翌月に、ジョーゼフを公使に任命したのはリンカーン大統領でした。そのためでしょう、カロラインの遺品のなかにリンカーン夫妻の遺髪がありました(最後の子孫が没した1992年、Christie's に出品 サイト)同じくカロラインが所持していたもので、大統領のサインが入った本はこちら

◆それでは、夫人は(遺愛の学校史本にあるように)スペインにいて、そこで「娘が危篤」の報を聞いたのでしょうか
スペインにいたのかどうかは、(まだ)資料が見つかっていません。
見つかった船旅の記録は、ニューヨークから英国のリヴァプール Liverpoolに往復したときのものです。出港は1878年6月5日、そして帰着は同年9月27日。夫人と継娘 Hattie の名前が船客名簿にありました。リヴァプール経由でスペインまで往復した可能性もあるので、この旅が該当するのかもしれません。
ただし、この旅だとしたら、帰国から娘メアリー・フランセスの死まで、4カ月以上の間が開いています。臨終にぎりぎり間に合った、というストーリーにはなりません。
The American Register, 22 June 1878, p.2; Shipping News, 28 Sept 1878, p.12.
*往路の船客名簿には、翌年 Hattie の夫となる Brinton 一家の名も見える。復路にはない。そもそもこの旅で知り合ったものか、あるいは一緒に旅行を計画したがライト夫人組のみ、娘危篤の報を受けて予定を切り上げ帰国したのか。いろいろ想像できる。


◆夫人にはお孫さんがいましたか?
少なくとも3名孫がいたことがわかっています。(家系図参照)
成人したのは2名で、1858年生まれのアン・フランセス Anne Frances Randall(愛称 Annie)、女学校設立の1882年には24歳。
もうひとりのグレース Grace Frances Peck は1868年生まれなので、学校設立時には14歳でした。もし彼女が亡くなっていたのであれば「教育資金」云々の話と辻褄が合いますが、1959年まで生きていたので、直接の関係はありません。

◆遺愛女学校設立のきっかけになった文章とされる、フローラ・B・ハリス夫人による「如何にして婦人を救うべきか」の文章はインターネットで読めますか?
はい、読むことができます。
*“How are we to reach the women?”, by Mrs. Flora Best Harris, Heathen Woman's Friend, Vol.8, October 1876, pp.80-81.

◆上記の文章は、実際にライト夫人の心を動かしたのでしょうか?
そう書いているのは、日本語の資料のみです。
*『遺愛七十五年史』の編集後記によると、ライト夫人について触れた初期の資料には「同窓会報八号、十二号、五十年略史」があるとのことです
アメリカ側の資料では、特に言及のあるものは(まだ)見つかっていません。
ただし、婦人外国伝道協会の役員だったライト夫人が、同協会の機関誌 Heathen Woman's Friend の読者だったことは百パーセント間違いなく(ニューヨーク支部の献金者リストの常連)、ハリス夫人の記事を読んでいたと考えるほうが自然です。

_1882_oct_Heathen Woman's Friend 001.jpg
1882年開校当時の校舎
出典:Heathen Woman's Friend, October 1882, p.73
Miss Kate Woodworth による学校の紹介が載っている


◆創立当時の学校の名前は?
冒頭で触れた通り、主たる献金者ライト夫人の名前を冠して開校しました。英語の表記はいくつかあります。
【英語の表記例】
Caroline Wright Memorial School / Caroline Wright Memorial
Heathen Woman's Friend, January 1881, p.12/Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1884&1886/The History of Methodism, by John Fletcher Hurst; Annual Report of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church 1895-96, p.63Burlington Weekly Hawk Eye, 26 April 1888 (Nakano Tomoという遺愛の生徒の記事あり)/The Education of Women in Japan by Margaret E. Burton. 1914, p.95The Christian StudentHistory of Methodist MissionsAnnual Report of the Northwestern Branch of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church 1905/06, p.55
Caroline Wright Seminary
Heathen Woman's Friend, November 1881, p.106; April 1882, p.223/The Gospel in All Lands, 24 August 1882, p.93/Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1883 & 1885/Journal of the General Conference of the Methodist Episcopal Church, 1888/The Early Schools of Methodism by A. W. Cummings, 1886
Caroline Wright School
Northern Christian Advocate, 23 Dec 1880/Heathen Woman's Friend, Jan 1881, p.160, 1885, etc./Woman's Missionary Friend, August 1896, p.51, 1897/Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal ChurchThe National Cyclopaedia of American Biography: Harris, Merriman Colbert, p.122
Caroline Wright Memorial Seminary
Heathen Woman's Friend, Feb 1883 p.174; October 1890/Annual Report of the Woman's Foreign Missionary, 1889/90
1885(明治18年)に校名は「遺愛女学校」と改称されましたが、19世紀の資料を当たっていると、1885年以降も、アメリカのメソジスト教会では(当然ながら)夫人の名前を冠した学校名をそのまま使っていたことがわかります。「Iai 遺愛」の文字を入れたものでは、以下のような表記も見つかりました。
Iai (Caroline Wright Memorial) Girls' School
Iai Girls' School (Caroline Wright Memorial)
Iai Jo Gakko


【日本語表記例】
カロライン、ライト、メモリアル女学校
*函館新聞 明治15年2月2日 p.3 / 明治15年2月4日 p.3

◆夫人は青森県弘前の女学校のためにも寄附をしたのですか?
夫人がもうひとつの学校のため寄附をした、というより、函館の学校に向けた夫人の寄附の一部が弘前の学校設立のために用いられた、という表現のほうが正しいようです。
学校は当初 Preparatory Caroline Wright Memorial School、日本語ではライト夫人の名をとって来徳女学校(らいとじょがっこう)と呼ばれました。現在の弘前学院聖愛中学高等学校です。
夫人はこの学校のためにも贈り物をしていたことが記録に残っています。
Heathen Woman's Friend, Dec 1887, p.151
Annual Report of the Woman's Foreign Missionary, 1887, p.43; 1889, p.52.
聖愛の歴史1
*1893年の Japan Daily Mail でこの学校は Hirosaki Girl's School とある。Christian Year Book では1909年: Hirosaki Jo Gakko, Hirosaki Primary Acad. Girls / 1912年: Hirosaki Highter Girls' School となっており、いずれも Caroline Wright の名前は消えている。いっぽうで、同じ資料において遺愛のほうは Caroline Wright Memorial の名が併記されている。


◆「敬虔な信者」「慈善家」とのことですが、どんな働きをしたのでしょうか
行動するクリスチャンだったのは確かです。夫人は生涯の60年ほどを、教会を通じた慈善活動に費やしました。
1834年、ブラウン夫人だったごく若いころからメソジスト教会とつながっていました。1839/1840年には New York Clothing Society の Secretary として、貧民へ衣料を援助する働きに携わりました。
1850年代は国内伝道に尽力、1852年に New York Ladies' Home Missionary Society の役員になっています(1866年に First Directress)。
もっともよく知られた夫人の働きは、ニューヨークのファイブ・ポインツ地区(スラム街)のためのもので、学校を設立して4万人を超える子どもたちに教育を与えました。
*1870: Five Points House of Industry, New York, First Directress
The Sun, April 21, 1896, p.2; Monmouth Republican Atlas Newspaper Archives, May 29, 1896, p.5
*Five Points Mission の歴史についてはこちら

地図を見てもらうとわかるとおり、夫人の帽子店はファイブ・ポインツ地区の近くに位置していました。この地域の悲惨な実態については、ハーバート・アズベリー『ギャング・オブ・ニューヨーク』(富永和子・訳/ハヤカワ文庫 2001)に詳しく描かれています。映像では、2002年のアメリカ映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』があります。


Gangs of New York (2002) Official Trailer
カロラインが生きていた時代の雰囲気がわかる映画


1876年以降は外国伝道に傾注し、メソジスト監督教会の婦人外国伝道協会ニューヨーク(名誉)支部長を23年間務めました。
Annual Report of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1894-95, p.79.
遺愛への献金も外国伝道の一環です。
教会ではバイブルクラスの教師を務め、婦人聖書協会の manager となり(1877年)、書籍や小冊子も刊行しています(既述)。19世紀ニューヨークのメソジスト女性を代表する実力者のひとりだったといっていいでしょう。

※ヤギタニの個人的な想像ですが、彼女は決してお金持ちの暇つぶしや義務として慈善活動にいそしんでいたわけではなく、お金を稼ぐ苦労や貧困のつらさを自ら知ったうえで、スラムの子どもたちと実際に触れ合い、女児に教育を与えることの大切さを実感したのだと思います。市内での救済活動が軌道に乗ったため、国外、すなわち遠い日本の若い女性のためにも何かをしたい、という気持ちになったのではないでしょうか。
亡くした愛娘の教育資金を寄附、という話の裏付けは取れませんでしたが(当時夫人は60歳過ぎで、女学生の年頃の娘はいない)、彼女が遺愛の母と呼ぶにふさわしい、りっぱな人だったことがわかったのは収穫でした。


◆夫のライト元知事について知りたい
1849〜1857年にインディアナ州の知事を務めました。2人の奥さんに先立たれ、53歳でカロラインと再婚。
信仰をもったのは最初の奥さんの影響で、敬虔なメソジストとして生涯を終えました。
ベルリンに最初のメソジスト教会が設立されたときの立役者。メソジスト監督のジェーンズ師による評価はこちらにあります。

彼とカロラインは教会の活動を通じて親しくなったと思われます。また、カロラインが実兄たちの住むインディアナを訪問した際に、知り合った可能性もあります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_A._Wright ←カロラインについては情報貧弱
https://www.in.gov/history/2738.htm
https://history.house.gov/People/Detail/24131
http://www.thelatinlibrary.com/chron/civilwarnotes/wright.html
https://history.state.gov/departmenthistory/people/wright-joseph-albert
*死亡当時の新聞追悼記事: Cincinnati Daily Gazette (Cincinnati, Ohio), Aug 27, 1867, p.1.
*1960年代の新聞記事: The Indianapolis Star (Indianapolis, Indiana) May 24, 1964, p.85.


【 アメリカの国勢調査における夫人の記録 】
以下のものが見つかっています。(記載された年齢は必ずしも正確ではありません)

1840●US Census:世帯主=夫 Alvah の記録あり(家族6名、召使い1名。全員白人。家族は夫妻と娘3名+妻母と推定される)
1850●US Census:母 Martha Davis 74歳、Caroline R. Deuel 38歳、職業 Millinary、その娘 Eliza H. Brown 17歳、Mary F. Deuel 13歳と同居
1855●New York State Census:Caroline Duel 40歳(職業記載なし / 娘 Mary Duel 17歳、母 Martha Davis 80歳と同居)
1860●US Census:C. R. Deuel 45歳(娘 Mary F Deuel 20歳、商人の William W. Peck 42歳と同居)
1865○New York State Census 発見できず(ベルリンへの旅の途中? Peck夫妻は2人世帯で記録あり)
1870●US Census:Caroline Wright 58歳(娘婿の William Peck 50歳、 娘 Mary F. Peck 孫 Grace Peck 1歳、継娘 Harriett Wright 14歳と同居)
1875○New York State Census 発見できず
1880●US Census:娘婿 William Peck 60歳が筆頭者。Caroline Wright 67歳、Mary H. Drake 38歳〔夫人のコンパニオン〕、継息子 Joseph Wright 24歳、孫 Annie Randall 23歳 と同居
1890○US Census:(火災のため記録が現存せず)
1892○New York State Census:発見できず

1896_04_21 The Sun Caroline Wright Obituary 02.jpg

カロラインの追悼記事 The Sun, 21 April 1896, p.2.
ファイブ・ポインツ救済活動が大きく取り上げられている


◆   ◆   ◆


【資料入手先/参考文献】
Ancestry.com https://www.ancestry.com/
FamilySearch https://www.familysearch.org/
Find A Grave https://www.findagrave.com/
Hathi Trust Digital Library https://www.hathitrust.org/
Internet Archive https://archive.org/
GenealogyBank https://www.genealogybank.com/
NewspaperArchive https://newspaperarchive.com/
The New York Public Library Digital Collections / NEW YORK CITY DIRECTORIES

Heathen Woman's Friend
The Gospel in All Lands
Annual Report of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church [Heathen Woman's Friend 後続誌]
Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal Church *意外なほど言及が少ない
Journal of the General Conference of the Methodist Episcopal Church
Manual of the Methodist Episcopal Church
*お世話になりました 函館市中央図書館
国立国会図書館


ver 1.0 2018/01/26
posted by やぎたに at 17:35 | Comment(0) | 函館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする