2018年01月26日

函館遺愛女学校とカロライン・ライト

最終更新 2018/02/18 ver.1.08


今回のくりほんは、函館シリーズの一篇。函館の誇るミッションスクール、遺愛女学校(現・遺愛学院 遺愛女子中学・高等学校)の設立功労者であるカロライン・ライト(キャロライン・ライト)夫人がテーマです。
遺愛女学校は、「カロライン・ライト・メモリアル女子校」の名でその歩みを始めました。ライト夫人は愛娘を亡くしてしまい、貯めていたその子の教育資金を函館のメソジスト系女学校(のちの遺愛女学校)設立のために寄附したというのです。その娘の名前はなにで、何歳で亡くなったのか。それを知りたくてアメリカに残る資料を調べてみたところ、娘たちの名前のほか、夫人の来歴、お墓の場所なども判明しました。
厖大な情報が集まったため、Q&A形式でまとめてみます。ゆかりの地マップ、年譜も用意しました。(例によって)長いので、覚悟してご覧ください。
*遺愛関連の話を先に読みたい人は、「夫人は函館の女学校のためにいくら寄附したのですか?」の文字を検索してジャンプしてください。

◆   ◆   ◆


◆カロライン・ライト夫人はいつ生まれ、いつ亡くなったのでしょう
1812年2月4日 アメリカ、ニューヨーク州オールバニー Albany 生まれ
*地図:おそらくは Rensselaer のあたり
1896年4月17日 マンハッタンの自宅 452 Lexington Avenue, New York で逝去、84歳
*地図:このあたり
1896年4月20日に葬儀&埋葬されました。

カロライン・R・ライトの年譜 & ゆかりの地マップへのリンク
1812.02.04 Caroline Rockwell Davis として Albany, New York で誕生
1833頃 最初の結婚により長女 Eliza Howe Brown [Browne] 誕生
1836.07 Alvah Deuel と New York のメソジスト教会で結婚
1837頃 次女 Mary Frances Deuel 誕生
1839頃 New York Clothing Society で慈善活動
1842.03 2歳6カ月の三女 Caroline Jane Deuel 死亡
1843.09 297 Broadway に Mrs Deuel が帽子店を開店
1845.07 長男&末子の Theodore Bond Deuel 2歳で死亡
1850年代初頭 New York Ladies' Home Missionary Society での働き開始
1854.06 長女 Eliza が Darley Randall と結婚
1857.05 (元)夫の Alva 死亡
1860.02 同居していた実母 Martha Davis 84歳で死亡
1861.04〜65.05 南北戦争
1863.10.11 元インディアナ州知事・元プロイセン公使 Hon. Joseph Albert Wright と結婚
1865.08 孫 Carrie Randall 死亡
1865.09 プロイセン公使に再任命された Joseph、ベルリンに着任
1867.05 夫 Joseph Albert Wright がベルリンで死亡
1868.03 長女 Eliza H. Randall 死亡
1868.09 孫 Grace Frances Peck 誕生
1870年代半ば メソジスト監督教会・婦人外国伝道協会での働きを開始
1874.01.26 メソジスト監督教会、函館での伝道を開始(ハリス夫妻来函) 
1876.10 フローラ・B・ハリス夫人が婦人外国伝道協会機関誌に「如何にして婦人を救うべきか」を発表
1879.02 次女 Mary Frances Peck 死亡
1879.11 継娘 Hattie B. Wright が結婚
1879.12.26 東京・築地のメソジストミッションの建物が全焼する
1880.11 手芸品を売る3日間の即売会を自宅で開催
1880.12 函館の女学校設立のため1,700ドルを婦人外国伝道協会ニューヨーク支部に寄附(その後100ドルを追加)
1882.02.01 函館に Caroline Wright Memorial School(遺愛女学校)開校
1886 弘前教会内に Preparatory Caroline Wright Memorial School(来徳女学校)が開設
1896.04.17 自宅(452 Lexington Avenue)で逝去、84歳


*夫人の娘について、父親が同じではありませんが、便宜上通しで「長女、次女、三女」という表現を使っています。ご了承ください





◆お墓はどこにありますか?
アメリカ、ニューヨークのブルックリンにあるグリーンウッド霊園です。[地図:ここ]
夫の、元インディアナ州知事ジョーゼフ・A・ライト Joseph Albert Wright と同じ墓(Lot 17065, Section 120)に眠っています。
*お墓の画像はこちら
また、母や娘・孫一家なども同じ一角に葬られています。
Green-Wood Cemetery, Brooklyn, New York, USA

◆どんな外見だったのでしょう
晩年の横顔写真は遺愛の資料にあります。
また、夫人が1872年に申請した旅券 [†] の記録では、身長5フィート4インチ(約162センチ、当時の女性としてはやや高め)、顔はたまご形、額は高く、鷲鼻、口の大きさは中くらい、目の色はグレイ(灰色)、髪の毛と肌色ともに dark となっています。
彼女の姉と、姪の写真も現存しています。
†この旅券で夫人は Far East を訪問したようですが、具体的な国名は不明。残念ながら日本ではなかったようです(少なくとも1872年の日本の新聞の船客名簿に名前がない)。ライト夫人は旅好きで、たとえば、1875年以前にエルサレムを訪問していたことがわかってます。

_Mrs_Caroline_R_Wright_portrait_2.jpg


◆死因はなんですか?
新聞の追悼記事によると、死の数か月前に paralytic stroke(中風の発作)を起こし回復しなかった、とのことです。満84歳でした。
The Sun, April 21, 1896, p.2.〔本稿末尾に記事画像あり〕

◆本人の結婚前の名前と、結婚相手の名前を教えてください
生まれたときはカロライン・ロックウェル・デイヴィス Caroline Rockwell Davis
最初の夫(1833年以前に結婚) ブラウン Brown/Browne (Mrs Brown/Mrs Browne) ※名は不明
2度目の夫(1836年7月結婚) アルヴァ・B・デュエル Alva B. Deuel (Mrs Caroline R. Deuel)
3度目の夫(1863年10月結婚) ジョーゼフ・アルバート・ライト Joseph Albert Wright(Mrs J. A. Wright, Mrs Governor Wright)

◆両親やきょうだい、先祖はどんな方でしたか
父のアルバン・デイヴィス Alban Davis については、生没年以外に調べがつきませんでした。1810年の国勢調査では8人家族の長、現 Albany の Greenbush, Rensselaer, New York 在住となっています。
母方のカウリー Cowley 家は、アイルランドの出身。祖父の St. Leger Cowley がアメリカに移民し、アメリカ独立戦争で戦ったことがニューヨーク州デラウェア郡(Delaware Co.)の郡史に載っています。
Lineage Book by Daughters of the American Revolution, 1910, p.302 にも言及あり
カロラインの母マーサ・カウリー Martha Cowely は1776年 Harpersfield, Delaware Co., New York の生まれ。1796年、20歳でアルバンと結婚しましたが、末の子であるカロラインが生まれた翌年離婚しました(新聞の告知あり)。晩年はカロラインと同居(葬儀の記録あり、墓も同じ区画)
判明したきょうだいのうち、兄の Joel Hubbard Davis は農業、のち大工。兄 William R. Davis は鉄砲鍛冶。姉 Eliza の夫はパン&菓子屋。

◆子孫の方はいますか
以下の家系図をご覧ください。2018年現在、直系の子孫はいません。最後のひ孫(エリノア・S・ウェンデル Eleanor S. Wendell)が独身で亡くなり、彼女の血を継いだ子孫は絶えました。このエリノアさんが亡くなったのは1992年なので、『遺愛七十五周年史』の出た1960年にはまだまだお元気だったはず。

_mrs_c_r_wright_familytree_2.jpg
日本語版簡易家系図
(クリックすると拡大)
英語版詳細家系図(pdf)はこちら
Family
Tree of Mrs Caroline R. Wright 1812-1896


◆血の繋がった、いちばん近い親族は?
やはり教会活動に熱心だった、10歳年上の姉エリザさん(ハウ夫人)の子孫がアメリカで存命しています。なかでも、お名前を受け継いだ Caroline Lockwood Duncombe (Caroline Duncombe Pelz 1918-2007) さんに注目。彼女の追悼記事はこちら→ New York Times / Legacy.com
また、14歳年上の兄ジョエルさんの子孫も存命しています。

◆ライト夫人が所属していた教会は?
教派はメソジストです(2番目、3番目の結婚はメソジスト教会で挙式)。
2番目の結婚以降の所属教会名は、ニューヨークのマンハッタンにある聖パウロ・メソジスト監督教会 St. Paul's M.E. Church [St. Paul's Methodist Episcopal Church]。当時は通りの名前でも呼ばれていたようです(例:Mulberry Street Church)
夫人が函館の女学校のため献金したときの報告は、所属教会名で「St. Paul's ($1,800.00 from Mrs Jos. A. Wright for Memorial School at Hakodate)」となっています。ライト夫人の葬儀を司式したのは、同教会の牧師パーマー師 Rev. Abraham John Palmer (1847-1922) でした。
*教会の歴史はこちら
この教会は1857年まで 305 Mulberry Street にありましたが、Fourth Avenue at 22nd Street に移転、現在はさらに場所と名前を変えて聖パウロ・聖アンデレ・ユナイテッドメソジスト教会 St. Paul and St. Andrew United Methodist Church, 263 W 86th NYC として存続しています。(ゆかりの地マップ参照)


◆夫人はお金持ちの生まれだったのですか
父親の職業が判明していませんが、いわゆる富裕層の出身ではないようです。かといって最下層でもありません。
判明した範囲では、農夫、鉄砲鍛冶、商店主、商人が近い身内にいます。

◆夫人の経歴・職業などについて教えてください
夫アルヴァ・デュエルは帽子屋で、1 Maiden-Lane で営業していました。娘婿も商人、姉の夫はパンやお菓子を製造販売していました。メソジストに多かった商人、小売業従事者です。
カロラインも一時期、マンハッタンで婦人帽のお店(帽子屋)を営んでいたことが判明しています。
1843年、末の子の出産から3カ月後、ヨーロッパの最新流行を取り入れたというふれこみの帽子店を 297 Broadway (ブルックリンではなく、マンハッタンのブロードウェイ)に開店。その名も「Paris Millinery」といいました(下の新聞広告参照)。このことは、のちの献金の話と関係してきますので覚えておいてください。

1843_09_21 Mrs Deuel Paris Millinery AD.jpg

*当時の女性ファッションのイメージはこちら

1845/46には店は 369 Broadway に移転、1850/51からは341番地に移り、店をたたんだのは1852年頃のようです。その後は 4 Bond Street に住み milliner(帽子製造人)の職業名を挙げていましたが、1860/61版 Directory から職業名が消え、また国勢調査にも職業がないので、1860年にはもう帽子製造はやめていたと思われます。この 4 Bond Street には、夫に帯同してベルリンに行くまで住所がありました。
*New York Board of Education, Manual, 1866 ed. p.335.

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1857年版 New York City Directory より


◆夫人はすべての夫と死に別れたのですか?
20歳前後で結婚したとおぼしき最初の夫ブラウン Brown / Browne 氏について、結婚や死亡の記録などは発見されていません。また本稿では「最初の夫」としていますが、夫人や娘の名前によって確認された限りでの、最初の夫という意味です。
24歳で結婚したアルヴァとは、離婚していた可能性があります。というのも、彼は1857年にイリノイ州で亡くなったのですが、その遺産処理の書類で、当時唯一生存していた子どもであるメアリ Mary Frances Deuel(後述)が「唯一の係累・相続人」となっていたからです(遺産1,356ドル5セント)。娘が唯一の相続人ということは、カロラインはもはや法的な妻ではなかったと考えられます。
離婚の記録そのものは未発見ですが、末子が死んだ1845年の New York City Directory にはアルヴァの名前の記載がないので、その頃には少なくとも別居していたはずです。
51歳で結婚した最後の夫ジョーゼフはベルリンで亡くなり、遺体はアメリカに運ばれ、聖パウロ・メソジスト監督教会で葬儀が行われました(説教者は、結婚式を司ったジェーンズ監督、後述)。55歳で寡婦となったカロラインは以後独身を通し、ライト夫人として亡くなりました。
*彼女の名前表記として、Mrs. ex-Gov. Wright, N.Y. / Mrs. Governor Wright, of New York / Mrs. Governor Joseph A. Wright などのパターンあり。

_1896 CRW death notice.jpg

夫人の死亡告知
New York Herald, 20 April 1896, p.1
この新聞以外にもいくつかの新聞に記載あり


◆夫人が書き残したものはありますか
夫人の書いた書籍や冊子類では以下のものがあります。
Caroline R. Deuel, Scripture Lessons, Designed for Sunday Schools and Families: Subjects: the Bible, Six Ages, Miracles, Prophecies, Jerusalem, and Characters, Carlton & Porter, 1858(日曜学校と家庭のための聖書日課、総174頁)
Duty and Blessedness of Christian Effort, compiled by Mrs. Caroline R. Wright(キリスト者の働きのうちにある義務と幸い/小冊子/自費出版)
ほかに、Sunday-School Manual(日曜学校の手引き)という小冊子もあるようです。
遺言も現存します(たとえば https://www.ancestry.com/ で閲覧可能です)。

また、メソジスト監督教会のエドモンド・S・ジェーンズ監督 Edmund S. Janes (1807-1876) の伝記に、長年の友人として言及があります。
The Life of Edmund S. Janes, by Henry Bascom Ridgaway, 1882, pp.42-43, 259, 291.

◆夫人は函館の女学校のためにいくら寄附したのですか?
1,800ドルですHeathen Woman's Friend, July 1881, p.2)
1,700ドルとしている資料がいくつかありますが、その寄附は1880年12月時点のもので、その後100ドルが追加され、合計1,800ドルとなりました。
夫人の寄附はこれにとどまらず、その後も、たとえば:
1884年4月に100ドルを学校に献金Heathen Woman's Friend, June 1884, p.291
1886年末にクリスマスツリーや Mason & Hamlin(ピアノ)などの贈り物ibid, April 1887, p.258)
なお、1889年の遺愛校長のサラリーは600ドルでした。(*)

◆夫人が女学校設立のために献金した経緯を教えてください(英語版)
英語の主な資料には以下のものがあります。
Heathen Woman's Friend, January 1881, p.160 *この時点の金額$1,700
Heathen Woman's Friend, July 1881, p.2; pp.11-12 *100ドルが加えられて、金額$1,800
The Story of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1869-1895, by Frances J. Baker, 1898, pp.335-37.


上記の話をまとめると、以下のようになります。
1879年の暮れ〔12月26日〕、東京・明石町(築地)のメソジストミッション関連施設が火災で焼失(cf. メソジスト外国伝道協会年次報告1880, pp.168-69, 172 / *)。ライト夫人はこの校舎再建の助けになればと、バザー用の手芸品の準備を始めたが、献金に到る前に、東京の建物再建は早々に目途が立ち、いわば目標を失うかたちになった。そこへ、友人から函館の女学校設立の話を聞き、献金先を変更。みずから刺繍針を動かし、2名の孫娘も手伝って、8カ月かけて手芸品を準備した。自邸で即売会を開き友人や支援者から1,700ドルを得た。その後に得た50ドルの寄附に、みずからの献金を加えて合計1,800ドルとした。婦人外国伝道協会ニューヨーク支部は、この献金で夫人の名前を冠した学校を建てるよう函館ミッションの責任者デヴィッドソン師に要請した。
というものです。
* 火元は日本橋箔屋町の焚き火で、西北の強風に乗り、現在の新富町・入船町・築地などに被害が広がる大火となった。明治12年12月27日付東京日日新聞別刷は1頁を被災地図、別の1頁をすべて記事に割き、「〔…〕船松町より明石町へ移り外国館を焼立てし」とある。

キリスト教的に強調されているエピソードは、(ただを書くのではなく)神さまの御用のために自分の労力をそそいで奉仕したい、そして亡くした娘たちの思い出のためになにかをしたいという気持ちから、ライト夫人が自らの手でひとさしひとさし刺繍した手芸品を献品した、ということです。夫人は上述のごとく、かつて婦人帽子のお店を開いていたため、非常にセンスの良い、プロ並みの作品が作れたのでしょう。また、それらを買い上げてくれる友がいた、それだけの人脈・交友関係があったということも見逃せません。
なお、函館の女学校のことを夫人に教えた「友人」が誰だったのかは、わかっていません。日本にいたフローラ・ハリス夫人(Flora Best Harris 1850-1909)の可能性が高いですが、彼女と文通していたのかどうかは、まだ確認が取れていません。

◆夫人が女学校設立のために献金した経緯を教えてください(日本語版)
日本語で読める主な書籍資料では、以下のものがあります。
○『遺愛女学校五十年略史 : 明治15年創立 遺愛女学校』遺愛女学校 1932 / pp.8-9
○七十五周年誌編纂委員編『遺愛七十五周年史』遺愛女子高等学校 1960 / pp.12-13
○「カロライン・ライト 函館遺愛女学校を生んだ人」〜須藤隆仙『北海道と宗教人』教学研究会 1965 / pp.159-160
○遺愛100年史編集委員会編『遺愛百年史』遺愛学院 1987 / pp.29-30


ネットでは
○遺愛学校法人 遺愛学院 歴史沿革 http://www.iaijoshi-h.ed.jp/main/about/history.html
○創立の背景と歴史 学校法人 遺愛学院 http://soper.kirisutokyo.jp/pdf/IaiGkuin.pdf
○日本キリスト教団 教団新報 【4771号】宣教師からの声 番外編 2013/04/20 http://uccj.org/newaccount/9665.html *かつて遺愛に伝わっていた「危篤の娘の元に駆けつけ」エピソードを盛り込んだヴァージョン


上記の教団新報にあるエピソードが「ライト夫人伝説」とでもいうべきもので、外国(ベルリンもしくはセビリア)にいた夫人が、娘の危篤の報に急遽帰国、ぎりぎり臨終に間に合った。夫人は神の恩寵に感謝し、この娘の教育資金+編み物・刺繍の売上げを函館の女学校のため献げた、というものです。このエピソードは上に挙げた主な日本語の書籍資料すべてに載っていますが、現在の遺愛の公式サイトで閲覧できる「沿革」には掲載されていません。

◆ライト夫人が亡くした娘の名前を教えてください
ライト夫人は判明している限りでは、子どもを4人生んだことがわかっています。その全員が、夫人より先に死亡しています。
長女:エリザ・ハウ・ブラウン Eliza Howe Brown 最初の夫 Brown の娘、1833年頃誕生。結婚して Mrs Darley Randall となる。なお、Eliza Howe とはカロラインの姉の名(結婚後の名前)で、いかに姉妹の関係が強かったかがわかります。
次女:メアリー・フランセス・デュエル Mary Frances Deuel 2度目の夫 Deuel の娘、1837年頃誕生。結婚して Mrs William Ward Peck となる。
三女:Caroline Jane Deuel 1839年誕生、2歳で死亡。
長男:Theodore Bond Deuel 1843年誕生の末子。唯一の息子と思われるが、1845年に2歳で死亡。

◆夫人が遺愛に献金する動機となった娘は、どの人ですか?
長女エリザは1868年に35歳前後で亡くなっています。
次女メアリー・フランセスはその11年後、1879年2月13日に死亡、年齢は42歳ほどでした。死亡時期から考えて、このメアリー・フランセス(ペック夫人)が「臨終に間に合った愛娘」に該当するといえそうですが、年齢は上記のごとく40歳を過ぎていたので、貯めていた教育資金を献金、というストーリーには当てはまりません(ただし、メアリーを亡くした同じ年、30ドルを彼女の記念として伝道協会に献金した記録あり)

1880年12月の新聞記事では、夫人は「娘の Mrs Mary Peck の思い出のために1,700ドルを寄附」したと報じられています。

1880_12_23_Northern Christian Advocate 02.jpg

Northern Christian Advocate (Syracuse, New York), 23 Dec 1880, p.5
おそらくは学校のことが報じられたもっとも初期の記事
函館の綴りが Hakodati となっている


いっぽうで、Heathen Woman's Friend の記事では子どもは複数形です。すなわち、「in tender memory of her two only and sainted daughters.」「as a perpetual memorial and a mother's monument to her children.」(January 1881, p.160)、「as a precious memorial of her children」(July 1881, p.2) とあるので、片方の娘ではなく、成人後に亡くしたふたりの娘を記念して献金したと受け取るのが適切と思われます。
※ひとりの娘の思い出のためというなら、なぜ校名を「Mary F. Peck Memorial School」としなかったのかという疑問も湧きます。

◆夫人にはほかに義理の子どもがいましたか?
最後の夫、ライト元知事が亡くなったとき、彼には存命の子どもが3名いました。
最初の妻の息子ジョン・クック・ライト John Cook Wright 1832-1926(1861年に結婚)
2番目の妻の息子(ふたご)ジョーゼフ Joseph Albert Wright Jr 1855-1932
娘(ふたご)ハティー Harriet [Hattie] Burbridge Wright 1855-1923
ふたごの2人は父親が亡くなったときまだ11歳。義母カロラインの下で成長したようです。後者のハティーは夫人の家で結婚式を挙げています(1879年11月)。

◆娘のメアリー・フランセスが亡くなる直前、夫人は、夫が公使をしていたベルリンにいたのですか?
プロイセン公使だった最後の夫ジョーゼフ Joseph Albert Wright がベルリンで57歳で亡くなったのは1867年5月11日です。メアリー・フランセスの死よりも12年前のことで、少なくとも夫の任期中にベルリンから駆けつけたわけではありません
「夫君と共に長くベルリンに滞在」と書かれていることがありますが、結婚が1863年10月、2年後の1865年9月に夫がベルリンに着任(2度目)、そして1867年5月に夫が亡くなっているので、公使夫人としてのベルリン滞在は2年に満たないということになります。
プロイセン駐在のアメリカ人外交官リスト 1777-1865
余談◆南北戦争終結の翌月に、ジョーゼフを公使に任命したのはリンカーン大統領でした。そのためでしょう、カロラインの遺品のなかにリンカーン夫妻の遺髪がありました(最後の子孫が没した1992年、Christie's に出品 サイト)同じくカロラインが所持していたもので、大統領のサインが入った本はこちら

◆それでは、夫人は(遺愛の学校史本にあるように)スペインにいて、そこで「娘が危篤」の報を聞いたのでしょうか
スペインにいたのかどうかは、(まだ)資料が見つかっていません。
見つかった船旅の記録は、ニューヨークから英国のリヴァプール Liverpoolに往復したときのものです。出港は1878年6月5日、そして帰着は同年9月27日。夫人と継娘 Hattie の名前が船客名簿にありました。リヴァプール経由でスペインまで往復した可能性もあるので、この旅が該当するのかもしれません。
ただし、この旅だとしたら、帰国から娘メアリー・フランセスの死まで、4カ月以上の間が開いています。臨終にぎりぎり間に合った、というストーリーにはなりません。
The American Register, 22 June 1878, p.2; Shipping News, 28 Sept 1878, p.12.
*往路の船客名簿には、翌年 Hattie の夫となる Brinton 一家の名も見える。復路にはない。そもそもこの旅で知り合ったものか、あるいは一緒に旅行を計画したがライト夫人組のみ、娘危篤の報を受けて予定を切り上げ帰国したのか。いろいろ想像できる。


◆夫人にはお孫さんがいましたか?
少なくとも3名孫がいたことがわかっています。(家系図参照)
成人したのは2名で、1858年生まれのアン・フランセス Anne Frances Randall(愛称 Annie)、女学校設立の1882年には24歳。
もうひとりのグレース Grace Frances Peck は1868年生まれなので、学校設立時には14歳でした。もし彼女が亡くなっていたのであれば「教育資金」云々の話と辻褄が合いますが、1959年まで生きていたので、直接の関係はありません。

◆遺愛女学校設立のきっかけになった文章とされる、フローラ・B・ハリス夫人による「如何にして婦人を救うべきか」の文章はインターネットで読めますか?
はい、読むことができます。
*“How are we to reach the women?”, by Mrs. Flora Best Harris, Heathen Woman's Friend, Vol.8, October 1876, pp.80-81.

◆上記の文章は、実際にライト夫人の心を動かしたのでしょうか?
そう書いているのは、日本語の資料のみです。
*『遺愛七十五年史』の編集後記によると、ライト夫人について触れた初期の資料には「同窓会報八号、十二号、五十年略史」があるとのことです
アメリカ側の資料では、特に言及のあるものは(まだ)見つかっていません。
ただし、婦人外国伝道協会の役員だったライト夫人が、同協会の機関誌 Heathen Woman's Friend の読者だったことは百パーセント間違いなく(ニューヨーク支部の献金者リストの常連)、ハリス夫人の記事を読んでいたと考えるほうが自然です。

_1882_oct_Heathen Woman's Friend 001.jpg
1882年開校当時の校舎
出典:Heathen Woman's Friend, October 1882, p.73
Miss Kate Woodworth による学校の紹介が載っている


◆創立当時の学校の名前は?
冒頭で触れた通り、主たる献金者ライト夫人の名前を冠して開校しました。英語の表記はいくつかあります。
【英語の表記例】
Caroline Wright Memorial School / Caroline Wright Memorial
Heathen Woman's Friend, January 1881, p.12/Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1884&1886/The History of Methodism, by John Fletcher Hurst; Annual Report of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church 1895-96, p.63Burlington Weekly Hawk Eye, 26 April 1888 (Nakano Tomoという遺愛の生徒の記事あり)/The Education of Women in Japan by Margaret E. Burton. 1914, p.95The Christian StudentHistory of Methodist MissionsAnnual Report of the Northwestern Branch of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church 1905/06, p.55
Caroline Wright Seminary
Heathen Woman's Friend, November 1881, p.106; April 1882, p.223/The Gospel in All Lands, 24 August 1882, p.93/Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1883 & 1885/Journal of the General Conference of the Methodist Episcopal Church, 1888/The Early Schools of Methodism by A. W. Cummings, 1886
Caroline Wright School
Northern Christian Advocate, 23 Dec 1880/Heathen Woman's Friend, Jan 1881, p.160, 1885, etc./Woman's Missionary Friend, August 1896, p.51, 1897/Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal ChurchThe National Cyclopaedia of American Biography: Harris, Merriman Colbert, p.122
Caroline Wright Memorial Seminary
Heathen Woman's Friend, Feb 1883 p.174; October 1890/Annual Report of the Woman's Foreign Missionary, 1889/90
1885(明治18年)に校名は「遺愛女学校」と改称されましたが、19世紀の資料を当たっていると、1885年以降も、アメリカのメソジスト教会では(当然ながら)夫人の名前を冠した学校名をそのまま使っていたことがわかります。「Iai 遺愛」の文字を入れたものでは、以下のような表記も見つかりました。
Iai (Caroline Wright Memorial) Girls' School
Iai Girls' School (Caroline Wright Memorial)
Iai Jo Gakko


【日本語表記例】
カロライン、ライト、メモリアル女学校
*函館新聞 明治15年2月2日 p.3 / 明治15年2月4日 p.3

◆夫人は青森県弘前の女学校のためにも寄附をしたのですか?
夫人がもうひとつの学校のため寄附をした、というより、函館の学校に向けた夫人の寄附の一部が弘前の学校設立のために用いられた、という表現のほうが正しいようです。
学校は当初 Preparatory Caroline Wright Memorial School、日本語ではライト夫人の名をとって来徳女学校(らいとじょがっこう)と呼ばれました。現在の弘前学院聖愛中学高等学校です。
夫人はこの学校のためにも贈り物をしていたことが記録に残っています。
Heathen Woman's Friend, Dec 1887, p.151
Annual Report of the Woman's Foreign Missionary, 1887, p.43; 1889, p.52.
聖愛の歴史1
*1893年の Japan Daily Mail でこの学校は Hirosaki Girl's School とある。Christian Year Book では1909年: Hirosaki Jo Gakko, Hirosaki Primary Acad. Girls / 1912年: Hirosaki Highter Girls' School となっており、いずれも Caroline Wright の名前は消えている。いっぽうで、同じ資料において遺愛のほうは Caroline Wright Memorial の名が併記されている。


◆「敬虔な信者」「慈善家」とのことですが、どんな働きをしたのでしょうか
行動するクリスチャンだったのは確かです。夫人は生涯の60年ほどを、教会を通じた慈善活動に費やしました。
1834年、ブラウン夫人だったごく若いころからメソジスト教会とつながっていました。1839/1840年には New York Clothing Society の Secretary として、貧民へ衣料を援助する働きに携わりました。
1850年代は国内伝道に尽力、1852年に New York Ladies' Home Missionary Society の役員になっています(1866年に First Directress)。
もっともよく知られた夫人の働きは、ニューヨークのファイブ・ポインツ地区(スラム街)のためのもので、学校を設立して4万人を超える子どもたちに教育を与えました。
*1870: Five Points House of Industry, New York, First Directress
The Sun, April 21, 1896, p.2; Monmouth Republican Atlas Newspaper Archives, May 29, 1896, p.5
*Five Points Mission の歴史についてはこちら

地図を見てもらうとわかるとおり、夫人の帽子店はファイブ・ポインツ地区の近くに位置していました。この地域については、2002年のアメリカ映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』に描かれています。


Gangs of New York (2002) Official Trailer
カロラインが生きていた時代の雰囲気がわかる映画


1876年以降は外国伝道に傾注し、メソジスト監督教会の婦人外国伝道協会ニューヨーク(名誉)支部長を23年間務めました。
Annual Report of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1894-95, p.79.
遺愛への献金も外国伝道の一環です。
教会ではバイブルクラスの教師を務め、婦人聖書協会の manager となり(1877年)、書籍や小冊子も刊行しています(既述)。19世紀ニューヨークのメソジスト女性を代表する実力者のひとりだったといっていいでしょう。

※ヤギタニの個人的な想像ですが、彼女は決してお金持ちの暇つぶしや義務として慈善活動にいそしんでいたわけではなく、お金を稼ぐ苦労や貧困のつらさを自ら知ったうえで、スラムの子どもたちと実際に触れ合い、女児に教育を与えることの大切さを実感したのだと思います。市内での救済活動が軌道に乗ったため、国外、すなわち遠い日本の若い女性のためにも何かをしたい、という気持ちになったのではないでしょうか。
亡くした愛娘の教育資金を寄附、という話の裏付けは取れませんでしたが(当時夫人は60歳過ぎで、女学生の年頃の娘はいない)、彼女が遺愛の母と呼ぶにふさわしい、りっぱな人だったことがわかったのは収穫でした。


◆夫のライト元知事について知りたい
1849〜1857年にインディアナ州の知事を務めました。2人の奥さんに先立たれ、53歳でカロラインと再婚。
信仰をもったのは最初の奥さんの影響で、敬虔なメソジストとして生涯を終えました。
ベルリンに最初のメソジスト教会が設立されたときの立役者。メソジスト監督のジェーンズ師による評価はこちらにあります。

彼とカロラインは教会の活動を通じて親しくなったと思われます。また、カロラインが実兄たちの住むインディアナを訪問した際に、知り合った可能性もあります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_A._Wright ←カロラインについては情報貧弱
https://www.in.gov/history/2738.htm
https://history.house.gov/People/Detail/24131
http://www.thelatinlibrary.com/chron/civilwarnotes/wright.html
https://history.state.gov/departmenthistory/people/wright-joseph-albert
*死亡当時の新聞追悼記事: Cincinnati Daily Gazette (Cincinnati, Ohio), Aug 27, 1867, p.1.
*1960年代の新聞記事: The Indianapolis Star (Indianapolis, Indiana) May 24, 1964, p.85.


【 アメリカの国勢調査における夫人の記録 】
以下のものが見つかっています。(記載された年齢は必ずしも正確ではありません)

1840●US Census:世帯主=夫 Alvah の記録あり(家族6名、召使い1名。全員白人。家族は夫妻と娘3名+妻母と推定される)
1850●US Census:母 Martha Davis 74歳、Caroline R. Deuel 38歳、職業 Millinary、その娘 Eliza H. Brown 17歳、Mary F. Deuel 13歳と同居
1855●New York State Census:Caroline Duel 40歳(職業記載なし / 娘 Mary Duel 17歳、母 Martha Davis 80歳と同居)
1860●US Census:C. R. Deuel 45歳(娘 Mary F Deuel 20歳、商人の William W. Peck 42歳と同居)
1865○New York State Census 発見できず(ベルリンへの旅の途中? Peck夫妻は2人世帯で記録あり)
1870●US Census:Caroline Wright 58歳(娘婿の William Peck 50歳、 娘 Mary F. Peck 孫 Grace Peck 1歳、継娘 Harriett Wright 14歳と同居)
1875○New York State Census 発見できず
1880●US Census:娘婿 William Peck 60歳が筆頭者。Caroline Wright 67歳、Mary H. Drake 38歳〔夫人のコンパニオン〕、継息子 Joseph Wright 24歳、孫 Annie Randall 23歳 と同居
1890○US Census:(火災のため記録が現存せず)
1892○New York State Census:発見できず

1896_04_21 The Sun Caroline Wright Obituary 02.jpg

カロラインの追悼記事 The Sun, 21 April 1896, p.2.
ファイブ・ポインツ救済活動が大きく取り上げられている


◆   ◆   ◆


【資料入手先/参考文献】
Ancestry.com https://www.ancestry.com/
FamilySearch https://www.familysearch.org/
Find A Grave https://www.findagrave.com/
Hathi Trust Digital Library https://www.hathitrust.org/
Internet Archive https://archive.org/
GenealogyBank https://www.genealogybank.com/
NewspaperArchive https://newspaperarchive.com/
The New York Public Library Digital Collections / NEW YORK CITY DIRECTORIES

Heathen Woman's Friend
The Gospel in All Lands
Annual Report of the Woman's Foreign Missionary Society of the Methodist Episcopal Church [Heathen Woman's Friend 後続誌]
Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal Church *意外なほど言及が少ない
Journal of the General Conference of the Methodist Episcopal Church
Manual of the Methodist Episcopal Church
*お世話になりました 函館市中央図書館
国立国会図書館


ver 1.0 2018/01/26
posted by やぎたに at 17:35 | Comment(0) | 函館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年01月02日

エマからエミリーと改名したフルベッキの娘

最終更新 2018/01/11 ver.1.05


今回のテーマは、フルベッキの次女、エマ Emma Verbeck / Emily Terry(1963-1943)なる女性。米国オランダ改革派教会宣教師フルベッキことヴァーベック(Guido Herman Fridolin Verbeck 1830.01.23 - 1898.03.10)を父に日本で生まれ、米国聖公会の宣教師となった女性です。
彼女の改名と、正確な没年について明らかにします。
また、彼女の末弟となる七男バーナード Bernard Verbeck (1881-1932) の名前の変化と逝去日についても最後で触れます。
◆   ◆   ◆


フルベッキの次女とは、どんな人だったのだろうか?
その話の前に、まずは先に生まれた長女のお話から。

長女エマ・ジャポニカ
ヴァーベック夫妻にとってのはじめての子どもは、1860年1月26日(木)に長崎で誕生し、エマ・ジャポニカ Emma Japonica と名づけられた。
この女児は、日本が鎖国を解いてからはじめて生まれたクリスチャンとされている(潜伏キリシタンをカウントしなければ)。1月29日の主日に、ヴァーベックはこの子に洗礼を授けた(改革派教会では幼児洗礼を行う)。だが赤子は2月2日(木)に短い生涯を終えてしまう。エマはいま長崎国際墓地に眠っている。[ Find a Grave : Emma Japonica Verbeck ]
*グリフィスのヴァーベック伝には、2月9日逝去と書かれていので、この子の逝去日を9日とする資料も多い。その場合の受洗日は2月5日となる。本稿で逝去日を2月2日とするのは、墓石に刻印された日付けに従った結果である。
なお、夫妻の結婚日は1859年4月18日なので、長女エマはハネムーンベビーということになる。

エマを失っておよそ1年後、ヴァーベック夫妻には長男ウィリアム Charles Henry William が1861年1月18日に誕生。

次女もエマ・ジャポニカ
1863年2月4日には再び女児が誕生した。誕生日の日付けは村瀬寿代論文掲載のヴァーベック書簡に基づくが、『クララの明治日記』(以下の引用は講談社版)1877年1月31日の記述に従えば、2月7日生まれとなる。
この次女に、ヴァーベック夫妻は長女と同じ名前をつけた。Emma Japonica Verbeck である。

エマは米国聖公会の C. M. ウィリアムズ司祭から洗礼を受け、長じて同じウィリアムズ師から堅信礼を受けた(cf. The Spirit of Missions, Vol.63, August 1898, p.374)。そんなエマがその後、両親の属する米国オランダ改革派教会ではなく、米国聖公会の宣教師となったのもうなずける。
なお、1865年11月生まれ(1900年国勢調査)の次男がチャニング・ムーア(Channing Moore)という名前なのは、もちろんチャニング・ムーア・ウィリアムズ師に由来する。[*1 国勢調査記録]

フルベッキ群像写真

有名なフルベッキ群像写真

ここにフルベッキと写る子どもはエマと言われている
(2歳年上の長男ウィリアムの可能性も?)
verbeck group photo detail.jpg

*ほかに、犬塚孝明、石黒敬章『明治の若き群像――森有礼旧蔵アルバム』平凡社 2006 にもエマを含むフルベッキ一家の写真あり。
*ネットでは「NPO法人 高峰譲吉博士研究会 寄稿(9)外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本 (その1)/石田三雄」ページ内に同じ写真あり(こちら


クララ日記に登場するエマ
エマはクララ・ホイットニー(Clara A. N. Whitney 1859-1936)の友人だった。エマより4歳年長だったクララの日記から、いくつか紹介しよう。
クララの明治日記 1878年2月22日(エマ15歳)
ヴァーベック氏一家が帰国されると聞いたので、授業が終わってから母と私は挨拶に行った。〔…〕私は先にエマのところへ行った。エマは大はしゃぎでおしゃべりをした。カリフォルニアのどこかに住む予定だそうで、一ヵ月以内に発つということだ。エマはとても面白い人なので行ってしまうのは寂しい。
――講談社版(上) p.245


しかし出発は遅れ、4月末になってもエマはクララの日記に登場する。
1878年の新聞を調べてみたところ、7月31日に San Francisco に向け出港したアメリカの蒸気船 China 号の船客リストに Dr. and Mrs. Verbeck and five children, C. W. Verbeck [sic], Miss Verbeck の名前があった [The Japan Weekly Mail, Aug 3, 1878, p.767]。このうち最後の Miss Verbeck がエマのことである。7月17日に精養軒で送別会が開かれ、岩倉具視ら政府高官も顔を出したという。[*2]

クララの明治日記 1878年9月24日(エマ15歳)
ジェニーとガシーはエマから手紙を貰った。エマはサンフランシスコが気に入っているが、女の人たちの太い腰や大きい胸に驚いている。〔…〕ヴァーベック夫人は日本が恋しくて、エマと自分自身のために日本から沢山の絹の服を注文された。新品の洋服の関税はとても高いのに、馬鹿なことだ。エマは私にも手紙をくれると約束したのに書いてくれない。
――講談社版(下) p.26


上記の日記からおよそ1年後の1879年9月13日、 Professor G. F. Verbeck はひとり San Francisco からGaelic 号で帰国した。[The Japan Mail, Sept 20, 1879, p.516]
残った家族は翌1880年の国勢調査に記録が残っている。ヴァーベック夫人と8人の子どもたち(William, Emma, Channing, Gustavus, Guide, Arthur, Nellie, Bernard)は Oakland, Alameda, California に住み、17歳の Emma は学生(at School)となっている。
*サインインすると原本画像が表示されます→ United States Census, 1880 (no.4) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:M6G2-LBD

この国勢調査からほどなく、エマを含む家族の一部は日本に戻った。1880年7月23日、横浜に到着した City of Tokio 号の旅客リストに Mrs. Verbeck and three children の記載がある [Japan Weekly Mail, July 24, 1880, p.968] 。この船旅の途中、7月13日に生後6カ月の弟 Bernard が亡くなった。亡きがらは水葬にはされず、横浜外人墓地に葬られた。


The American steamer City of Tokio reports :−Sailed from San Francisco July 3rd, at 12.30 p.m. Died, July 13th, at 2 p.m., Bernard, infant son of Maria Verbeck, aged six months, body embalmed.
[Japan Weekly Mail, July 24, 1880, p.969]


米国聖公会・女性宣教師エマ
その後の彼女は Miss Emma Verbeck として記録に出てくる。日本聖公会の教役者名簿・外人女子の部でも「Miss Verbeck, Emma T.」とある(イニシャルの「T」が謎だが)。1883年6月、20歳で米国聖公会の宣教師(築地の立教学校の英語教師)となった彼女の、宣教報告誌におけるもっとも古い言及はおそらくこれ。

Miss Emma Verbeck, the daughter of Dr. Verbeck, one of the oldest and most influential Missionaries in Japan, joined the Mission in the spring. She teaches English in St. Paul's School and singing in both boarding-schools.

− Annual Report of the Missionary Bishop of Yedo, For the year ending June 30th, 1883. / The Spirit of Missions, 1883, Vol. 48, p.585


クララにとっては、エマはまぶしい存在だっただろう。高名な父をもち、アメリカで教育を受け(大学には行っていないが)、キリスト教布教のために日本で働き出したのだから。
クララの明治日記 1883年12月11日(エマ20歳)
午後エマ・ヴァーベックが訪ねてくれて、くつろいでおしゃべりをした。とてもよい人で、私は彼女を尊敬している。
――講談社版(下) pp.236-37


1888年の Directory には American Episcopal Mission / Miss Emma Verbeck, 1, Irefunecho, Tsukiji(築地入船町一)とある。宣教師リストのトップは彼女に洗礼・堅信を授けたウィリアムズ師 Rev. C.M. Williams。1890、1894年の住所も築地居留地だった。

ここで、エマについての紹介文を3点引用しておく。記事により、細部が異なる。

★〔…〕フルベッキの盟友、聖公会のウィリアムズ、C.M.から受洗。彼女は長じて米国オークランドの高校を卒業、82(明治15)年に帰来。83年春から立教女学校で英語と音楽を教え、わずか3カ月で生徒らは長足の進歩を示し、ミス・ヴァーベックとして敬慕されたという。折から着任の林歌子に日本語を学び、教会の礼拝に奉仕。97年休暇を得て帰米したが、翌春、父の死により日本に引き返した。99年テリー、H.T.(Terry, Henry Taylor 1847-1936) と結婚、宣教師を辞した。〔…〕
――日本キリスト教歴史大事典 教文館 1988 / p.151〔筆者:海老沢有道〕


★次女のエマはその後カリフォルニア州オークランドで高校を卒業して,聖公会宣教師となり,立教女学院で音楽を教えた。1885年秋以来父と一緒に東京で住み,父の最期を看取った。彼女は1898年一度アメリカに戻るが,翌年東京大学お雇い教師のテリー教授と結婚して,長く日本に住む。長寿を全うし,1949年に亡くなった。
――村瀬寿代「フルベッキの背景―― オランダ,アメリカの調査を中心に――」〜桃山学院大学キリスト教論集第39号 2003(CiNii


★夭折した長女と同じ名前を付けられた次女のエマは、22歳になった1885 (明治18)年4月に東京女子師範学校付属高等女学校専修科に英語、音楽の教員として採用されたことが、太政官作成の公文書「官吏雑件」(国立公文書館所蔵)に記録として残されている。おそらくアメリカで教育を受けてから日本の両親のもとに帰ってきて、社会人としての第一歩を踏み出したと推定される。その後、エマは父の死の翌年(1899)、お雇い外国人教師・東京帝国大学法科大学教授のヘンリー・テリー(Henry T. Terry,1847〜1936)と結婚している。
――石田三雄「明治の群像・断片[その9] ――外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本」2012(PDF版


エマの結婚と改名
1899年7月、東京帝国大学で英米法を教えていたテリー教授が、故ヴァーベックの娘と結婚した。彼女の名は、エミリー Emily という。

1900年6月、W. E.グリフィスがヴァーベック伝を書いていたときに生存していた息子たちは William, Channing, Gustavus, Arthur, Bernard、娘は Emma と Eleanor(通称 Nellie、1874年9月23日生まれ) の2人のみ。Emily という名前の娘はいない。グリフィスは、Emma がテリー教授 Professor Terry (Henry Taylor Terry 1847-1936)と結婚したと記している。
(William Elliot Griffis, Verbeck of Japan, a Citizen of No Country : a Life Story of Foundation Work Inaugurated by Guido Fridolin Verbeck, Fleming H. Revell Co., 1900, p.297

新聞に掲載された結婚告知はこちら。築地の聖公会・聖三一教会(築地三一会堂)で挙式している。
名前が Emma ではなく、Emily となっていることに注目されたい。
なお、新郎51歳、新婦36歳の高齢カップル。ふたりの間に子どもは生まれなかった。

1899 Emma Verbeck Terry marriage.jpg

Marriage.
On Wednesday, July 12, at Trinity Church, Tsukiji, Tokyo, Miss Emily Verbeck, daughter of the late Rev. Guido F. Verbeck, to Henry T. Terry, Esq., of the Imperial University.
[Japan Weekly Mail, July 15, 1899, p.1]


ここでちょこっと、御雇外国人=テリー教授の略歴。
1847年9月19日、コネティカット州 Hartford 生まれ。1869年エール大卒、1872年コネティカット州弁護士。1876年来日、翌年まで東京開成学校(東京帝大)で教える。1877から東京帝国大学法科大学教師。1884年帰国してニューヨークで弁護士を開業。1894年(明治27年)再来日し、1912年の引退まで再び東京帝大で英米法を教授。身長5フィート9インチ、目の色はブラウン。
*こちらは1908年に描かれた彼の肖像画 [ National Portrait Gallery : Henry Taylor Terry ]

エール大学の卒業生物故録によると1899年7月12日、東京で「Emily, daughter of Rev. Guido F. Verbeck」と結婚とある。また、1909年の U.S., Consular Registration Certificates(在留届け)を見ても、「He is married to Emily Verbeck, who was born in Nagasaki, Japan」とある。彼の Passport の記録でも妻の名は一貫して Emily であり、Emma 表記となっているものはひとつもない。

◆   ◆   ◆


以上のことから、Emma エマ は宣教師辞任および結婚に合わせて、Emily エミリーと名乗るようになったとわたしは判断している。
どうして名前を変えたのか、その理由を示すものは(まだ)発見できていない。従って想像するしかないが、名前の出どころは、父の長姉エマ・マリア・エミリー Emma Maria Emily / Emma Marie Emilie ではないだろうか。1820年7月3日オランダ・ユトレヒト州の生まれ、1851年8月19日に31歳で亡くなっている(死亡記録)。ヴァーベック一家の子どもには父ギドーのきょうだいにちなんだ命名が多く、そもそも長女エマの名はこの伯母にちなんでつけられたという説がある。

わたしの見た範囲では、次女エマが自分で Japonica というミドルネームを使った形跡はない。名簿や書類において「J.」というイニシャルが書かれた例も発見できなかった。以下はまったくの推測だが、彼女は、亡き姉と同じ名前を気に入っていなかったのではなかろうか。名づけてくれた父が亡くなったこと、そして結婚を機に、伯母の名前 Emma Maria Emily から別の名前を選んだのだろう。Maria ではなく3番目の Emily なのは、母の名がマリアだったからだ。

米国のエマ/エミリー
テリー教授は上述の通り1912年に東京帝大を引退した。国勢調査で夫妻の記録があるのは、New York State Census の1915年から。
合衆国の1920年版によると、Emily Terry エミリー・テリーはニューヨークのマンハッタンで72歳の夫と二人暮らし。56歳(実際には57歳)
United States Census, 1920 (no.64)  https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MJB9-JQ8
1930年も同様である。67歳。
United States Census, 1930 (no.75) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:X42D-LZ2

夫のテリーが世を去ったのは1936年12月26日のことだった。気管支肺炎により89歳で死去。当時としてはかなりの長命である。コネチカット州 Hartford の Cedar Hill Cemetery に埋葬された。
Bulletin of Yale University, New Haven 1 December 1937, Obituary Record of Graduates of Yale University, Deceased during the Year 1936-1937
http://mssa.library.yale.edu/obituary_record/1925_1952/1936-37.pdf
墓石の画像 [ Find a Grave : Henry Taylor Terry ]


現在、父ギドー・ヴァーベックの墓は東京の青山霊園にある。その墓の手前に母マリア Maria Manion Verbeck の名が記されたプレートが置かれている。1911年4月2日、カリフォルニアの Alameda で亡くなったマリアの遺灰を日本に持って行ったのは、娘の Mrs Terry(エミリー)だったようだ。[San Francisco Call, 27 May 1911, p.14]

エマことエミリー Emily Verbeck Terry が亡くなったのは、第二次大戦中の1943年7月30日。場所は New York。
没年を1949年としている日本語文献があるが、夫と同じ墓地にある墓石がその逝去日を示している。

1943_Emily V Terry gravestone.JPG
墓石の画像→ [ Find a Grave : Emily Verbeck Terry ]


また、 Index to New York City Deaths 1862-1948 に、Emily Terry という80歳の女性が30 Jul 1943 に Bronx, New York, USA で亡くなったという記録がある。
*こちらは FamilySearch 版(原本画像がなく転写ミスが目立つが、明らかに Verbeck 夫妻の娘とわかる。ただし日本での出生日は「03 Jan 1863」になっている)→ New York, New York City Municipal Deaths, 1795-1949 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:2WPB-5R2 : 20 March 2015

すなわち、従来1949年没とされていたフルベッキの次女ミス・エマ・ヴァーベック(ミセス・エマ・テリー)は、1943年没のミセス・エミリー・テリーと同一人物であるとわたしは結論づける。

◆   ◆   ◆


末弟バーナードも名前変更
ここからは、ヴァーベック一家末子のお話。
上述したように、1880年にバーナード Bernard という名の赤子が船の上で亡くなった。その翌年、ヴァーベック夫妻最後の子どもが日本で誕生。同じく Bernard と命名される。

1900年のアメリカ国勢調査によると、未亡人となったヴァーベック夫人 Maria はカリフォルニアの Alameda で、この末子とふたりで暮らしていた。調査票にある記載によると、彼女は58歳、1841年1月アイルランド生まれ(墓石の生年は1840年。おそらくは41ではなく1840が正しい。ただし1月生まれであることがこれで判明した。なお、Philadelphia におけるギドーとの結婚時に彼女は19歳と3カ月だったことになる)。Bernard は19歳で、1881年8月、日本生まれ。ともに、移民年は1884年とある。マリアが出産した子どもは合計12名で、そのうち存命中の子は7名と記録されている。
1910年の国勢調査でも、Maria はやはり Bernard と二人暮らし。彼女は65歳となっており(女性の年齢さば読みの一例)、息子は25歳(これもさば読み。母40歳のときの子という計算なのであろう)。マリアの生んだ子どもの数は今度は11名、存命中7名となっている。
United States Census, 1900 (no.56) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:M9PM-Y9W
United States Census, 1910 (no.94) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:MV2M-1X1

*米国改革派教会提供の詳細な Verbeck 経歴、結婚の日付け含む:A Manual of the Reformed Church in America pp.269-73
*出身神学校提供、簡潔な Verbeck 経歴:General Biographical Catalogue of Auburn Theological Seminary pp.129-30

さて、この末子バーナードの消息について。石田論文では、彼の没年は不明となっている。どうして不明なのか。その理由は、姉エマと同じく、彼もまた改名――別の名前を使用していたからだということがわかった。

わたしが最初に発見したのは、彼の第一次大戦兵役登録カードだった(もっとも、1918年9月という終戦間近のもので、実際には兵役には服していない。cf.1920年の国勢調査)
United States World War I Draft Registration Cards, 1917-1918 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:KZVP-FWK
ここでは名前が James Bernard Verbeck とあり、1881年8月8日生まれの37歳。6フィート1 1/2 インチ(約187センチ)のやせ形、目はブルー、髪はブラウン。Alameda 在住の独身で、近親者は兄の Channing M. Verbeck(上述のヴァーベック次男)。サインは James B. Verbeck となっている。この書き方だと、Bernard の名が消えてしまうので、消息がつかめなくなるのも当然だった。
*なお、Japan Weekly Mail 及び The Japan Gazette の1881年8月分をチェックしてみたが、あいにく彼の出生告知はなかった。

次に、カリフォルニア、Oakland の Directory にある記載を追ってみると、

1899 Verbeck Jas B, r 1818 Jay(Chas, Miss Eleanor, Guido F Mrs と同じ)*Jas とは James の略
1900 Verbeck Jas B, r 1818 Jay(Mrs Marieと同じ)
1903 Verbeck Bernard, draftsman r 1818 Jay(Mariaと同じ)
1904 記載なし
1906 記載なし
1908 Verbeck James B, b 1818 Joy [sic](Maria wid Guido F と同じ)
1909 記載なし
1910 Verbeck Jas B, b 1818 Jay(Maria wid Guido F と同じ)
1911 記載なし
1913 Verbeck Jas B lab r 1818 Jay 職業 Laborer
1927 Verbeck J B h2209 Telegraph av
1930 Verbeck Jas B auto mech r2209 Telegraph av 職業 Auto Mechanic

というわけで、1899年、つまり父逝去の翌年からすでに James の名を使い出していたことがわかる。国勢調査での最後の Bernard 表示は、上述のように1910年。
1920年の国勢調査の名前は James B. Verbeck、39歳、日本生まれの独身で、下宿屋に暮らしている。職業はアート系のセールスマン。1884に移民、帰化済み。
最後のものとなる1930年の国勢調査でも独身、職業は今度はオートバイのメカニック。出生地は日本の築地。話語は「英語と日本語」とある。移民年は1885年(1年ずれている)。
United States Census, 1920 (no.2) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:MH37-FTW
United States Census, 1930 (no.39) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:XCXQ-BVW


*カリフォルニア州の選挙人登録名簿(State of California, United States. Great Register of Voters.)では1918年に「Verbeck, James B, 429 13th st, clerk.... Declines」という記載が見つかっている。

上記の資料で見る限り、「職を転々としていた」状態だったようだ。
亡くなったのは1932年12月9日、51歳。
*California Death Index, 1905-1939 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:QKS9-VV6F

すなわち、Bernard Verbeck として生まれた人物 = James Bernard Verbeck / James B. Verbeck 1881.08.08 - 1932.12.09 であることが明らかになった。結婚の記録は見つかっていないので、生涯独身と思われる。母 Maria と同じく死亡地は Alameda だった。

◆   ◆   ◆


*モルモンの FamilySearch で検索・閲覧できる国勢調査などの記録は、以前はリンクをクリックするだけで閲覧できたのですが、2017年後半から、サインインしていないと表示されないようになりました。いまのところ無料で利用できますので、原本画像を見たい人はサインインしてみてください。(2018/01/02)


注釈
[*1] Channing Moore Verbeck の記録
United States Census, 1880 (no.5) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:M6G2-LB6
United States Census, 1900 (no.71) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:M31X-4CM
United States Census, 1910 (no.64) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MKL7-HGX
United States Census, 1920 (no.16) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MH7P-21C
墓石 1928年10月25日没。[ Find a Grave : Channing C Verbeck ]

[*2] やはり米国聖公会宣教師となった妹 Eleanor(通称 Nellie、1874年9月23日生まれ)のパスポート申請記録によると、彼女は1878年春に日本を離れ、その年から1906年まで Alameda, California (San Franciscoのすぐ東)に居住したとある。次男 Channing の帰国も1878年となっている(1910国勢調査)。


【参考文献】
FamilySearch https://www.familysearch.org/
Ancestry.com https://www.ancestry.com/
Find A Grave https://www.findagrave.com/
An Historical Sketch of the Japan Mission of the Protestant Episcopal Church in the U.S.A., 1891, p.25
William Elliot Griffis, Verbeck of Japan, a Citizen of No Country : a Life Story of Foundation Work Inaugurated by Guido Fridolin Verbeck, Fleming H. Revell Co., 1900
『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988
村瀬寿代「フルベッキの背景―― オランダ,アメリカの調査を中心に――」〜桃山学院大学キリスト教論集第39号 2003
石田三雄「明治の群像・断片[その9] ――外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本」2012(PDF版
Lane R. Earns, A MINER IN THE DEEP AND DARK PLACES:'GUIDO VERBECK IN NAGASAKI, 1859-1869
Bios - Nagasaki Foreign Settlement : Higashiyamate Biographies / GUIDO F. VERBECK


ver1.0 2018/01/02

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2017年05月31日

函館シリーズ予告編

最終更新 2018/02/06 Ver.1.08

★☆ 函館シリーズ予告 ☆★

悲しいほどに、まとまっておりません。が、予告しておけばきっとやる気が出るであろうという希望のもと、「下調べは終わっているけれどもまだ書いていませんトピックリスト」を出しておきます。多くは「外人墓地」ネタです。
なんとかこなしていけますように……

◆   ◆   ◆


●ハコダテシリーズ――カロライン・ライト夫人
メソジスト系ミッションスクールとして知られる函館の名門女子校・遺愛学院。校舎建設のために多額の献金をしたアメリカ女性の名前をとって「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」の名で創設された。
このカロライン・ライトとはいかなる女性だったのか? 3度の結婚(ライトは3度目の夫の姓)、メソジスト教会員としての働き、彼女の亡くした娘の名前、一家の消息などを明らかにする。ニューヨークに残るお墓の場所も紹介。(家系図あり)
☆若くして死んだ娘の為に云々、と、美談として伝わっているストーリーには、相当な分量の〈ふくらし粉〉が使われていたことが判明。
でもこれだけは断言できます、ライト夫人は信仰篤いりっぱな女性でした! 遠い日本に住む若い女性のため、彼女が祈り続けていたことをわたしは疑いません。
【追記】アップしました! ●函館遺愛女学校とカロライン・ライト


●ハコダテシリーズ――箱館から脱国した Kinzo
かの有名な新島襄の脱国は1864年。その4年も前に、同じ箱館からひそかに日本を脱出して米国オレゴン州に渡った若者がいた。彼の名は スズキ・キンゾウ Suzuki Kinzo(鈴木金蔵)、旧膳所藩士。オレゴン州ではそれなりに知られた存在ながら、日本ではほぼ無名。古資料のインターネット公開により初めて明らかになった彼の数奇な物語。(遺言確認、写真画像あり)
☆最初オレゴンの新聞で彼の話を見つけた時は、「よくこんなデタラメを載せるもんだなあ」と思ったヤギタニ。しかし調べてみると出てくる出てくる、彼は確かに実在していたのです! 歴史のスキマに埋もれてしまった「幕末脱国日本人」、彼のほかにもいっぱいいたのでしょうねえ。

●ハコダテシリーズ――酔いどれ領事ホジソン
1859年、初代英国公使オールコックとともに箱館に上陸した英国人C・P・ホジソン。彼は箱館における初代の英国領事であり、また、はじめて箱館に足を踏み入れた「イートニアン(パブリック・スクールの名門イートン校出身者)」でもあった。そのホジソンが、1年ほどで離箱するきっかけともなった不名誉な事件とは? 彼のフランス人妻と一人娘の消息も明らかにする。
☆元箱館奉行・竹内保徳を団長とする竹内使節団(文久遣欧使節)が1862年4月30日ドーバーに着いたとき、ホジソンが帽子を振って一行を歓迎したという話を読んだときは感動しました。ホジソンは、ホジソンはね、いいやつなんです……さ、酒さえ飲まなければ!(涙)
ところで、函館に来た2番目のイートニアンは、ハワード・ヴァイス大尉だったと思います。生麦事件に、アイヌ墳墓盗掘事件。まぎれもなく、悪評ぷんぷんの人です。酔いどれホジソンといい、嗚呼これでいいのかイートニアン……
なお、初代公使オールコックのことをイートン出身と書いてある本がありますが、これは間違いです。いまは生徒の名簿が公開されているので、一時在校(中退)だけでも19世紀の人なら確認可能です。


●ハコダテシリーズ――ブラキストンの妻エミリー
あの「ブラキストン・ライン」で有名なブラキストンには、短い間、箱館でともに暮らした年上妻がいた。その名はエミリー。英国ブリストルで商人の娘として生まれ、最初の夫を亡くしてからブラキストンと結ばれた。結婚証明書と、遺言状からたどった彼女の人生、そして彼女の遺した息子(ブラキストンではなく、前夫の子)について。(遺言確認、家系図あり)
☆彼女の帰国が1865年だったことを示す資料を発見。つまり1864年にはまだ箱館にいたので、新島襄と道ですれ違っていた可能性があります(妄想まんまん)。彼女は決して「窮死」に追い込まれたわけではないことがいろいろな資料からうかがえ、ほっとしました。でもこの結婚、ブラキストン一族は認めてなかったのかもしれませんね〜〜

●ハコダテシリーズ――ポーター船長
ブラキストンと並ぶ函館の名物外国人といえば、元港長A・P・ポーター船長だろう。牧師の息子として英国に生まれ、青山霊園に眠る彼の出自について。西島照男氏と交流のあった、ニュージーランド在住の船長の子孫ウイリアム・キング氏消息も。(家系図あり)
☆ポーターとブラキストン、そしてハウル商会のアルフレッド・ハウエルは、出身階級が同じ(庶民ではない、紳士の階級)です。それでうまく付き合えたのではないでしょうか。いっぽう、ウイル船長やマーは庶民です。それはさておき、ポーターの死亡届けがどうやら英国公文書館の資料に残っているらしい! 少なくともIndexの記録を発見しました。これを取り寄せれば彼の正確な物故日が判明するかも!?

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――F・ウィルキー
とても立派な墓石(傾いていて、碑文ももうほとんど読めないが)の下に眠るドイツ系アメリカ人商人、ウィルキー。1871年没。残念ながら、見つかったのは断片的なものばかりで、来箱前のことは不明。ただ、妻と娘を英国のセンサスで発見した。その、アメリカ生まれの妻と函館生まれの娘ルイーズの消息など。
☆函館でのウィルキーは、「ブイブイいわせてた」という形容が似合う商人なんですが、遺された妻子はなぜにああなってしまったのか…… もしやガルトネル(ウィルキー死亡時の共同経営者、「函館売ります」の人)、あんたが悪いのか? そんな邪推までしてしまいます。なお、1873年に横浜で亡くなった英国人商人 John Davidson Wilkie と混同しないよう注意。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――フリーメイソンの人たち
外人墓地のいくつかの墓石に残るフリーメイソン(フリーメイスン)のマーク。本当に彼らはメンバーだったのか、メンバーだったならどのロッジに在籍していたのか? 公開された名簿を元に確認する。実際のところ、(横浜や神戸と異なり)外国人人口の少ない函館にロッジはなく、彼らはすべて別の地域で入会した人ばかり。さらに、函館で活躍した外国人のうち、隠れたメンバーも掘り起こす。
☆幕末明治期の日本でフリーメイスンの会員であることの意義として、第一に来るのは、「死んだらちゃんとお墓を建ててもらえる」ということではありますまいか。逆にいうと、函館に立派なフリーメイソン墓碑が残っているのは、世話した律儀な会員がいたからです。それはポーター船長であり、ハウル商会のハウエル、領事館のJ・J・エンスリーだったはず。ちなみにアルフレッド・ハウエルは横浜の Japan Mail 社主 W. G. Howell の弟です。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――ジェイムズ・マー
ブラキストンのパートナーとなり、函館に葬られたスコットランド人のジェイムズ・マー(マル)。彼の没年は1892ではなく、それより20年前の1872年だったことを複数の資料で確認。スコットランドに残った家族の消息も紹介。(家系図あり)
☆アバディーン大学の卒業生名簿に、死亡日とともに彼の名がありました!(ガッツポーズ! ハコダテとは書かれてなかったため、見つけるのに時間がかかった)

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――アンドルー・ジュリアン・ケース
新島襄(1864年に箱館に寄留)の日記にも登場する、赴任直後に病死したポルトガル領事ケース。彼はポルトガル人ではなく、アメリカ人商人だった。残された臨月の若妻、そして子どもたちはその後どうなったのか? 父親の死後に函館で生まれ、英領マラヤで没した遺児アンドルー(父と同名)の人生も紹介。(家系図あり)
☆ケース領事の娘の子孫が現存すると判明しました。末裔がいるというのはうれしいですね、子孫なし、もしくは一切不明という方も相当いるので。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――碑文が読めない墓石、墓石のない埋葬者
上記ケース領事の隣にたつ墓石は、石がすっかり風化して碑文は一切読めない。いったい誰が眠っているのか、今となっては知る手立ても存在しない……そう思っていたが、なんと該当者らしき記録を2点発掘! どちらもケース領事と同じ月に没していた。彼らはなぜ箱館に? その人たちの名は?
☆この墓石、故意に破壊されたものと思い込んでましたが、よく見ると自然の風化であるとわかりました。2017年6月、再度訪問したとき「その人の名」を墓石の前で叫んできましたが、その後、より可能性の高い別人の死亡記事を発見(1864年って、箱館で何人も外国人が亡くなっていたんですね)。また、彼ら以外にも次々に埋葬者の記録が出てきました。墓石が建つことなく埋葬され、忘れ去られた方々の「点鬼簿」をいつか公開したいと思います。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――2つに割れたエマの墓石
碑文の読み取れない(馬場脩氏にも解読できなかった)、小さな墓石。ヤギタニが2016年に見たときは、真っ二つに割れてしまっていた。
両親が新聞に出していた死亡告知により、墓の主が判明。墓碑の下半分に記された詩の出典もわかった。1864年(新島襄の来箱前)、生後3カ月で死んだ女児エマと、アメリカ人の両親について。(家系図あり)
☆教会のF先生が傷んだ墓石を補修してくださるようです……頭が下がります。【追記】その後修理したとお知らせいただきました。【追記終わり】
しかし、墓石のあの状況は、エマの親が尊敬されていなかったこと(函館市史にもほぼ言及がない)を表しているようで、悲しいものがあります…… 親の名前は Directory に未掲載。ただ、英文の書簡や奉行所の応接記録、割れた墓石が彼らの存在を伝えるのみです。父親とおぼしき人の写真も発見。エマの両親は帰国後ほどなく離婚、そして再婚した母親は、エマと誕生日の近い子どもを養子にしていました……(もらい泣き)


●ハコダテシリーズ [外人墓地]――ジョージ・ウォークマン
1872年に海で死んだ無名の英国人の一墓石……それは、19世紀の英国の底辺に生まれた庶民の記念碑であり、日本に灯台を設置して回った技師リチャード・ブラントンの働きとも関係があった。子孫の消息、巡回船テーボル号とブラウン船長、開拓使外科医長として函館に赴任後間もないエルドリッジ医師の話も。(家系図あり)
☆ジョージが死んだとき、ブラントンは休暇で帰英していたので同じ船には乗っていませんでした。エルドリッジ医師の日誌に残る謎の事件(精神に異常をきたした高級船員の自殺)と、ジョージの死に関わりはあるのでしょうか?! ←これは、外人墓地にまつわる最大のミステリーだとわたしは思います――『テーボル号の死』という表題でミステリ小説が書けるんじゃないかな。フリーメイソンねたもからみます。
その後、ブラウン船長の伝記にジョージのことが言及されているのを発見! あきらめずに調べてよかったと思った瞬間でした。ただし名前が誤記。別の死亡届けでも、ミススペル。いちいち不遇なジョージなのでした。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――ドイツ副領事ハーバー
1874年、旧秋田藩士に惨殺された悲運の商人ルートヴィヒ・ハーバー。函館外人墓地の埋葬者で、もっとも多くの英字新聞に取り上げられたのがこの人である。また、プロテスタント区画の埋葬者中、ユダヤ系と判明している唯一の人物。事件の報道、また、横浜外国人墓地に存在する、そっくりな墓石について。
☆あの独特のデザインの墓石は、横浜からわざわざ船で運んできたのでしょうねえ…… 日本側の誠意を示すため、特別対応があったと想像しています。

●ハコダテシリーズ [外人墓地]――セシリア・ディスレフセン
3歳で亡くなったディスレフセン船長の娘セシリア。墓碑には年号がなにもなかったが、さまざまな記録を総合して、没年を割り出すことができた。神戸に現存する西洋館「ディスレフセン邸」の主だった、デンマーク生まれの船長の生涯についても記す。
☆「九重丸」を操って横浜〜函館間を頻繁に往復していたD船長。おそらく函館に寄港するたび墓地に立ち寄って、娘のお墓に花を捧げていたのではないかと想像します。機会があれば、神戸に船長が建てた家(ディスレフセン邸)を見てこようと思ってます。
【追記】2017年10月に現地で見てきましたディスレフセン邸! 神戸でヤギタニの煩悩炸裂! そしてまた、地面に倒れていたセシリアの墓石を、函館のF先生が建て直してくれたと知りました。うれしいことでございます。


◆   ◆   ◆


「予告しておけばきっとやる気が」なんて思ったけれど、放置していたトピックがこんなにあるのか、と気が遠くなってます……
  はぁぁ……

ver1.0 2017/05/31

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2017年05月07日

ベルヌで話題の新島襄――牧野伸顕回顧録より

最終更新 2017/05/17 ver.1.01

今回のくりほんはごくごく軽い話題、「うわさになっていた新島君」です。

明治〜昭和前期の外交官・政治家に牧野伸顕(まきののぶあき 1861-1949)というひとがいる。吉田茂の岳父、ェ仁親王妃信子と麻生太郎の曾祖父にあたるということで知っている人もいるかもしれない。
箱館から脱国した金蔵君の情報を求めて彼の『回顧録』上巻を読んでいたら、新島襄の名前が出てきた。

1898(明治31)年にオーストリア公使兼スイス公使となった牧野。ベルヌでアメリカ公使から新島の話題をふられて驚きました、というお話。以下引用。

 この辺で私が墺太利{オーストリア}から瑞西{スイス}に行った時のことについて、少しく述べておきたい。当時墺太利駐箚{ちゅうさつ}の我が公使は瑞西国を兼任してたので、私は明治三十二年に国書捧呈のためにベルヌに赴いた。
〔…〕
瑞西では毎年外交官を招待してホテルで食事することになっていて、その献立の内容が豊富であることは、一般の質素な風習に鑑みいささか驚愕の念を抱かせるに足りた。一年一回だったためでもあろうが、或る無遠慮な外交官は笑いながら、主人側も滅多に飽食することがないからこういう機会に均霑{きんてん}するのだろうと諧謔を交えて評していた。或る時この会合の席上で米国公使と雑談中、向うより突然、新島襄を知っているか、と尋ねられた。それで知っているし、会ったこともある、と答えたところが、公使は彼と深い交わりがあり、その卓越した人物に傾倒していて新島の小伝を書いたこともあるということで、詳しくその経緯を話してくれたが、新島が海外に信仰者を持っていることを聞いて、維新後の日本を海外に紹介した一人である新島のことをこのベルヌで聞くことが出来たのを喜ぶとともに、やはり国際間の接触は個人的な交際に始まることが最も有効であるという考えが頭に浮んだことを思い出す。

 私が初めて新島に会ったのは英国より帰朝後、明治十三年の暮に京都で歓迎会があって、新島もこれに出席したのでその席上だった。この時他の出席者も皆新島を非常に尊敬していて、また私自身も新島が耶蘇信者で、京都の両本願寺の中心に入り込んで、しかも明治初期に耶蘇の学校を始め、人望を博して居ったことに感心しないではいられなかった。それから度々会うようになり、或る時彼は徴兵令の文章に不備なところがあり、そこを利用して徴兵を免れようとさせる意味で青年を迷わすから宜しくないと言って、私にそのことを大山陸軍大臣〔大山巌〕に伝えるように依頼したこともあった。

 新島は、岩倉使節が欧米に派遣された時は通訳として随行した。またベルヌで彼のことを私に話した米国公使は、確かヒルという人だったと思うが、これは慥{たし}かではない。

――牧野伸顕『回顧録』上巻 中公文庫 1977 / pp.233-35.
赤字は引用者による



大久保利通(1830-78)を父に持つ牧野は、弱冠9歳(満年齢)で岩倉使節団とともに渡米し、アメリカの学校で学んでいる。その時代やロンドン駐在時代の話もおもしろいのだが、まさかスイスで新島襄のことが話題になっていたとは。

「確かヒルという人だったと思うが」……いやいや、イニシャルは同じ「H」でもそれは違う。ヒルではなくてそれはハーディ、新島の恩人ハーディの息子アーサー・S・ハーディ Arthur Sherburne Hardy (1847-1930) のことだ。この牧野の回顧録は口述によるもので、孫の吉田健一が筆記したというが、吉田はそこまで調べがつかなかったものか。

ハーディは Life and Letters of Joseph Hardy Neesima (Boston: Houghton Mifflin, 1891) という新島伝を書いた人。この方、外交官になっていたのですね。スイスの特命全権公使(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary)としてベルヌにいた期間は1901年4月〜1903年1月(辞令は1900年12月)、牧野の任期は1906年までだったので、上記のエピソードは1901年か1902年のことだろう。

1900_Arthur_S_Hardy_Switzerland.jpg

ハーディ米国公使の赴任記録。横長なので画像を分割して引用してます
7,500とあるのは年俸。あまり高額ではない
Register of the Department of State, 1902, p.19. より



新島亡きあと10年ちょっと経って、スイスでこんな会話が交わされていたとは。いい話である。
ハーディは牧野に自著の新島伝を贈呈したのではなかろうか。

当時の牧野の写真が掲載された素晴らしいブログを発見 →「直球感想文 和館 牧野伸顕伯爵家 政治家
峰子夫人の美貌にびっくり! これほど美しい女性が外交官の妻として国外に出ていたとは。うれしくなった。

※牧野伸顕の回想録に金蔵君は登場していなかった。ふたりが会っていたかは微妙なのであるが……残念。
posted by やぎたに at 18:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2017年04月10日

新島襄脱国の背後にあった事件のこと

最終更新 2018/02/02 ver.1.15

箱館(函館)」と「新島襄」の巻、その2。新島襄の脱国を手助けした協力者たちの側には、どんな事情があったのか。今回はそれを考察いたします。

◆   ◆   ◆


周知の通り、新島襄は1864年7月に箱館から米国商船ベルリン号に乗って脱国する。
1番目の協力者は、ベルリン号のセイヴォリー船長。この船長がうんと言わなければ、新島は船に乗ることはできなかった。
そして2番目の――便宜上2番目とするが、実際にはセイヴォリーと同じくらい重要な――功労者は、新島を小舟に乗せて沖合のベルリン号まで運んでくれた、日本人の福士屋卯之吉(うのきち、のちの名を福士成豊 1838〜1922.08.26、以下「福士」とする)である。彼が危険を冒して舟を漕がなければ、新島はベルリン号にたどりつけなかった。
そして、3番目の人物として、英国人商人のA・P・ポーター(もしくはアメリカ人商人のフレッド・ウィルキー)。セイヴォリー船長と、福士〜新島をつないだ人物である。

これらの3名は、なぜ新島脱国に協力したのか。
日本人の商用・留学目的による海外渡航が可能になったのは、1866年5月21日(慶応二年四月七日)のこと。新島が箱館にやってきた時点では、日本の外に出ることはまだ禁じられていた。密出国が見つかれば死罪になる可能性がある。当然、協力した側もただではすまない。

だが、それでも協力した側には、それなりの「事情」があったのだ。それをこれから見ていこう。

◆   ◆   ◆


まず、セイヴォリー船長である。前回にも少し書いたが、船長について必ずおさえておきたいのは、彼が1862年に Mary Capen という船の船長としてすでに箱館に来ていたことだ。
この最初の来箱時に、自分の船の水夫3名が問題を起こし、牢屋につながれる事件が起こる。「箱館奉行所文書」(件名番号177/181/183/186/188/199)から判断できることは、以下の通り。
○船長は水夫を牢に残したまま出港
○残された水夫の面倒を託されたのは箱館在住のアメリカ人商人ウィルキー F. Wilkie と、英国人商人ポーター A. P. Porter。前者は同じアメリカ人、後者は元船長という点でセイヴォリーと接点があった
○同国人のしでかした不始末について、箱館奉行所との連絡を担当したのは貿易事務官 Commercial Agent のライス E. E. Rice
※ライスの肩書きはときに米国商務官とも訳される。当時はまだ正式にはアメリカの領事 Consul ではないが、領事とほぼ同等の仕事をしていた。そのため彼は領事の辞令が出る前から「領事」と書かれることもある。

在箱のウィルキー、ポーター、ライス。1862年の時点でセイヴォリー船長はこの三者と親しくなっていた(ならざるを得なかった)。別の表現でいえば、彼らに「借り」を作ったのである。また、箱館奉行所に対しても、よろしくない感情を抱いたはずだ。自分の船の乗組員を牢屋にぶちこまれて喜ぶ船長などいないだろう。
(こうした船員入牢は港町では特殊な事例ではなかった。第一に、船における過酷な労働に耐えかねて陸で脱走した水夫は、つかまると現地の牢屋に入れられた。また、それ以外の船員が乱暴狼藉――酔っ払っての地元民への暴力、仲間内の喧嘩、公道で馬を疾駆させることなど――を働いてしばしば取締りにあっていたことが、箱館奉行所文書から見てとれる)

なお、アメリカ人としては上記のライスが1番早く箱館にやって来て商活動を開始した(先手必勝とばかりに貿易事務官の肩書きをゲットした)人物で、2番目がウィルキー。ウィルキーはライス不在時に代理領事を務めたこともあり、両者はビジネスパートナーにこそならなかったが、親しい関係だったはずだ。また、ポーターは次男にウィルキーと同じ名前をつけたことからして、これまた親しかったことがうかがえる(ただし、一番親しかったのは同国人のブラキストンだろう。長女と長男にはブラキストンゆかりの名をつけている)

そして、2年後の、西暦1864年。
6月13日(元治元年5月10日)に、ベルリン号が箱館に入港した。

元治元甲子年六月十四日
富士屋宇之吉
〔福士屋卯之吉の誤記〕の斡旋に依りて、この夜九時過ぎ密かに宇之吉と共に小舟に乗じ、米利堅商船に乗り得たり。
船主royes Mon. 18th, July, 1864
米利堅船に乗り箱楯港を出帆す。但し沢辺数馬、富士屋宇之吉の周旋に依りてこの行を得たり。この二友、骨に徹し忘るべからず。且つ菅沼精一郎君も右様の友なり。
――同志社編『新島襄自伝――手記・紀行文・日記』岩波文庫 2013, p.103


次の相関図をご覧いただきたい。

1864_新島脱国_01.jpg

武田斐三郎を訪ねていって、菅沼〜沢辺〜福士とつながった
新島七五三太。わらしべ長者のようである


新島を助けることになる福士成豊は、当時ポーター商会に務めていた。この福士氏は北海道では著名な人物で、豊田有恒の長編歴史小説『北方の夢――近代日本を先駆した風雲児ブラキストン伝』(祥伝社 1999)にも「ウノ」(卯之吉の「うの」)という名前で登場する。
北海道開拓の村にある旧福士家住宅に展示されている説明によると、「福士成豊は高度な造船技術を修得するために英語を学ぶ必要にせまられた。まず、アメリカ代理領事W・R・ペーチに学び、さらにイギリス人ポーターの経営する商会の店員となり生きた英語を身につけた」旧福士(成豊)家住宅(5・実績)

ここでなぜかペーチと表記されているのは、William R. Pitts=「ピッツ」のこと(William Robert Turpin Pitts 1835.03.14-1917.01.02 / 日本語では「ペ−テ、プイツ、ピツノ、ピツツ、ヒツツ」としている資料もある。1942年の高橋一雄編『福士博士還暦祝賀記念誌――日本科学史上の先覚者福士成豊翁』では、「米国代理領事W・R・ペーヂ」となっている) 。1860〜61年11月に在箱し、ライスの不在時には米国貿易事務官代理(代理領事)を務めた。後任はフレッチャー。
この青年ピッツ君の名前はあとで何度も登場するので、おぼえておいてほしい。
福士が英国商人ポーターの商店員となったのは文久2年10月(1862年11月)というから、ピッツの離箱後である。

福士は、いかなる理由で新島の力になったのだろう? 
深夜にボートをこぎ、誰何する役人をうまくごまかして新島をベルリン号まで送り届けたのだ。生半可な覚悟でここまでの手助けはできまい。
謝礼が動機ならまだわかるが、「金に縁なき」〔函館脱出之記〕新島に金子を包む資力はなかった。
新島の熱意に打たれ、彼の夢に共鳴して一肌脱いだ……というと聞こえはいいが、脱国幇助が露見すれば親兄弟にも影響が及ぶはず。処罰を考えて、しりごみしなかったのだろうか?
わたしには福士の動機が謎だった。

1864_新島脱国_03.jpg

「函館脱出之記」(『新島襄全集5』所収)に添えられたイラスト。
左側のちょんまげ・帯刀が福士成豊、右が新島七五三太。
新島の義理の甥・公義が筆写したもので、原本が存在しないため
「どこまで原図が忠実に模写されているかは確認のすべがない」
(新島襄全集5 解題 p.533)という。


だが、「箱館奉行所文書 A 1-3/12」を見ていて、これだ! と膝を打った。
件名番号58と75番。
新島脱国の3か月ほど前のこと。1864年4月11日付で、ポーターは「上海に行く際に日本人小使を同行させたい」として奉行所に許可を申請していた。ところがこの申請は小出美濃守によって却下されていたのである。

「ホルトル上海行ノ節日本人小使召連ノ儀、不許可」
(1864年4月14日付箱館奉行から英国領事宛書簡。「ホルトル」とはポーターのこと)

――そう、この、ポーターと上海に同行しそこなった小使(=従業員)が福士だったとしたら。

だったとしたら、と書いたが、わたしは絶対に福士だったと思っている。
ポーターと福士は、海外渡航の許可を奉行所に求めて、失敗していたのだ。

実は、3年前の1861年7月(文久元年五月)ころに、無断で上海まで行ってしまった日本人がいた。

「箱館在留米国商人フレツル、其僕幸次郎を無断にて上海に連行」という事件である。「フレツル」とはフレッチャー C. A. Fletcher (Charles Arnold Fletcher d.1885) のこと(英国の領事館にいた通訳〜のち横浜領事の Lachland Fletcher d.1869 と混同しないように)。箱館奉行はこの「不法」を同国貿易事務官代理ピッツに抗議している(維新史料綱要データベース/3巻/451頁)各国書翰留を見ると、フレッチャーの使用人だった幸次郎が帰国後数か月にわたって取り調べを受けたことがわかる。最終処分は不明だが(自らの意志ではなく主人のお供で出国したのだから、死罪にはなっていないだろう)、日本人が無断で出国すれば面倒なことになることがこれで知れ渡ったはずだ。
だからこそ、ポーターは正攻法で箱館奉行に許可を申請したものと考えられる。
しかし、(当然のごとく)答えはNOであった。

そんなわけで、上海渡航の夢があえなく潰えた福士。
そこへ出現したのが、5歳若い安中藩士の新島七五三太だった。
英語を学びたい、外国に渡りたいと熱く語る青年。
身分こそ違うけれど(福士は船大工の子だった)、英語を学びたいという情熱は同じ。
手を貸してやりたい。正攻法では無理だとわかっているが、自分なら手助けできる。
行けなかった自分の代わりに羽ばたいてほしい。そう思ったのでないか。

同志社大学の【新島襄ギャラリー
帰国後、福士と一緒に撮ったお写真あり。ふたりは無事に再会したのです!
(北海道に残った福士の出世も感動的。彼のお墓は函館の
称名寺にあり、2017年6月に訪問できました♪)


◆   ◆   ◆


さて、ここからはウィルキーについて。
新島を助けた商人は米人ウィルキーだったのか、英人ポーターだったのか、このことは同志社関係者のなかにも混乱(こじつけ、ねじ曲げ)があった。もっとも、この混乱にはもう決着がついている。
新島八重子の「亡愛夫襄発病ノ覚」(『同志社談叢』Vol.10 / 1990年3月 所収)に、「〔…〕亡キ夫ノ函館ニ居リシ時ハポーター商会トテ頗ル盛ンナルモノノ由、其店ニ福士氏ハ番頭ニテアリケレバ〔…〕」と、はっきり福士の勤務先がポーター商会だったと書かれているからだ。新島は1887年の函館訪問の折、恩人・福士の雇い主だったポーターに挨拶に行っていたのである。

では、ウィルキーの名前はどこから出てきたのか。新島本人の日記類には登場しない。
登場するのは、Arthur Sherburne Hardy(1847-1930 / アメリカで新島を援助した大恩人アルフィーアス・ハーディの三男)の書いた新島襄の伝記である。

In the summer of 1864 the brig Berlin, owned by Thomas Walsh & Co., of Nagasaki, arrived at Hakodate, consigned to Frederic Wilkie, Esq., in command of William B. Savory, of Salem, Mass. Just before leaving on the return voyage to Shanghai, Captain Savory was informed by Mr. Wilkie that a young Japanese, the friend of a native clerk in his office, was anxious to escape from Japan to the United States, where he hoped to obtain an education. Reminding the captain that serious consequences were likely to follow his detection in the act of taking a native out of the country, Mr. Wilkie called the young man, then about twenty-one years of age, into his office, and Captain Savory, through the clerk, Mr. Munokite [sic], who acted as interpreter, offered him a passage to Shanghai provided he could reach the brig without assistance from those on board, and promised to do what he could towards securing his transfer to some vessel returning to the United States.

― Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Houghton, Mifflin & Co.. 1891, p.1.
赤字は引用者による。「Munokite」は「うのきち」(=福士)のこと


上の本によれば、セイヴォリーに「日本を出てアメリカで学びたいと切望する日本人がいる」と伝えたのはフレデリック・ウィルキーで、新島とセイヴォリーが最初に会ったのはこのウィルキーの家ということになっている。

ウィルキーは、函館外国人墓地「7号墓碑」の人。
そう、函館に眠っているのだ。ドイツ系アメリカ人で、1832年生まれ。当時32歳である。
しかし、「the friend of a native clerk in his office」(彼の商会にいる日本人事務員の友人)という記述から、ここでウィルキーとあるのはポーター(当時41歳)の間違いだと判断できる。

同志社の本井先生は「A・S・ハーディーは、このウィルキーの名前を新島からではなくて、直接、セイヴォリーから聞き出した、と思われる」語っているが、これはわたしも同意見である。ハーディはセイヴォリーに直接取材したからこそ、ここでウィルキーの名前が出てきたのであろう。上述のように、セイヴォリーは2年前の水夫入牢事件のときポーターとウィルキー両者の世話になっていた。だから、箱館の話をするときに、セイヴォリーが両者の名前を持ちだしていた可能性はきわめて高い。

だが、ハーディは文章を書くときに2名の商人の名前をごちゃまぜにしてしまったのではあるまいか。つまりハーディのケアレスミスにより、ポーターがウィルキーに入れ替わったというのがわたしの解釈だ。
わたしはネットにこの項目をアップしたあとで、手塚竜麿氏の小論「箱館の外商フレデリック・ジョン・ウィルキー」(『新島研究63』1983年, pp.38-40)を読んだのだが、手塚氏もこれをハーディの間違いとする説をとっていた。さすがは手塚さんである(わたくし、手塚竜麿氏をとても尊敬申し上げています)。

では、ポーターはなぜ、新島を助けようと思ったのだろう。
つい先日起こった「上海行ノ節日本人小使召連ノ儀、不許可」への腹いせプラス、2年前の「水夫入牢事件」のうっぷん晴らしというところか。奉行所をギャフンと言わせたい! という気持ちなのであろう……そんなふうに考えていたところ、また別の事件が急浮上した。

新島より前に、箱館から脱国に成功していた男がいたのである!

1860年、すなわち新島脱国の4年前、ライス、ピッツ、また別のアメリカ人商人レオナードが手助けして、金蔵 (Kinzo) という名の日本人を密出国させていたのだ。新島ヴァージョンにおける福士の役割を果たして、ボートで金蔵を沖合の船まで送っていったのはピッツであった。

この試みは成功し、金蔵は無事オレゴン州に渡った。彼がその後どうなったかは、また後日詳しく書く予定でいる。
この金蔵君はキリスト教会とは関係がない――少なくとも今のところ見つかっていないが、新島襄とアメリカでいっとき、ひじょうに近い空間にいたのだ。実際に顔を合わせていた可能性すらある、と想像をたくましくしているヤギタニです)
なお、義侠心に富んだアメリカ青年ピッツ君はその後、1862年11月に南軍兵士として従軍し、捕虜になったことがわかっている。写真も現存するが、美形です♪


成功裡に終わった、アメリカ人の関係する脱国事件。これと今までにあげた事件の関係者を整理すると、以下のようになる。

1864_新島脱国_02.jpg


ポーターもウィルキーも、1860年にはすでに箱館にいた。狭い外国人社会のこと、彼らがこの話(アメリカ人にとってはおそらく「武勇伝」)を共有していたとしても不思議はない。セイヴォリーも、新島の話をもちかけられたときにきっとこの話を聞かされたはずだ。福士も当然知っていた、とまでは言わないが、福士はピッツに英語を習い、ピッツは福士から日本語を習っていた。可能性はゼロではないだろう。

ようは、「注意深く実行すれば、なんとかなる」
彼らには、それがわかっていたのだ。

1860年に成功していたアメリカ船による日本人の密出国。
1862年の水夫入牢で、奉行所にうらみを感じていた船長、セイヴォリー。
1864年に上海に行きそびれた日本人店員、福士。
上のできごとをすべて知っていた商人、ポーターもしくはウィルキー。

これらの前提があったからこそ、新島襄の脱国は成功したのだとわたしは考える。


【次回予告】次こそは(新島襄との関連は薄れたがそれでも強引に)ウィルキーか! 脱国の先駆者・金蔵の話か! 絶讃迷い中!


【資料入手先】
家系総合 [ Ancestry.com ] [ Family Search ]
新聞検索  [ NewspaperArchive (USA) ] [ GenealogyBank (USA) ]
書籍 [ Internet Archive ] [ Google Books ] [ HathiTrust Digital Library ]
北海道立文書館 [ 箱館奉行所文書 ]
東京大学史料編纂所 [ データベース ]
函館市中央図書館 [ デジタル資料館 ]

【参考文献】
運上役所編『応接書上留 文久4子年』*函館市中央図書館蔵
高橋一雄 編『福士博士還暦祝賀記念誌――日本科学史上の先覚者福士成豊翁』福士博士還暦記念会出版部 1942
新島襄全集編集委員会『新島襄全集 5 日記・紀行編』同朋舎社出版 1984
同志社編『新島襄自伝――手記・紀行文・日記』岩波文庫 2013
本井康博「新島襄とW・T・セイヴォリー船長」  *本井先生に感謝!
The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea 1865
Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Boston: Houghton Mifflin, 1891
西島照男『函館港長に何があったか――お雇い英国人の悲運』北海道新聞社 1992
太田雄三『新島襄――良心之全身ニ充満シタル丈夫』ミネルヴァ書房 2005

ver1.0 2017/04/10
posted by やぎたに at 18:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 函館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする