2018年06月13日

彼の手は語り継ぐ―北軍兵士シェルダンの真実

最終更新 2018/07/15 ver.1.8

今回は、アメリカ人女性作家による絵本の話題。物語の背景にあった事実も紹介します。

pink and say last page.jpg

    ところはアメリカ、ときは南北戦争の時代。
    けがを負った北軍の白人少年兵セイ(Say)は、ジョージア州の草原で同じ北軍の黒人少年兵ピンク(Pink)に助けられ、なんとかピンクの母の住む家にたどりつく。しばしの休息を取って傷をいやし、友情をはぐくんだふたりだが、南軍兵士がやってきた。ピンクの母親は殺され、ふたりは捕らえられてしまう。そして、生き残ることのできたのは、セイだけだった――

アメリカの絵本作家パトリシア・ポラッコ Patricia Polacco の作品『ピンクとセイ Pink and Say』(1994)はそんなストーリーだ。アメリカではだいたい4年生(10歳)以上が読者対象となっている。

日本語版のタイトルは『彼の手は語りつぐ』(千葉茂樹・訳/あすなろ書房 2001)。カバージャケットには白人と黒人が手をつなぎ、そしてもう一本の白人の手がそれを引き離そうとしている場面が使われている(画像後出)
実は、セイはリンカーン大統領と握手したことがあった。黒人奴隷だったピンクやその母にとって、リンカーンは偉大な指導者であり、セイの手に触れることで、偉大な大統領と「間接握手」ができる。それは素晴らしいことだった。
――リンカーンに触れたその手で、もういちどだけ握手してくれ。セイ、もういちどだけ。
それがピンクの最後の願いだった。彼はアンダーソンヴィル収容所に到着後、数時間のうちに処刑され、遺体はごみのように捨てられたという。

◆   ◆   ◆

◆物語のもつ力
この絵本を読んでまず感じるのは、一族のなかで語り継がれてきたストーリー(物語)のもつ力である。
主人公たちのコントラストが実に印象深い。
共通しているのは、ふたりの年齢(ほぼ同じ、15歳くらい)と、南北戦争に北軍兵士として参加したことだけ。
肌の色が違う。黒人ピンクと白人セイ。
ピンクは文字が読めて、セイのほうは読めない。
ピンクは奴隷制解放という大義に殉じる覚悟ができており、セイはそれができていない。それどころか自分を臆病者、脱走兵と認めている。
ピンクは殺され、セイは生き延びて結婚し、娘や孫を残す。
その子孫こそが、この絵本の書き手、ポラッコなのだ。

おそらく、この話を語り継いできたポラッコの先祖たちは「これが、リンカーン大統領と握手した手と、握手した手」と言いながら、聞き手の手を握ったに違いない。「握手した手と、握手した手と、握手した手」「握手した手と、握手した手と、握手した手と、握手した手」……
そしてまた、その手は「ピンクス・エイリーと握手した手」でもあったのだ。
「ピンクに触れた手に、触れた手、そしてまたそれに触れた手……」

◆   ◆   ◆

◆書物のもつ力
ところで、本国英語版カバーの絵柄は、日本語版とは違う。
ピンクが本を開き、セイが肩越しにのぞき込んでいる絵柄だ。

pink and say cover.jpg
左が英語版、右が日本語版のカバー
(英語版のカバーイラストは、日本語版ではカバー裏に使われている)

英語版は、とてもインパクトのある構図となっている。黒人と白人との組み合わせ。そして、(白人ではなく)黒人の少年が本を手に持って、読んでいる…… 

黒人少年が、本を読んでいる。

それは南北戦争当時、ほとんどありえないことだった。
当時の黒人、とくに南部の奴隷には教育を受けるチャンスなどなかったのだから。
(あとで聖書とわかる)を開く黒人少年。しかも背後には、友だちらしい白人少年。「南北戦争」の要素はとくに見当たらない。だが、アメリカ人ならこのカバーを見て、「なにかふつうじゃない物語、特別な黒人が登場する、特別な友情のお話だな?」とピンとくるはず。
とても勘のいい読者なら、タイトルの Pink は黒人のほうの名前で、Say は白人の名前かな? と察しがつくかもしれない(人名を並べる場合は、より特別な人のほうが先に来るから)
しかし、おそらく、日本の読者はそうではない。だから、日本語版ではタイトルに合わせるかたちで絵が差し替えになったのだろう。それはそれで印象深いけれども(まあ、タイトルが固くて小学生には難しいかもしれないが)、英語版のほうのカバーから連想するのは、「文字の力」、書物のもつパワーである。

一族の「語り」のなかにだけ存在したストーリーを、ポラッコはペンで描いた。

  To the memory of Punkus Aylee ――

文字と絵にして紙の上に書き留め、本のかたちにした。
かくて、このストーリーは何千、何十万――実際にはもっと多いだろう――の子どもたちに読まれ、大人にも読まれ、語られ、そうしてピンクス・エイリーは永遠のいのちを得ることになったのだ。
それが可能になったのは、文字の力、書物の力ゆえ。
アメリカという国が続き、英語を使う人間が生きている限り、このストーリーを語り継ぐ人がこの世から消えることはないだろう。
彼の手は語り継ぎ、そして書物がさらに語り継いでゆくのだ。

その意味では、「本」の持つ圧倒的な力を示した作品ともいえる。

*700件近い感想が書き込まれている Goodreads のページ。小学校で読んだ(生徒として、また読み聞かせ手として)、そして大人になって読みかえすたび感動するという声が多い
 https://www.goodreads.com/book/show/532069.Pink_and_Say
*アメリカの Amazon でも、100件以上のレビュー
 https://www.amazon.com/Pink-Say-Patricia-Polacco/product-reviews/0399226710
*本書を題材に南北戦争を学ぶ授業の手引き――ノーザンアイオワ大学教育学部提供
 https://icss.uni.edu/pathwaysadventures/book%20backdrop--Pink%20and%20Say.pdf


◆   ◆   ◆

以下は、「歴史」や「事実」を知ることに関心のある方のみお読みください。
口当たりのいい話だけを求めている人は、お読みにならないでください。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆

◆事実のもつ力
このストーリーはノンフィクション、「本当にあった話」だと理解している人が多い。インタビューなどを読む限り、著者本人もそう信じているようだ。

*ただし、英語版に記載されている議会図書館用分類データでは、「United States - History - Civil War, 1861-1865 - Juvenile fiction」とある。Nonfiction とはなっていない。

わたしももちろん最初は実話だと受け取った。同時に、いまは南北戦争の兵士たちの従軍記録が公開され、ネットで検索できることも知っていた。ポラッコは本の中にセイの姓名を記している。彼についての「事実」を知りたくて「United States Civil War Soldiers Index, 1861-1865」を検索してみたところ、それらしき人物がすぐヒットした。
そして、本の最終ページ近くに言及されている、セイの娘ローザ、その娘エステラ、その息子ウィリアム(ポラッコの父)といった人びとの名前も調べてみた。全員、たちどころに墓所が判明。いつどこで生まれて、いつ亡くなったかがわかった(本項下部の家系図参照)。みんな、確かに実在していたのだ。

いっぽうで、ピンクの名前 Pinkus Aylee を検索窓に入れても、なにも記録はヒットしない(2018年6月現在)。これは予想できたことなので、とくにツッコミは入れない。「この名前」の人物の記録はない、ということだ。

だが、Say こと シェルダン・ラッセル・カーティス Sheldon Russell Curtiss (Curtis 綴りもあり)については、上で触れた従軍記録のほか、かなりの記録(国勢調査など)がヒットした。まず判明した重要な事実は、彼の年齢である。物語が展開するのは南北戦争戦争末期の1864年ころと推定できるが、そのときシェルダンは15歳ではなかった。

お手元に本がある人は開いてほしいが、絵本の最後のページにこんなイラスト(白黒写真がコラージュされている)が載っている。

pink and say last page.jpg
Patricia Polacco, Pink and Say, Philomel Books, 1994
最終ページより
(赤い矢印を書き入れています)

赤い矢印で示した、正面向きの若い男性。これが、セイ(シェルダン)だとわたしは思う。1860年代特有の写り方をしているし、ルックスが別の資料(後述)と似ている。抱いているのは、おそらく長女のローザ。戦争に行く直前、記念として撮影したのではあるまいか。
そう、入隊の時点で彼はもう成人しており、妻子もいた。

国勢調査に残る Sheldon R Curtiss の記録

*1840年センサス(Ohioの居住地、家族構成が合致するCurtis一家)
 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:XHYK-MTD
*1850年 未発見
*1860年(両親と同居。もう結婚しているのになぜか妻の名前がない)
 https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MWDF-635
*1870年(夫婦と子ども4人)
 https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MHHP-WR7
*1880年(夫婦と子ども7人)
 https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MWSD-PFL
*1900年(夫婦2人世帯、出生&生存中の子ども数は7)
 https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MSMJ-9NR
*1910年(夫婦2人世帯、妻アビー最後の記載)
 https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:ML58-L4C
*1920年(最後まで世帯主、travelling salesman の長男及び孫と3人世帯)
 https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MZ3F-7VK



以下が、彼とおもな関係者の年譜である。
家系図は別に用意したので、ご参照ください。

【シェルダン・ラッセル・カーティス年譜】
1839.04.22 父ラッセル・J・カーティス (1805-1890) と母リディア・C・ポター (1798-1906) の長男としてオハイオで誕生
1859.12.31 ミシガン州バーリンで、妹マリア(17歳)がバーナード家のジョージと結婚
1860.05.10 バーナード家のアビゲイル(ジョージの妹、20歳)と結婚。21歳
1860.09 バーリンで両親と同居。職業は農夫(1860年国勢調査)
1861.03.12 長女ローザ誕生(結婚の10カ月後)
1862.9.19 ミシガン第六騎兵隊M中隊 [6th Michigan Cavalry の動きがわかる年譜] に入隊。23歳
1862.09.20 バーナード家のジョージと妹マリアの長女が生後2カ月弱で死亡
1862.09.20 バーナード家のジョージとリーヴァイ(ともに義兄)が同じ部隊に入隊。ジョージは伍長、リーヴァイとシェルダンは兵卒
1862.11- 隊が首都ワシントン近くに駐屯
1863.05.26 出征の8カ月ほどのちに次女リリアン誕生
1863.07.01-03 ゲティスバーグの戦い
1864.06.12 ヴァージニア州シャーロッツヴィル近郊で南軍捕虜となる
1864.06.22 ヴァージニア州のリビー Libby 収容所に到着
1864.06.29 ジョージア州アンダーソンヴィル Andersonville の収容所に到着。義兄ふたりも同じ場所に収容される
1864.09.22 衰弱した義兄ジョージを医師につれていく(ジョージを見た最後)
1864.10.01 義兄ジョージ、アンダーソンヴィルで死亡(餓死)。33歳(現 Andersonville National Cemetery に眠る)
1864.11.05 ジョージア州マイロン Maylon の収容所に移動(3週間すごす)
1865.05 ワシントンDCに移動していたもとの連隊に復帰
1865.10.10 義兄リーヴァイとともに、カンザスのフォートレヴェンワース Fort Leavenworth で除隊。26歳。バーリンに戻り、不在のあいだに生まれていた次女と対面する
1866.05.05 義兄リーヴァイが結婚(28歳、農夫。翌年、妻と娘を出産で同時に失う)
1866.06.24 妹マリア、再婚
1870.03.10 義兄リーヴァイ、再婚
1889.04.15 妹マリア死去、47歳(子ども6人)
1917.12.08 妻アビゲイル死去、77歳(子ども7人)
1922.04.15 義兄リーヴァイ死去、84歳(子ども5人)*お墓の画像
1924.02.09 シェルダン死去、84歳 *お墓の画像



ミシガン州アイオウニア郡バーリン(ベルリン)
Berlin township, Ionia, Michigan, USA
ともにエリー湖の南側から移住してきたカーティス家とバーナード家が
この地で農業を営んでいた


S_R_Curtiss_famirytree.jpg
Family tree of Sheldon Russell Curtiss
帽子のマークは、北軍従軍者

年譜だけ見ても相当にドラマチックである。
カーティス家の妹兄と、バーナード家の兄妹の縁組み。内戦の勃発。男たちの相次ぐ入隊……
セイは、1歳半の愛娘と年若い妻を残して北軍に加わったのだ。そして、セイの入隊の翌日、セイにとっては姪にあたる赤子(名前はエヴァ・マリア)が幼い命を終えた。まさにその日、その赤子の父親ジョージと、ジョージの弟リーヴァイが入隊している! このタイミングは何を意味するのか。

そのとき、セイの妹で、ジョージの妻であるマリア・バーナードはまだ20歳。わたしが思うに、きょうだいのうちで一番気の毒だったのは彼女である。――娘を亡くすと同時に、夫も兄も義理の弟も、戦争に行ってしまった。そして、兄セイの妻アビー(Abby / Abigail / Abigal)の妊娠が判明。いっぽうの自分に、新しい子どもは与えられなかった。そして、夫のジョージはついに戻ってこなかったのだ。――南北戦争が終わったとき、マリアは23歳の子なしの未亡人になっていた。
(のちに、マリアに寡婦年金が支給されていたこと、また再婚して子どもに恵まれていたことを知ったときは、心底ほっとした)

戦死したジョージの子孫はいない。ピンクと同じだ。
セイの義兄ジョージ・W・バーナードも、後世の人に名前を呼んでもらっていいのではあるまいか。
ジョージ・バーナード伍長。セイの奥さんのお兄さん。

さて、ミシガン州立大学(Michigan State University)のサイトには、Civl War Collections という南北戦争の資料を集めたページがある。連隊の記録のほか、写真、従軍兵士の手紙、当時の新聞の切り抜きなどで構成されており、多くは原本がカラー画像で公開されている。
そのなかに、シェルダンの日記が入っていた。彼の顔写真もあるので、下のURLからぜひ日記のPDFを開いてみてほしい。
Curtiss (Sheldon R.) Papers
http://civilwar.archives.msu.edu/collection/7-1C-57/curtiss
(日記があるということは文字が書けたということになるので、絵本にある「文字が読めなかった」というのはいつの話か、というツッコミがしたくなるが、そこには触れないでおく)


もっとも、「日記」とはいえ現物複写ではなく、末娘の監修により活字になったものだ。ミシガン州アイオウニア郡の週刊紙 The Ionia County News議会図書館による解説 に5回にわたって連載された記事がそれである。掲載年月日がはっきりしないが、この新聞の創刊は1921年11月、終刊は1965年。シェルダンがすでに死亡していることが記されているので、1924年〜65年のあいだの掲載と推定できる。

1970年1月、ミシガン州立大学にこの記事を寄贈したのは Mrs Harvey H. Lowrey といい、シェルダンの末子で5女のイーヴリン・グレース Evelyn Grace (1877-1971) のことだ。彼女はいちばん最後まで存命していたシェルダンの実子で、パトリシア・ポラッコにとっては曾祖母の妹にあたる。1971年に亡くなったとき、ポラッコは26歳だったから、存命中に話を聞くチャンスはあったかもしれない。はたして、ポラッコはシェルダン日記(記事)の存在を知っていたのかどうか? じゅうじゅうわかっていて、23歳の兵士の話では児童向けの絵本にはならないと判断して、15歳という設定にしたのか。それともまったく知らないでいるのか。それは本人に尋ねてみるしかない。(尋ねるつもりはありませんが)

日記にはおもにアンダーソンヴィル収容所の過酷な生活、そして義兄たちとの助け合いが描かれている。だが、「リンカーン大統領と握手した」という、事実であればいちばん書かれていそうなエピソードは見当たらない。



The Story of Andersonville Prison
収容所のあまりに劣悪な環境がわかる動画。閲覧注意
*アンダーソンヴィル歴史地区 公式サイト

結局、Pink and Say における戦争時の記述、
    ○年齢は15歳(独身)
    ○オハイオの家から出征した
    ○ブルランの戦い(第一次は1861年6月、第二次は1862年8月)以前に従軍していた
    ○文字が読めなかった
    ○リンカーン大統領と握手した
    ○脱走し、ジョージア州で黒人兵に助けられた
    ○アンダーソンヴィル捕虜収容所に入った
上記について、事実だと確認が取れたのは、最後の収容所のことだけだった。
(もともとオハイオに住んでいて、ミシガンのバーリンに引っ越したこと、結婚した相手や娘の名前などは事実と合致するが、年代が違う)

つまり本作は、実在した「シェルダン・ラッセル・カーティス」という農夫のストーリーとして考察する限り、「事実を一部にからめて、“本当にあったお話”という体裁を取ったフィクション」と考えるのが妥当といえる。

しかし、だからといって、Pink and Say という物語のもつ力強さが減じるわけではない。セイと似た境遇の白人少年兵、ピンクのような南部出身の北軍黒人少年兵が存在したことは事実だし、アンダーソンヴィルの悲惨さ、ふたりの友情の美しさは変わらない。
ただ、作品の背後にまた別のストーリーが流れていた、ということだ。


ついでにやや意地の悪いことを指摘しておくと、シェルダンの日記の「原本」は大学に寄贈されてはいないようだ。したがって、末娘の主導で活字になったものが「日記」のすべてということになる。このことで、日記の史料的価値が減じて見えることは否めない。これはシェルダンのケースだけではなく、原本のない活字文献全般にいえることだが、身内が公開した資料はどうしても信頼性に疑義が生じやすい。外聞の悪いことは省かれ、加筆もあるのではないかという疑いがわくのだ。(もし、シェルダンの脱走が事実で、彼がそのことを日記に書きとめていたとしても、公開にあたって娘はその部分をカットしたに違いない、というような想像もできてしまう)

ミシガン州立大学所蔵の他の資料はオリジナルの画像が多いため、なおさら「新聞記事」というのが異質に見える(手書きの手紙よりも、圧倒的に読みやすい点はありがたいが)。


ともあれ、シェルダンの日記は、アンダーソンヴィル収容所の実態を知る資料として貴重である。
また、家族への愛と、神への素朴な信仰の吐露にも打たれる。自分の従軍中に、妻アビーが女の子を出産したという知らせはシェルダンのもとに届いていた。その知らせは、生きよう、生き延びて故郷に帰ろうというエネルギーになったに違いない。絵本とはまた違う、切ないシチュエーションがそこにはあったのだ。

最後にもういちど、死んだ兵士の名を書いておこう。彼らの思い出のために。

  ピンクス・エイリー!
  ジョージ・バーナード!



*南北戦争に参加した黒人兵について知りたい方はこちら
African American Civil War Memorial and Museum (Washington, DC)
https://www.afroamcivilwar.org/

*どうでもいい追加
南北戦争といえば、思い出すのはマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』(原作のほう)である。
あの作品でいちばん印象に残っているのは、無名の少年兵のエピソード。ぼろぼろになった南軍の敗残兵たちが、故郷をめざして徒歩でスカーレットの屋敷周辺を通過していく。弱り切った少年兵が、力尽き葬られる。どこかいいところの坊ちゃんらしいが、名前も住所もわからない。彼の帰りを待ちわびる家庭が南部のどこかにあるのだろう……というような場面があった。うろ覚えですが。 



【参考文献/資料入手先】
Famiry Search ※米国のセンサス閲覧は無料。ただし利用には登録が必要です
Find A Grave - Millions of Cemetery Records
Elam Edgar Branch, History of Ionia County, Michigan, Vol.1, 1916
Michigan State University : Civl War Collections
The Civil War in the East : 6th Michigan Cavalry
Clarke Historical Library : US Army Michigan Cavalry Regiments
Patricia Polacco Official Web Site
Sharron L. McElmeel, 100 Most Popular Picture Book Authors and Illustrators: Biographical Sketches and Bibliographies, Libraries Unlimited, 2000

ver1.0 2018/06/13

posted by やぎたに at 11:04 | Comment(0) | 書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年06月06日

あかしびとたち―日本聖公会人物史/目次と索引

最終更新 2018/06/09 ver.1.03

○日本聖公会歴史編集委員会 編『あかしびとたち――日本聖公会人物史』日本聖公会出版事業部 1974

*元本にある目次と索引を、検索用テキストにしました
*索引の英米人名には元綴りと生没年を、目次の日本人名にはふりがなを追加してあります
*索引において、検索の利便性を高めるため、ヤギタニが独自に追加した部分があります
赤字になっている数字や文字列は、ヤギタニによる訂正箇所です


●あかしびとたち 目次

序 大久保直彦
はしがき 松平惟太郎


第一編 開拓者たち(一)

開拓者たち(一)……1
C・M・ウィリアムス ――日本聖公会の初代主教……2
G・エンソウ ――CMS最初の宣教師……6
W・B・ライト ――関東伝道の開拓者……9
A・C・ショウ ――芝聖アンデレ教会の創設者……12
J・パイパー ――聖書と祈祷書の翻訳者……15
P・ファイソン ――北海道最初の定住主教……17
H・ラニング ――聖バルナバ病院の創設者……20
C・F・ワレン ――大阪伝道の開拓者……23
H・J・フォス ――古今聖歌集の父……25
H・エビントン ――九州教区の基を固めた主教……28
H・モンドレル ――神学教育の父……30
A・B・ハッチンソン ――著述で貢献した伝道者……32
水科五郎 みずしなごろう ――最初の邦人伝道師……34
T・S・チング ――多くの邦人聖職の育ての親……37


第二編 開拓者たち(二)

開拓者たち(二)……43
田井正一 たいまさかず ――最初の邦人司祭……44
山県与根二 やまがたよねじ ――南東京伝道の開拓者……47
飯田栄次郎 いいだえいじろう ――軍人出身の伝道者……50
J・バチェラー ――アイヌ人への福音の使徒……52
芥川清五郎 あくたがわせいごろう ――アイヌ人伝道に献げた生涯……56
小川淳 おがわじゅん [sic] / おがわきよし ――北海道最初の邦人司祭……58
伊東松太郎 いとうまつたろう ――北海道の豪傑牧師……61
笛木角太郎 ふえきかくたろう ――仁侠の世界から巣立った大衆伝道者……64
秦呑舟 はたどんしゅう ――伝道精神に徹した医者……66
松山高吉 まつやまたかよし ――聖書・聖歌の訳者……68
J・C・ロビンソン ――カナダ・ミッションの先駆者……70
J・G・ウォーラー ――「心臓」で伝道した人……73
牧岡鉄弥 まきおかてつや ――伝道の鬼と言われた司祭……76
水野功 みずのいさお ――神宮の家から出て聖職に……78
I・ドーマン ――古都に近代文化を伝えた人……80
A・D・グリング ――京都教区の基盤確立に貢献した人……83
R・D・ハワード ――愛に生きた自給伝道者……85
B・F・バックストン ――山陰の聖者……88
荒砥琢哉 あらとたくや ――山陰から台湾まで……91
洪恒太郎 こうつねたろう ――開拓伝道の苦難をこえて……93
J・ハインド ――北九州伝道の開拓者……95


第三編 組織者・建設者

組織者・建設者……101
A・W・プール ――最初の英人主教……102
E・ビカステス ――日本聖公会組織の生みの親……104
J・マキム ――偉大なる建設者……107
W・オードレー ――スポーツ好きの霊的指導者……112
S・C・パートリッジ ――ユニテリアンより聖公会主教に……114
C・H・ボーフラワー ――深い霊的感化を残した主教……116
W・アンデルス ――北海道伝道に献げた生涯……118
A・リー ――九州教区の恩人……122
H・J・ハミルトン ――中部地方部初代主教……124
H・S・G・タッカー ――京都地方部の偉大な主教……127
S・ヘーズレット ――南東京の慈父……130
元田作之進 もとださくのしん ――立志伝中の人……133
名出保太郎 ないでやすたろう ――大阪教区初代主教・……135
C・S・ライフスナイダー ――日本と日本人を深く愛した人……138
B・シンプソン ――公会の霊的指導者……140
S・H・ニコルス ――人情家主教……142
G・J・ウォルシュ ――北海道に独立自給教区の幻を与えた人……144
N・S・ビンステッド ――東北地方部の初代主教……147
吉沢直江 よしざわなおえ ――横浜教区の大元老……149


第四編 牧羊者たちのおもかげ

牧羊者たちのおもかげ……155
八代欽之允 やしろきんのじょう ――謹厳端正な働き人……156
J・C・マキム ――東北教区の偉大な宣教師……159
J・チャペル A・F・チャペル ――兄弟で日本伝道に尽力……161
杉浦義道 すぎうらぎどう ――労働者伝道の勇者……163
杉浦貞二郎 すぎうらていじろう ――日本神学界の先駆者……163
山田助次郎 やまだすけじろう ――神に頼ることだけを教えた牧師……166
後藤粂吉 ごとうくめきち――貧民街の伝道者……169
皆川晃雄 みながわあきお ――祈り・訪問・自給……171
関翊 せきたすく ――牧会生活五十八年……173
辻井亨 つじいとおる ――横浜聖アンデレ教会の名牧師……175
篠塚長治郎 しのづかちょうじろう ――俳人司祭……177
河合尭三 かわいぎょうぞう ――福音主義の闘士……180
曽我捨次郎 そがすてじろう ――誰にも憎まれなかった人……183
菅寅吉 かんとらきち ――忠実な牧者……186
吉村大次郎 よしむらだいじろう ――古都奈良で二十一年間牧会伝道……188
深田直太郎 ふかだなおたろう ――大阪教区の温厚な常置委員長……190
P・A・スミス ――日本的教会建築に貢献……192
覚前政吉(覚前政蔵) がくぜんまききち――わらじばきの伝道者……195
寺本房吉 てらもとふさきち ――祈りの人……197
C・フォックスレー ――優れた学者司祭……200
牛島物乙太郎 うしじまそうたろう ――聖書に忠誠を献げた人……203


第五編 各分野での証し人たち(一)

各分野での証し人たち(一)……209
台湾伝道者群像――北川千代吉 きたがわちよきち・大橋麟太郎 おおはしりんたろう・木村定三 きむらさだみ・丹下トキ たんげとき……210
大矢敬香 おおやけいこう ――樺太伝道の先駆者……216
永野武二郎 ながのぶじろう ――山陰の名物牧師……218
青木恵哉 あおきけいさい ――沖縄救ライの先駆者……220
木村兵三 きむらひょうぞう ――小山修道院の創立者……223
木庭孫彦 こばまごひこ ――古武士的風格の神学者……226
今井寿道 いまいとしみち ――神学教育の父……228
落合吉之助 おちあいきちのすけ ――円満な神学院の校長先生……231
H・H・ケリー ――深い感化を残した神学院教授……234
山県雄杜三 やまがたおとぞう ――教会歴史の権威者……237
稲垣陽一郎 いながきよういちろう ――日本聖公会神学教育の恩人……239
村尾昇一 むらおしょういち ――通信伝道の道を拓いた人……241
A・H・アーノルド ――広い包容力を持った神父……245
J・M・ガーデナー ――教会建築と教育の先駆者……248
A・ロイド ――日本の英語教育の父……250
高松孝治 たかまつたかはる ――学生のよき指導者……252
前島潔 まえじまきよし ――日本聖公会の代表的歴史家……255
岩佐琢蔵 いわさたくぞう ――清節を貫いた教育家……257
小林彦五郎 こばやしひこごろう ――立教女学校の名校長……259
小宮珠子 こみやたまこ ――立教女学校・日本聖公会婦人補助会の創設に貢献……261
浅野勇 あさのいさむ ――高徳の教育者……264
小泉秀 こいずみひで ――教育の場にキリストの愛を実践……266
K・トリストラム ――プール女学校長として四十年……268
M・M・ヤング ――柳城短期大学の創立者……270
E・F・アプタン ――愛仕の人……272
G・G・スペンサー ――幼児教育の母……275
石井亮一 いしいりょういち ――精神薄弱児の父……278
森巻耳 もりけんじ ――岐阜訓盲院の創立者……281


第六編 各分野での証し人たち(二)

各分野での証し人たち(二)……287
R・B・トイスラー ――聖路加国際病院創立者……288
コルバン夫妻 ――夫婦で医療伝道に献身……292
今泉民吉 いまいずみたみきち――「医は仁術」の実行者……295
ハンナ・リデルとエダ・ライト ――救ライの母……297
M・H・コンウォールーリー ――草津のお母さん……300
小橋勝之助夫妻 こばしかつのすけ (小橋カツエ こばしかつえ)と小橋実之助 こばしじつのすけ ――孤児の父……303
林歌子 はやしうたこ ――祈りつつ戦った社会事業家……306
リーラ・ブール ――天使の如き愛の聖徒……308
樫内晰子 かしうちあきこ ――神を畏れ人を愛した伝道者……310
吉田とく よしだとく ――非凡な凡婦の鑑……313
玉置格 たまおきいたる ――奈良の教育と政治に貢献……315
佐藤政吉 さとうまさきち ――秦野聖ルカ教会の柱石……318
川口栄之進 かわぐちえいのしん ――政治と信仰を両立させた人……320
田中久吉 たなかひさきち ――平凡な非凡人……322
飯田高朗 いいだたかお ――生きもの好きな裁判官……324
山田元 やまだはじめ ――日本聖公会の自給に努力した信徒……326
斎藤秋造 さいとうあきぞう ――日本聖公会法規の整備に貢献……329
衣笠景徳 きぬがさけいとく ――財宝を天に積んだ実業率……330
柳原吉兵衛 やなぎわらきちべい ――社会奉仕・日韓融和に尽した信徒……333
辻万三 つじまんぞう ――信仰を以て貫き通した名町長……335
光安梶之助 みつやすかじのすけ ――忠実なクリスチャン建築士……337
吉川時松 よしかわときまつ ――伝道精神に徹した材木商……340
白石村治 しらいしむらじ ――古美術の研究家であった伝道者……343
松本千 まつもとせん ――聖職と信徒に仕えた婦人……345
小野とく おのとく ――美しい生涯……348


第七編 苦難と復興の時代に生きた人たち

苦難と復興の時代に生きた人たち……353
松井米太郎 まついよねたろう ――温容慈顔の人……354
佐々木鎮次 ささきしんじ ――教会の遠い将来を達見した主教……356
須貝止 すがいとどむ ――日本聖公会の受難に殉じた主教……359
三浦清一 みうらせいいち・三浦光子 みうらみつこ 夫妻――情熱の伝道者夫妻……362
鈴木二郎 すずきじろう ――教会中心の信仰に生きた教育家……365
蒔田誠 まきたまこと ――公会の篤農家……367
前川真二郎 まえかわしんじろう ――温厚誠実な主の僕……371
大西狷介 おおにしけんすけ ――清貧を貫いた聖徒……374
中村信蔵 なかむらしんぞう ――死刑囚の友として……377
八代斌助 やしろひんすけ ――教界に輝いた巨星……379

索引……384


●索引 <五十音順>


アーノルド.A.H / Arnest Henry Arnold (1890-1950) ……245-247,366
アンデルス.W / Walter Andrews (1852-1932)……118-121,19,36,53,54,60,145,146,173,214,217,224
アンデルス.ヘレン Mrs Helen Andrews, née Paterson (1857-1918) ……119,121
アンデルス.ロイザ / Mrs Louisa Batchelor, née Andrews (1843-1936) ……119
アプタン.E.F / Miss Elizabeth Florence Upton [sic] / Elizabeth Fenno Upton (1880-1966) ……272-275
相沢誠四郎……185
青木恵哉……220-223,299
秋田哲三……26
秋山基一……168
芥川清五郎……56-58,55
芥川寿哉……58
浅野勇……264-266
浅野曽和……265
荒木いよ……289
荒砥琢哉……91-93,119,212


伊東松太郎……61-63,19,60,120,157,380
伊東清子……61
伊東祐……61
飯清……382
飯田栄次郎……50-52,10,48,368
飯田尭一……371
飯田高朗……324-326
飯田鳶夫……176
石井十次……304
石井亮一……278-281,84,164,260
石井筆子……84,280
一色相吉……112,212,319
稲垣陽一郎……239-241,160,327
井上伊之助……212
井上照子……176,302
今井三郎……243
今井寿道……228-230,13,14,112,113,150,232,234,318,346,357,366
今井富美子……230
今井直道……150,230
今井信道……230,327
今井嘉道……230
今井順道……230
今井正道……230
今泉民吉……295-297,148
岩佐琢蔵……257-259
岩田慶次郎……97,178
岩田とく……112,212


ウィリアムス.C.M / Channing Moore Williams (1829-1910) ……2-6,7,10,16,20,21,28,37,45,46,48,67,69,73,79,91,103,104,108,109,115,164,165,171,172,186,203,248,257,262,263,287,306,308,379
ウィリアムズ.J / James Williams (1847-1920) ……15
ウィルキンソン / George Howard Wilkinson (1833-1907)……106
ウェストン.W / Walter Weston (1861-1940) ……126,258,259
ウェルボン.A / John Armistead Welbourn (1875-1960) ……127
ウォーラー.J.G / John Gage Waller (1863-1943) ……73-75,184
ウォルシュ.G.J / Gordon John Walsh (1879-1971) ……144-147
ウォルトン, マレー W. H. / W. H. Murray Walton / William Howard Murray Walton (1890-1980) ……243,258
ウッド / Charles Hampden Basil Woodd (1869-1941)……265
上田一良……168,179,233
植松金蔵……160,223
植村才一……319
植村正久……69
牛島惣太郎……203-205,94,212,213
内田茂二……70


エバンス.A.M / Miss Anna Evans (1861-1951)……293
エビントン.H / Henry Evington (1848-1912)……28-29,18,24,91,120,191,198,241
エリクソン / Swan Magnus Erickson (1881-1946)……220
エンソウ.G / George Ensor (1842-1910) ……6-8
エンソウ.リリー / Mrs Elizabeth Catherine Ensor, née Wilkins……7
エンソウ.E.V / Miss Edith Violet Ensor (d.1962) ……8,31
遠藤義光……194


オードレー.W / William Awdry (1842-1910) ……111-114,116,183
小川淳……58-60,19,57,119
小野とく……348-350
小野たえ子……349
小野俊作……350
小野田鉄弥……45
小原国芳……193
尾形虎造……38,174
尾崎行雄……13
大井浅吉……19,55,174
大久保直作……184
大久保直彦……184,274,369,379
大谷博愛……55
大塚惟明……38,264,327,336
大西狷介……374-376,367
大野要蔵……45,329
大橋麟太郎……210-215
大橋シゲ子……213
大矢敬香……216-217
大矢あい……216
大和田功……194
太田俊夫……364
岡墻清蔵……168,176,233
岡野留次郎……193
岡本房子……346
奥野昌綱……69
奥村亮……274
落合吉之助……231-233,311
落合昭子……231
落合吉一……233
落合吉二……233


ガーデナー.J.M / James Mcdonald Gardener [sic] / James McDonald Gardiner (1857-1925) ……248-250,39,143
ガーデナー.フローレンス / Mrs Florence Rhodes Gardiner, née Pitman (1854-1930)……249
カスバート / William J. Cuthbert (1877-1929) ……187
加藤泰治……160
加藤恒子……349
賀川豊彦……170,244,340,341,362,363,364
海保熊次郎……112,212,319
覚前政吉……195-197
樫内晰子……310-312
片田蔦五郎……174
片山留二郎……344
勝部謙造……193
金井酉造……273
金井登……45,164
金沢久……259
金成太郎……54,57
川口栄之進……320-321
川口とよ……320
河合堯三……180-183,227,242
河合寿柄子……181
菅寅吉……186-188
菅円吉……187


キング.A.F / Aniline Francis King (1856-1918) ……112
ギャラット / William Frederick Henry Garratt (1841-1915; Chaplain at Yokohama, Japan 1876-80, SPG Missionary at Tokio, 1881-5) ……10
ギルソン Charles Packard Gilson (1899-1980) ……222
木庭孫彦……226-228,31,36,93、94,242
木俣哲次……174,178
木村定三……210-215,227
木村信一……214
木村光二……214
木村毅三……214
木村兵三……223-225,160
木村貞吉……371
北川千代吉……210-215,45,112
北川すえ子……212
北川台輔……213,243
北川三夫……213
北沢繁松……371
衣笠景徳……330-332
衣笠譲二……331
衣笠老太……331
衣笠意作……331
衣笠保良……331


クインビー / James Hamilton Quinby (c.1833-1872) ……16
クーパー / William B. Cooper (1850-1885) ……45
グッドオール.E / Mrs Eliza Goodall (d.1893) ……32,227
グリーン / Daniel Crosby Greene (1843-1913) ……68
グリング.A.D / A. D. Gring / Ambrose Daniel Gring (1849-1934) ……83-85
グリング.ハリエット / Mrs Harriet Lucretia Gring, née Mclain (1851-1914) ……83
グレイ / William Royston Gray (1867-1950) ……117,259
グロージャン / Miss Violet Caroline Grosjean (1880-1978)……247
工藤義雄……247
倉敷武駿……34,90
栗田昇……355


ケリー.H.H / Herbert Hamilton Kelly (1860-1950) ……234-237,117,141,245,368,369,378,380
ケネディ / Francis William Cassilis Kennedy (1867-1930) ……196,222


コルバン.W.W / William Wriothesley Colborne (1857-1915) ……292-295,19
コルバン.S.E / Mrs Sophia Ellen Colborne, née Field (1862-1940) ……292-295
コンウォールリー.M.H / Miss Mary Helena Cornwall-Leigh [sic] / Mary Helena Cornwall Legh (1857-1941) ……300-302,158,223
ゴードン / M. L. Gordon / Marquis Lafayette Gordon (1843-1900)……139
小泉秀……266-268,193
小西栄三郎……355
小橋勝之助……303-305,45,136,306
小橋実之助……303-305,45,306
小橋カツエ……303-305
小坂井桂次郎……283
小林貞治……212,242
小林彦五郎……259-261,38
小林みよ……260
小宮珠子……281-263
洪恒太郎……95-97,31,36,227
後藤粂吉……169-170,86
後藤マツ……170


佐々木愛子……350
佐々木鎮次……356-358,13,49,126,144,151,230,327,360,365,367
佐々木光……356
佐々木厚……358
佐々木二郎……378
佐竹準……15
佐藤祝……176
佐藤忠誠……162
佐藤政吉……318-319
佐伯博厚……194
佐伯好郎……259
左乙女豊祐……38
斎藤秋造……329-330
斎藤千秋……329
酒井正栄……45
桜井健……160,224


シュミット / Dr. H. Ernst Schmid / Henry Ernest Schmid (1834-1926)……3
シュラー……20
ショウ.A.C / A. C. Shaw / Alexander Croft Shaw (1846-1902) ……12-14,9,11,16,47,48,71,73,103,150,167,229
シンプソン.B〔バジル主教/バジル監督〕 / Basil Simpson / John Basil Simpson (1880-1942) ……140-142
ジェフリー.H.S / Henry Scott Jeffreys (1853-1920) ……186
紫田新太郎……55
篠田武助……340
篠塚長治郎……177-180
篠塚まさ……178
島田弟丸……10,47,40
庄村助右衛門……3
白石村治……343-345


スペンサー.G.G / Miss Gladys Gertrude Spencer (1869-1960) ……275-277
スミス.P.A / Percy A. Smith / Percy Almerin Smith (1876-1945) ……192-194,266
スミス.インネッド / Mrs Charlotte Enid Smith, née Draper (1881-1961) ……193
須貝止……359-361,151,177,240,358
杉浦義道……163-165,171
杉浦貞二郎……163-165
鈴木いね……271
鈴木金五郎……160
鈴木二郎……365-367
鈴木セイ……225
鈴木光武……174,204


清田海一郎……38
関翊……173-174
関てる……174


曽我捨次郎……183-185,365
副島虎十……227


タッカー.H.S / Henry St. George Tucker (1874-1959) ……127-129,137,142,249,251,289
田井正一……44-46,306
田口規聖……164
田中耕太郎……347
田中久吉……322-324,355
田中安子……323
田村初太郎……85
多川幾造……38
高瀬恒徳……135,355
高橋五郎……69
高松孝治……252-254,165
瀧口三郎……321
瀧口リウ……164
竹内宗六……227
竹田真二……168,291
竹田鉄三……160,224
竹渕静雄……160
玉置格……315-317
丹下得喜子……210-215,112
丹波恒夫……251
大藤鋳三郎……187,355


チャプマン / James J. Chapman (1899-1946) ……84,127,242
チャペル.J / James Chapel [sic] / James Chappell (1869-1954) ……161-163,183
チャペル.A.F / A. F. Chapel [sic] / Arthur Frederick Chappell (1860-1945) ……161-163,183,282,354
チング.T.S / T. S. Tyng / Theodocius Stephens Tyng (1848-1927) ……37-39,136,251,259,260,320
千葉勇五郎……201
近重利澄……38


津川弥久茂……174
津田梅子……280
津田仙……372
辻万三……335-337
辻巌……337
辻恵美子……337
辻井亨……175-177
辻井小枝……175
鶴田一郎……302


デニング / Walter Dening (1846-1913) ……15,17,53,60,91,120
寺田藤太郎……112,119,212
寺本房吉……197199
寺本スエ……198


トイスラー.R.B / Rudolf Bolling Teusler (1876-1934) ……288-291,22,128,148
トイスラー.メリー / Mrs Mary Stuart Teusler née, Woodward (1876-1941) ……289
トリストラム.K / Miss Katherine Tristram (1858-1948)……268-270
ドーマン.I / Isaak Dooman (1857-1931) ……80-83,189,239,316
富田孫太郎……174,374
富田元一郎……216


名出保太郎……135-137,38,128,131,171,260,320
名出晃子……262
中沢一次……8
中野次八郎……94
中村信蔵……377-379,160,277,349
中山義楠……315
永野武二郎……218-219,89
長尾よつ……174
長沢義正……90


ニコルス.S.H / S. H. Nichols / Shirley Hall Nichols (1884-1964) ……142-144
ニブン.G.C / George Cecil Niven (1871-1951) ……19
新渡戸稲造……290


ネトルシップ / Charles Nettleship (1858-1928) ……19,54


野村義眼……212


ハインド.J / James Hind (1861-1934)……95-97
ハッチンソン.A.B / Arthur Blockey Hutchinson (1841-1919) ……32-34
ハッチンソン.A.C / Archibald Campbell Hutchinson (1883-1981) ……34
ハミルトン.H.J / Heber J. Hamilton / Heber James Hamilton (1862-1952) ……124-126,77,182,184
ハミルトン.ミニー / Mrs Mary Ann “Minnie” Hamilton, née Spence (1865-1951) ……125
ハワード.R.D / Miss R. D. Howard / Rachel Dora Howard (1862-1948) ……85-87,169
ハリソン / Ernest Reed Harrison (1883-1937) ……314
パートリッジ.S.C / Sydney C. Partlidge [sic] / Sidney Catlin Partridge (1857-1930) ……114-115,187
バーフット / Walter Foster Barfoot (1893-1978; Anglican Chuch of Canada, Primate Bishop 1951-1958) ……375
パイパー.J / John Piper (1840-1932) ……15-17,64
バタソン Miss, of San Francisco ……372
パットン James Lindsay Patton (1866-1915) /……186,344
パロット / Frederick Parrott (1870-1934) ……89
バードン / John Shaw Burdon (1826-1907; bishop of Victoria, Hong Kong) ……17,24,25,33,36,53
バジル / →シンプソン.B ……202,219,381
バチェラー.J / John Batchelar [sic] / John Batchelor (1854-1944) ……52-55,19,57,58,119,120,121,145,157,217,338
バックストン.B.F / Bercelay Fowell Buxton [sic] / Barclay Fowell Buxton (1860-1946) ……88-90,91,169,218,241
バンカム / William Pengelly Buncombe (1856-1942).……174
バンサイド / Henderson Burnside (1844-1903) ……31,36
秦呑舟……66-68
秦為子……67
早川喜四郎……128,260
速水経憲……212
林歌子……306-307,45,136,262,304
林虎之助……38
原正夫……225


ビカステス.E / Edward Bickersteth (1850-1897) ……104-107,5,17,48,54,60,74,103,108,109,112,150,173,183,196,227,229,338,343
ビンステッド.N.S / Norman S. Binsted / Norman Spencer Binsted (1890-1961) ……147-149,277,349
広瀬与吉……45


ファイソン.P.K / Philip Fyson / Philip Kemball Fyson (1846-1928) ……17-20,15,24,56,57,60,69,76,120,121,146,157,181
フィールド / Miss Alice Field (1871-1933) ……294
フォス.H.J / Hugh J. Foss / Hugh James Foss (1848-1932) ……25-27,70,90,140,174,230
フォックスレー.C / Charles Foxley (1865-1954) ……200-202
プール.A.W / Arthur W. Poole / Arthur William Poole (1852-1885) ……102-104,11,17,119
プライス / Horace McCartie Eyre Price (1863-1941) ……265
プランマー / Francis Bowes Plummer (1851-1932) ……26
ブール.L / Miss Leila Bull (1848-1924) ……308-310
ブライアント / Miss Edith Mary Bryant (1857-1934) ……19
ブラウニング / Edmund Lee Browning (1929-2016; Missionary Bishop of Okinawa 1868-1971) ……222
ブランシェー / Clement Theophilus Blanchet (1845-1928) ……262
ヴァイアル / Kenneth Abbott Viall (1893-1974) ……245,246
笛木角太郎……66-68
深田直太郎……190-192,76,198,227
福島国五郎……174,242
袋井久之丞……38
藤本寿作……89
二川一騰……8


ヘーズレット.S / Samuel Heaslett (1875-1947) ……130-132,118,145,151
ペイン / Miss Lucy Payne (1849-1932) ……19,54
ペーヂ / Henry D. Page ……260
ベッテルハイム / Bernard Jean Bettelheim (1811-1870)……7


ポール / George Henry Pole (1850-1929) ……181
ボサンケット / Miss Amy Caroline Bosanquet (1864-1950) ……266
ボーフラワー.C.H / Cecil Henry Boutflower (1863-1942) ……116-118,63,113,130,175
穂積猛……105,324,355
星野行則……264
堀内長雄……355
本田増次郎……260,265
本間俊平……340


マキム.J / John McKim (1852-1936) ……107-111,5,39,70,82,115,127,128,137,139,142,143,147,150,170,171,172,189,193,231,309,315,317,373
マキム.アンネ / Mrs Ellen Augusta McKim, née Cole / Mrs Nellie Cole McKim (1851-1915) ……108
マキム.J.C / John Cole McKim (1881-1952) ……159-161,111,378
マキム.ネリー / Nellie McKim (1890-1974) ……111
マキム.ベシー / Bessie Mary McKim (1883-1972)……111
マン.J.C / John Charles Mann ……228,242,364
前川真二郎……371-373
前川けん……372
前島潔……255-256
牧岡鉄弥……76-80
蒔田誠……367-370,151,168,175,235,346
松井米太郎……354-356,162,174,183,227,242
松下正寿……382
松田貞澄……212
松原喜七……243
松本寛一……317
松本千……345-348,369
松本丞治……345
松本正夫……347
松本正雄……242
松山高吉……68-70,85
松山耕造……68


三浦清一……362-364,29
三浦光子……362-364
三浦賜郎……364
三橋周也……167
水科五郎……34-37,31,93
水野功……78-80,10,196
光安梶之助……337-339
光安ミチヨ……339
光安虔二……339
光安順三……339
光安哲子……339
皆川晃雄……171-172,355
都田恒太郎……242


武藤富男……244
向井八重子……55
向井山雄……55
村尾昇一……241-244,227,355
村尾優子……242
村岡米男……176,177
村田里……266


メドレー.W.F / William Frank Madeley (1866-1939) ……128


モリス.A.B / Arthur Rutherford Morris (c.1847-1912) ……4,20,37
モンドレル.H / Herbert Maundrell (1840-1896) ……30-32,15,33,34,36,93,203,206,227
元田作之進……133-135,40,12-3,136,165,216,231
森滉……160
森巻耳……281-284,162,354
森しげ……283
森巻吉……265,282,283
森俊治……92
森清一……274
森淑次郎……169
森永太一郎……340
諸岡忠一……31


ヤング.M.M / Miss Margaret Mary Young (1865-1940) ……270-272
八木善三郎……194-325
八代欽之允……156-159,61,380
八代よし子……158
八代斌助……379-383,61,63,141,142,156,158,201,218,219,244,246,258,364,368
柳原吉兵衛……333-335
柳原貞次郎……242,334,336,368
薮本竹次……243
山県与根二……47-49,10,14,50
山県アサ子……47
山県雄杜三……237-238,179,256,263
山口信太郎……174
山口富五郎……176
山田茂三郎……319
山田安問……157
山田助次郎……166-168,13,319,346,368,370
山田元……326,328
山田倫子……327
山中熊也……164
山辺久吉……38
山本秀治……160


由木康……242
結城光雄……163


吉川時松……340-342
吉沢直江……149-151,10,14,318,319
吉田とく……313-314,346
吉富柢貞……31
吉村大次郎……188-190


ライト.E.H / Miss Edde Hannah Wright [sic] / Ada Hannah Wright (1860-1950) ……297-300
ライト.W.B / William Ball Wright (1843-1912) ……9-11,12,47,48,51,79,103,150
ライフスナイダー.C.S / Charles S. Reifsnider / Charles Shriver Reifsnider (1875-1958) ……138-140,110,142,148,165
ラッシュ.P / Paul Frederick Rusch (1897-1979)……253,358
ラニング.H / Henry Laning (1843-1917) ……20-22
ラニング.G / George Michie Laning (1885-1978) ……21
ラング.D.M / David Marshall Lang (1862-1946)……19,60,63,121,145,380


リー.A / Arthur Lee (1868-1958) ……122-124,96,169,362,363
リギンス.J / John Liggins (1829-1912)……3
リデル.H / Miss Hannah Riddell (1855-1932) ……297-300,30,220


ロイド.A / Arthur Lloyd (1852-1911) ……250-252,39,51,157,183,195,196,318
ローリングス / George William Rawlings (1868-1933) ……265,267
ロビンソン.J.C / John Cooper Robinson (1859-1926) ……70-73


ワーズワース / Miss Ruth May Wordsworth (1878-1953) ……314
ワーノック / Miss Mary Lillian Warnock, Mrs Tucker (1879-1962) ……128
ワレン.C.F / C. F. Warren / Charles Frederick Warren (1841-1899) ……23-25,15,16,91,181,191
渡辺誠四郎……168

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2018年04月27日

国際結婚第一号 南貞助の妻イライザの消息 2-後半生

最終更新 2018/06/30 ver.1.7


国際結婚第一号、南貞助と結婚した英国女性イライザ・ピットマン(Eliza Pittman)の消息を探るの巻、その1-前半生のつづきでございます。
ガーディナー(植木屋)を父に、8人きょうだいの末っ子として生まれ、23歳で日本人の南貞助と結婚したイライザ。日本に渡ったものの34歳で離婚し、英国に戻った彼女にいかなる生活が待っていたのか。
国勢調査から見えてくる暮らしぶりは、決して悪くないものでした。
その様子を語る前に、まずは彼女が日本にいたあいだの、身内の動きを見ておくことにしましょう。
親兄姉のことなんて関係ないのとちがう? なぁんて思ったら大間違い。関係大あり!でした。


イライザの足跡を追った総合地図 →GoogleMyMaps


◆   ◆   ◆


【国勢調査(センサス)の記録-2】
●1881年 母亡きあと、父と姉はどうしていたか
イライザが英国不在の年のセンサスです。
この年、77歳で寡夫の父チャールズはクロイドン Croydon のすぐ西、ベディントン Beddington のコテージに引っ越していました。正確な場所は不明ですが、現在の Waddon 駅と Wallington 駅の中間あたりでないかと推理します。国勢調査票の前後に掲載された方々の職は、やはり園丁や農夫が多いですね。

ひとつのコテージに3家族、合計9名が居住していました。チャールズの世帯は、家政婦さんとの2人暮らし。家政婦さんの名前はハリエット・ヒル Harriet Hill、独身、35歳。むむ、この名前、どこかで見たような……?
(ここで気づいたヤギタニ、すごい! 臆面もなく自画自賛!)
そうだ、1871年の国勢調査票! チャールズの名前のすぐ上に記載されている女性の名前が同じ Harriet Hill でした! ただの偶然ではありません。同じ番地に下宿していた女性と、10年後にチャールズはひとつ世帯で暮らしていたのです。なんとなんと。

親子ほど年の離れたふたり。ただの高齢男性&雇われた家政婦という関係だったのか。それとも……? そもそも、チャールズには存命中の実子がいるのに、どうして実子の世話になっていないのか(福祉の制度が整備されていない当時、身内がいれば身内で面倒を見あうのがふつうです)。実子を頼らず、他人の世話になる背後には、どんな事情があったのか……
*こんなチャールズのもとに、南貞助は書留郵便で手紙を送ったといいますが、高齢の庭師が返事を書いてしかもそれを国際郵便で送るなんてこと、相当ハードル高かったに違いありません。(いやその前に、ちゃんと届いたのかしらん貞助の手紙?)

そして、イライザの姉マリア。彼女はもうピムリコにはいませんでした。テムズの南岸、かつて暮らしていた場所に近いカンバーウェル Camberwell のペッカム Peckham に戻り、54 Parkstone Rd(通りは現存せず)で暮らしていました。1つの番地に2世帯が入っていて、彼女の家族は12歳から2歳までの4人の子ども(全員、ピムリコ生まれ)。住み込みの召使いはなし。マリアの職業は「石炭商人」になっています。

(こちらも職業:石炭商人)はピムリコにいました。ただし以前の Lupus St ではなく、別の住所の単身世帯です。同じ番地の居住者は彼を含めて7名。仕事の都合でマリアと別居していたのか、実質上の離婚ということなのか、事情はわかりません。ただし Directory(住人人名・住所録)の記載を見る限り、1880年頃にはお店の経営を縮小していたようです。死亡は1880年代後半と推定されます。ちなみに官報の破産者告知に名前は見えず。

上述のように、マリアは4人の子と暮らしていましたが、2歳の末息子の名前がユニークです。「Tesk M Collins」、とても英国人の名前とは思えない。書き間違いにしては妙ちくりんではありませんか。

別の資料で、この不思議な名前の謎が解けたときの驚きといったら。――あら、もう想像はついちゃいました? イライザの甥っ子にあたるこの子については、またあとで。
なお、1890年の Peckham の Directory にマリアの名前は未掲載でした。つまり、ちゃんとしたお店を経営していたわけではないと思われます。

1883 Mrs Minami passenger.JPG

イライザが1883年に日本から去ったことを示す船客名簿
4月5日に横浜を出港し香港に向かった Bangalore 号の旅客に Mrs Minami の名がある
Japan Weekly Mail, 7 Apr 1883, p.227. より


●1891年 イライザ、姪っ子とともにアッパーな暮らし?
さあ1891年、イライザは英国にいます。帰国した彼女はどこに暮らしていたのでしょうか。
最初に指摘しておきたいのは、彼女は離婚後もずっとイライザ・ミナミ Eliza Minami という名前で通したということ。再婚はしませんでした。また、旧姓を加えて Eliza Pittman Minami と名乗ることもなかったようです。

日本をあとにして7年が経過。1891年に、彼女の住所はちょっと意外な場所にありました。
47 Abingdon Villas, Kensington。ハイストリート・ケンジントン Hign Street Kensington 地下鉄駅の近く、品の良いエリアです。少なくとも、貧困にあえぐ人が「世帯主」として(召使いではなく)住める地域ではありません。



残念なのは、イライザと貞助が新婚当時に暮らした場所についての資料がないことです。前述のように、婚姻届けが出た場所はケンジントン。ひょっとしたら、ここと同じ家、あるいはこの近所で新婚生活を送った可能性もあります。

イライザは4*歳(ばってんが邪魔して数字読めず)「寡婦 Widow」になっています。貞助は日本で生きてるのに、未亡人とは何ごとか? とツッコミたくなりますが、まだ離婚がめずらしかった当時は、たとえ離婚者でも Divorced と正直に書く人は少数派でした。職業欄は「Private M」、すなわち「private means」=不労所得で暮らしを立てている、の意ですね。これは、貞助さんが離婚後も律儀にお手当てを送金していた(もしくは年金が受け取れるように設定してあげた)ことを意味するのではないでしょうか。それ以外に彼女の暮らし向きが(結婚前よりも)向上した理由が思いつきません。日本帰りの事情通として、どこかの商社からコンサルタント代をもらってた……なんてことはまずないでしょうし(サリー・ロックハートじゃないんだから)

世帯にはイライザのほかに3人。まずコリンズ姓の独身女性2人――そう、姉マリアの長女イーディス Edith Louise と次女スザンナ Susannah です。あとの1人は召使いではなく、下宿人のアメリカ青年でした。住み込みの召使いはいませんが、通いだったかもしれないし、実質的に姪っ子たちを女中代わりにしていた可能性もあります。
ただ、わたしの解釈では、姪2人との同居は「姉の窮状を知ったうえで、年頃の姪には良い縁談が舞い込むよう、見苦しくないお屋敷に住まわせた親切」のあらわれだったように思います。なぜなら、のちにイーディスはソコソコの「良縁」をつかんでいるからです(後述)。

カウンティと教区の選挙人名簿 Electoral Registers(List of Persons Registered as County and Parochial Electors)では、1892年〜1900年版までイライザの住所はここになっています(1890、1891年版は同住所に登録者なし)。ところが、住人住所録 Directory を見てみると、1895年版でなぜか47番地は欠番!(下の画像参照) 住人の名前がありません。ずっと住んでいたはずなのに、Directory には載っていない謎のミセス・ミナミ…… どういうことなのか、不思議ですね。

1895 London Directory Abingdon Villas.jpg

1895年の Abingdon Villas(北側、奇数番地)の住人たち
なぜか47番地が未掲載
出典:Post Office London Directory For 1895 (Street Directory, p.163)


*お屋敷の現在の姿をぜひご覧あれ! →Google StreetView
1975年当時の白黒写真
* 通りの研究 建物の外観もわかります The Abingdon Villas and Scarsdale Villas area


【新事実! イライザも函館関係者!】 イライザの住居のお隣、すなわち49 Abingdon Villas で、1879年3月15日、ある女性が亡くなりました。彼女の名は Mrs Emilie Blakiston、そう、函館にいたブラキストン大尉の最初の奥さんエミリーです。なんという奇遇! 貞助につづき、これにてイライザも函館関係者に昇格しました♪


さて、今度は父チャールズ(86才)です。彼は10年前と同じベディントンの Church Path にいました。教区教会である St Mary's Church(聖マリア教会)のすぐ横です。1891/1892年の Electoral Registers では Sunnyside, Church Path, Beddington, Croydon とあり、おそらくここが死亡時の住所でしょう。職業は「Retired Gardener」、仕事はやっと引退です。

同居していたのは、前回と同じくハリエット・ヒル(召使い、年齢さば読みで42歳)、そして間借り人にトマス・ヒル Thomas Hill という24歳の農夫。ふたりとも独身ですが、姓と出生地が同じなので、親戚もしくは親子(非嫡出子)とも考えられます。

* 同居していた Thomas Hill について。国勢調査は「世帯主から見た関係」しか記載されないので、ハリエットとトマスとの関係は不明でした。しかし、その後ハリエットの実家をつきとめ、妹弟の動きを追ってみたところ、このトマスがハリエットの末弟 George Thomas Hill と同一人物であると確信するに至りました(ただし末弟は1863年の後半に出生登録されているので、1891年の国勢調査当時の正確な満年齢は27歳。彼の出生前にハリエットは家を出ていたものと思われる)。末弟はその後もベディントンに住みつづけ、ハリエットの支えになったのではないかと推定されます(後述)。

そしてチャールズは翌1892年の1月はじめ、ここベディントンで亡くなりました。聖マリア教会の教会墓地に埋葬されたのは1月12日のこと。教会の台帳には、年齢は80歳と記録されています。
彼は国勢調査では妻より年上になってましたが、上記の記録が正しいのなら、3歳くらい若い夫だったことになります。
謎のハリエットについてはまたあとで登場するのでお待ちください。

次に姉マリアです。娘ふたりがイライザと暮らしていたことは上で書いたとおり。マリアはどうしていたのかというと、前と同じカンバーウェルのペッカム、38 Azenby Square(通りは現存せず。Directory 記載なし)にいました。個人収入で暮らす(Living On Own Means)未亡人、同居しているのは12歳の息子スティーヴン Stephen と5歳の末娘リリー Lilly。リリーの出生地はペッカムの東隣の New Cross になっていることからすると、何度か引っ越ししていたようですね。

国勢調査で判明した限り、マリアには少なくとも6人子どもがいました(全員実子かどうかは不明)。長男は兄ジェイムズの娘、つまり本人の従妹にあたるハリエット(父の家政婦とは別のハリエット)と結婚して、ジェイムズの家に同居していました(職業 Sweetshop's seller 菓子屋の店員)。次男の消息は不明。長女イーディスと次女スザンナは叔母イライザと同居。三男スティーヴンと三女リリーが実母と暮らす、という状況でした。それで、前のセンサスにいた息子の「Tesk M」はどこへ? ―― はい、実はこのテスク君、スティーヴンと同一人物だったんです。Stephen の愛称が Tesk ってこと? いや、違います。

ここで種明かしをすると、マリアの三男のフルネームは Teiske [Teske] Minami Stephen Collins。そうです、この子は義理の叔父・南貞助の名前をもらっていたのです! といっても出生時に登録された名前は、Stephen のみ。Teiske Minami [Teske Minami] の名が登場するのは国勢調査や結婚、選挙人の登録などです。

テイスケ・ミナミ・スティーヴン・コリンズの出生が登録されたのは1880年。1880年ということは、イライザが離婚する3年前、まだ日本にいるときです。父のトマスはまだ健在でした。なぜロンドンに住む甥っ子に貞助の名前がついたのか。いろいろな想像ができますね。
    妄想アワーの開始:
    結婚してなかなか子どもが生まれず、あせるイライザ。貞助の資産を受け継ぐ子どもがほしい。養子をもらうというのはどうか。日本人ではなく英国人の子。姉には何人も子どもがいる(兄のジェイムズもそれにまさる子沢山だったが、マリアのほうが親しかった)。生まれた甥っ子に貞助の名前をつけてもらい、いわば予約済状態にした。
    あるいは、イライザのあずかり知らぬところで、マリアが独断で日本人義弟の名をつけてしまったのが真相。そう、当時マリア夫の仕事がうまくいかなくなり、この子のために「裕福な日本人」の支援(遺産)を確保したかった! とか。手紙で知らされたイライザはびっくり!? でもうれしい♪ なんて状況だったりして。
    :妄想アワー終了

●1901年 イライザはお店を経営、姉マリアは家政婦に
1901年、50代になったイライザ。最後のセンサスは、死の1年前となります。彼女はどこにいるでしょうか。

ケンジントンにはもういませんでした。前回姉マリアの住んでいたペッカムのやや南側、ナンヘッド Nunhead 駅の近く、82 Ansdell Road の住人となっていました。



51歳の未亡人、今度の職業は「Shopkeeper (General) own account」とあり、雑貨屋を自営していたと考えられます。同居人はなく、1つの番地にひとり世帯として記録されています。Electoral Registers におけるイライザ最後の記載(1902年版)もこの住所です。
1896年の Directory を見てみると、この番地には Robert Davey, decorator(室内装飾業者)が住んでいました。1900年版では Joseph Fletcher, grocer(食料雑貨店主)とあり、82番地が店舗だったことはまず間違いありません。

1901 Punch general store.jpg

Punch, 6 Feb 1901, p.113. より
当時の General Store の雰囲気がわかるイラスト
イライザもカウンターのうしろに立ったのだろうか


残念ながら彼女の名前の入った Directory は見つかりませんでしたが、再婚せず独り身を通した彼女は、「お店を持って自活する」という、労働者階級の女性の夢を最後にかなえたのかもしれません。
いよいよこのあと、イライザに死が訪れますが、その話はもう少しあとで。

いっぽう、1901年に姉マリアはペッカムの 38 Victoria Road にいました。現在の Bellenden Road、Peckham Rye 駅の近くです。世帯主はジョン・ノット John Knott(1848/10 Tavistock, Devon 生まれ)という独身52歳のヴァイオリニスト(1900年版 Directory によるとヴァイオリン教師 teacher of violin)。マリアは彼の家で住み込みの家政婦 House Keeper になっていました。

息子のスティーヴン(Teske の表記はない)22歳と、末娘のリリアン15歳も下宿人(賄いつき)として一緒です。前者の職業は Railway Porter(鉄道の赤帽さん)、後者は Necklace maker(首飾り製造者)。イライザがもと帽子を作っていたことを思い出します。
独身の音楽家ノットさんが子連れの未亡人マリアに空き部屋を提供し、そのうちマリアに身の回りの世話をしてもらうようになった、というような展開でしょうか(またまた妄想)

1909年、カンバーウェルで64歳の Maria Collins の死亡届けが出ています。イライザの死から7年後のことでした。

あくまで10年おきの国勢調査を見た限りのことですが、イライザとマリアの姉妹を比較すると、イライザの帰国後の生活は(物質的な意味では)そう悪いものではなかったといえそうです。彼女は誰かの世話にならず、下宿人にもならず、ずっと「世帯主」でいたのですから。

●1911年センサス、姪と甥と
イライザの死について触れる前に、一連の関係者のなかから、マリアの子どもたちふたりのその後を紹介しましょう。

まず、マリアの長女で、一時イライザとケンジントンで暮らしていたイーディス。1897年、彼女が結婚した相手はトマス・エドワード・ウェブ Thomas Edward Webb という32歳年上の医者でした。ペッカムの 13 Commercial Road に診察室をかまえ、125 Evelina Road でも暮らしていました(後者は、1901年当時のイライザの家から徒歩数分の距離)
子どもは生まれず、結婚10年で夫は亡くなり(遺産額£1,002)、1911年には未亡人としてペッカムでひとり暮らし。彼女はその後も独身を通して、1953年に亡くなります。

マリアの三男・貞助スティーヴンも結婚し、1911年にも10年前と同じ 38 Victoria Road にいました。叔母も母もすでに亡く、いるのは妻と下宿人。世帯主となった彼は、初めてセンサスでフルネーム「Teske Minami Stephen Collins」を使っています。
仕事は Insurance Agent(保険代理店), Prudential Assurance Co. Ltd [現在の Prudential plc のことか?] となっており、鉄道の赤帽から大躍進しました。
*フルネームを記した営業用の名刺を使い、変わった名前なのでお客さまにすぐ覚えてもらえます、などと言ってる姿が浮かびます。妄想ですが
*「Teske」はスラブ系ドイツ人の姓でもあるので(そちらのほうも珍しいけれど)、ドイツ系だと思われた可能性もありますね


この貞助スティーブンは、その後2つの世界大戦を生き延び、ごくふつうの市民として(=良くも悪くも、官報や新聞に載るようなことはせずに)生涯を終えたようです。亡くなったのは1950年。英国と日本が交戦状態になったとき、彼の胸を去来したのはどんな思いだったのでしょうか。

1909 Teiske Minami Stephen Collins marriage b.jpg

1909年、Islington の St Saviour Church でおこなわれた
結婚式におけるスティーヴンの署名(画像は加工してあります)。
Teiske Minami Stephen Collins とサインしている
出典:Church of England Parish Registers. London Metropolitan Archives, London.
Ancestry.com. London, England, Church of England Marriages and Banns, 1754-1932 [database on-line]. Provo, UT, USA: Ancestry.com Operations, Inc., 2010.


彼について特筆すべきことがあるとしたら、それは配偶者運の悪さです。少なくとも4回結婚していて、そのうち3回は死別でした――1902年結婚のアニーはわずか23歳、1909年再婚のエリザベス(上の婚姻証明書の女性)は46歳、1923年結婚のジョージーは63歳で逝去。4度目の結婚は1940年、彼が60歳のときでした。最後の妻エミリーがいつ亡くなったのか、また、彼に子どもがいたのかどうかはわかりません。ただ、イングランドの出生登録を検索した限りでは、「Teske Minami」の名前を受け継いだ男児は存在しないようです(日系の Minami ちゃんは何人かいますけどね)

【1902年 イライザの死と埋葬】
いよいよイライザの死について語るときが来ました。
逝去した日は、1902年7月9日。満53歳でした。
遺言検認索引に記された最期の住所は「5 Wandle-terrace Richmond-road Beddington Surrey」となっています。ベディントン――そう、父チャールズの最後のセンサスの住所と同じ町です。彼女は前年のナンヘッドではなく、かつて父の住んでいた家から徒歩10分ほどの場所で亡くなっていました。前述の通り、Electoral Registers にあった最後の住所はナンヘッドでしたから、彼女はベディントンに住所を移して1年以内に逝去したことになります(引っ越したわけではなく、たまたま訪問した先で頓死した可能性もある)



イライザの遺産額は£396 14s. 3d(396ポンド14シリング3ペンス)。労働者階級の「未亡人」にしては、決して少なくない金額です。遺産額がわかるのは、遺言検認索引に記載があったから。相続の執行人は兄のジェイムズでした。

*検認索引にはただ Administration とあるので、残念ながら遺言状があるわけではなく、兄が死亡を確認して相続手続きしたという意味合いのようです。10ポンド払えばここから閲覧できますので、関心のある方はどうぞ。

埋葬されたのは、1902年7月14日。父と同じベディントン・聖マリア教会の教会墓地に葬られました。

St Mary Church Beddington.jpg

Google StreetViewによる教会墓地の眺め
画像にある墓碑のどれかがイライザのものかもしれない


*Noboru Koyama の前掲論文によれば、墓石には以下のように刻まれているそうです。

'In Memory of Eliza Teiske Minami, who departed this life, July the 9th, 1902. The marriage in 1872 of the above Eliza Teiske Minami, an Englishwoman, with Teiske Minami, a Japanese, was the first known union between subjects of the two countries.'
[Noboru Koyama, ‘Three Meiji Marriages between Japanese Men and English Women’ − Hugh Cortazzi, Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol.4, 2003, p.393]


もし聖マリア教会でイライザの墓碑を見つけた方がいたら、ぜひご一報ください。



【 イライザの兄ジェイムズと、エドワードはどんな仕事をしていたか】
イライザの死亡届けを出した兄ジェイムズ。職業は、1862年の結婚当時が父と同じ Gardener、1891年は「General Labourer(雑役労働者)」、1901年には「Carman(荷馬車の御者)」、1911年は「firewood cutter(薪を切る人、薪屋)」。1911年には娘の Eliza Coleman の一家に同居していて(足が不自由との記載あり)、娘婿もその兄も全員同じ職業でした。イライザの遺言検認索引には「retired wood-dealer(引退した材木商)」となってますが、相当ふくらし粉をかけた表現です。
1898年に先立った妻とのあいだに少なくとも9人の子どもをもうけ、1915年、Wandsworth で亡くなりました。

すぐ上の兄、エドワードも同じく肉体労働者でした。1881/1891/1901年の職業は(港湾)労働者、1911年には Night Watchman(夜警)。同居している息子や娘たちの職業は、雑役労働者、荷馬車の御者、洗濯女、召使い。9人の子どもをもうけ、1911年当時7人生存。1914年に Richmond, Surrey で亡くなりました。
職業から判断する限り、最下層ランクの労働者階級です。この、ジェイムズとエドワードの子孫はいまもどこかにご存命かもしれません。

余計な話ですが、イライザの兄姉はおしなべて子沢山です。このことを貞助が知っていたのだとしたら、「彼女と結婚すれば自分も子沢山♪」と期待しちゃったかもしれませんね。

◆   ◆   ◆

【最後のミステリー 謎の家政婦ハリエット】
さて、イライザの父の面倒をみていた家政婦ハリエット。彼女はその後どうなったのでしょう?

上述のごとく、イライザの父チャールズは1892年におそらく Church Path, Beddington で亡くなっています。9年後の1901年国勢調査を見てみると、ハリエットはまだベディントンにいました。住所は 5 Richmond Road, Beddington ―― あら、どこかで見たような住所だな……そう、イライザの最終住所と似ています……

  イライザ(1902年) 5 Wandle-terrace Richmond-road Beddington Surrey
  ハリエット(1901年) 5 Richmond Road, Beddington, Surrey


Wandle Terrace を抜けば同じ住所でないの?

これは偶然とは思えません。実は、同じ場所ではなかったでしょうか?
*Wandle 川にちなんだ命名とおぼしき「Wandle Terrace」は、建物の名前(「うぐいす荘」みたいな)と考えればあり得る! と強引に解釈
つまり、イライザは、ハリエットと同じ家で亡くなった…… もっと想像をたくましくするなら、父と同じように、ハリエットに看取られながら亡くなった? なんて可能性はないでしょうか。

もう一度センサスの記録を思い起こしてみましょう。イライザの父チャールズは1871年以降、自分の家族と暮らすことはありませんでした。イライザは帰国後、姪と同居はしても、父を引き取ったりはしていません。なのになぜ、最後の最後に、父と同じ町、父の家政婦(イライザより4歳年上)の住まいと同じ住所で最期を迎えたのか。ハリエットが呼び寄せたのか、イライザが押しかけたのか、もしやふたりは友人か?

謎の家政婦、ハリエット・ヒル。彼女はピットマン一族にとってどんな役割を果たしたのか。それはミステリーとして残りました。
*別にイライザの兄ジェイムズにうらみはないけれど、わたしは、彼が「本来ハリエットもしくはマリアが受け取るはずだったイライザの遺産を、強引にもぎとったワルモノ」であったという可能性のことを考えてしまいます……はい、十割妄想ですが

●ハリエットとその身内たち
イライザの父だけでなく、イライザともなんらかの関係があったらしいハリエット。
1901年のセンサスでは彼女が世帯主となっていて、職業は洗濯ものの請負(自営の洗濯業)。同居人は60歳の義弟ジョン・ソーントン John Thornton(足が不自由 Cripple という記載あり) および幼児2名(里子、養い子)、合計4名の世帯でした。

この義弟ソーントンは、ハリエットの5歳年下の妹セアラ Sarah Hill の夫にあたります。さて、もういちど1881年センサスをよーく見てみると、ハリエットの名前のすぐ下にこのソーントン夫妻の名前が……! お隣に住んでいたのです、妹夫婦が。絶対に偶然ではありえない。

* ハリエットとこの妹セアラは、ヒル家の7人姉妹のなかでややイレギュラーな扱いを受けています。ひとりだけよそに奉公に出されたハリエット。そしてセアラは、1871年センサスでは、ひとり、隣村の伯父宅で家事手伝いをしているのです。彼女はその隣村で結婚相手を見つけました。それがジョン・ソーントンだったわけです。弟3人は故郷を出て Leicester、Oxfordshire、そして Surrey に移住しましたが、姉妹たちのうちで家を離れ、しかも遠い大都会ロンドンまで出ていったのは次女のハリエットと四女のセアラのみです。残りの姉妹は全員 Warwickshire にとどまり、そこで生涯を終えました。
なお、姉妹の母親も、寡婦になってからは娘たちとともに洗濯女をしていました(1881、1891年センサスによる)。


このソーントン夫妻、1891年にはどうしていたのでしょうか。またセンサスをチェックしてみると、ベディントンの西隣・ウォリントン Wallington に住んでいました。ハリエットにとっては、妹夫婦が近居してたわけです。そのときの義弟の職業は「Gardener」! これまた偶然とは思えません(それまではただの Labourer でしたから)。チャールズのコネ、もしくは影響から、園芸関係の仕事に就いたのではないでしょうか。そしてハリエットの妹セアラは子どものないまま1894年に亡くなったため、残されたソーントンは義姉にあたるハリエットと共同生活を送る状況になったのでしょう。親族(姻族)同士の相互扶助の典型例ですね。


ハリエットのことも国勢調査などでチェックしてみました。一部の家族の消息も含みます。

●ハリエットの動向
1845年1〜3月 George & Anne Hill を両親に、Priors Hardwick, Warwickshire で生まれる(7女3男の次女)
1845年5月 Priors Hadwick 教区教会で洗礼を受ける
1851 父 George(農場労働者)母、生まれたばかりの妹 Sarah を含む6人家族、Priors Hardwick 在
1850年代 一家は5マイル西の Fenny Compton, Warwickshire にうつる
1861 きょうだいでひとりだけ、実家を出ている(Staffordshire で女中奉公?)
1871 ロンドンの Brixton で、チャールズ・ピットマンと同じ家に下宿(職業記載なし)
1879 父逝去(65歳)
1881 ベディントンに移り住んだチャールズ・ピットマンの家政婦として、ふたりぐらし。隣家には妹セアラ(34歳)とその夫ソーントン(40歳、労働者)が居住
1891 同じ住所に、チャールズの家政婦として暮らす。末弟ジョージ(27歳)も同居。妹セアラとその夫ソーントン(職業 gardener)はウォリントンで近居
1891 7月、末弟ジョージ(職業 gardener)がウォリントンで結婚
1892 チャールズ・ピットマン、ベディントンで逝去(検認された遺言なし)
1894 妹セアラ逝去
1901 ベディントンで、亡妹の夫ソーントン(60歳、職業なし)、そして2人のロンドン生まれの里子と4人暮らし。仕事は洗濯物請負。末弟ジョージ(職業 Painter)一家も近居
1902 母逝去(84歳)
1902 7月、すぐ近所、もしくは同じ家で、チャールズの末子イライザが逝去
1911 ベディントンで義弟ソーントン(71歳、夜警)、里子のひとりと3人暮らし。仕事は洗濯物請負。末弟ジョージ(45歳、House Painter)が近居、子ども9人と妻の11人家族


少なくとも人生の30年以上、ピットマン家の誰かと関わりを持っていたこと、また、確認できた限りでは1881年頃から近くに身内が住んでいたことがわかりました。とくに、末弟ジョージの存在は、ハリエットのベディントンでの生活を大いに助けてくれたのではないでしょうか。
1924年にソーントン、1927年にハリエット(83歳)とおぼしき人の死亡届けが Croydon で出ています。1921年の国勢調査が今後公開されれば、彼女の最晩年の暮らしぶりがわかるでしょう。

◆   ◆   ◆


国際結婚第一号となった英国女性、イライザ・ピットマンの話はこれにて終了。
以前、エリザベス・サンダースについて調べたとき以来の、労働者階級の「相互扶助」が垣間見える探究となりました。
教訓:労働者階級の人を追うときは、きょうだい全員の動向を追え!


☆どなたか、『嵐が丘』になぞらえて、家政婦のハリエットがイライザの生涯を語る設定の小説を書きませんか〜〜?☆


【参考文献/資料入手先】
Ancestry.com
Famiry Search
Gene Reunited
Internet Archive
HathiTrust Digital Library
Google Books

手塚竜麿「南貞助と妻ライザ」〜『英学史研究(7)』1974. *ネット版
小山謄「明治前期国際結婚の研究:国籍事項を中心に」〜『近代日本研究』Vol.11, 1994. *ネット版
Noboru Koyama, ‘Three Meiji Marriages between Japanese Men and English Women’ − Hugh Cortazzi, Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol.4, 2003.
郎女迷々日録 幕末東西 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 上
  高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 中
  高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 下

ver0.8 2018/04/25; ver1.0 2018/04/29

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2018年04月25日

国際結婚第一号 南貞助の妻イライザの消息 1-前半生

最終更新 2018/06/30 ver.1.05


19世紀生まれの人物探究が大好きなくりほん研究室。今回と次回、2つに分けてお贈りするのは、とある英国女性の消息です。その女性とは、日本人の南貞助(みなみ・ていすけ 1847-1915)と結婚した、ライザ・ピットマン(1849-1902)なるひと。わが国における「国際結婚第一号」として知られるカップルの妻です。
このライザさん、結婚前はどこで何をしていて、離婚後はどうしていたのか。
両親の結婚からはじまり本人の埋葬に至るまで、国勢調査や登記簿、選挙人名簿の記録をたどり、今回初めて GoogleMyMap の機能を使って、彼女の移動を整理してみました。記事はいつものように長いです。
忍耐力のある人のみお付き合いください。

◆   ◆   ◆


今日はなんの日ーー?
3月14日のこと。わたしはたまたま、とある場所にいて、「今日はどんなことがあった日か」が話題になっているのを耳にしました。紹介されていたのは、「国際結婚の日」、すなわち1873年3月14日。その日、日本人男性と外国人女性の結婚が日本で初めて認められたといいます。実際に結婚が成立したのは前年の1872年、場所は日本ではなく、英国のロンドンだったとのこと。

1872年。しかもロンドン。その年号と場所を知ってがぜん関心が芽生えました。前年の1871年の国勢調査にふたりとも載っている可能性がありますから。ふたりの名前はなんでしょう?
ネット検索すると、すぐヒットしました。南貞助とライザ・ピットマン。

1871 Punch Vanity.jpg
Punch, 20 May 1871, p.208. より
こんな感じのカップルだったんでしょうか……?


国会図書館のデジタルコレクションに、明治14年(1881年)7月筆の南貞助略歴が入っているのを見つけました。
  二十四歳 サレ縣タレジ村「シ、ピットメン」氏第四女ト婚姻ス
とあります。サレ県って Surrey のことでしょうね。

国立公文書館のアジア歴史資料センターサイトを検索。なになに、長州出身の南貞助さんは、ガルトネル事件のことで箱館出張した人? ということは、函館外人墓地に眠るウィルキーさんとも会ったことがあるかもしれない! 強引な関連づけですけれど、わたしのなかでは貞助さんは函館関係者扱いとなりました。

さらに検索すると、後出の小山謄 Noboru Koyama 氏が英語でかなりの情報を書いてくださっているとわかりました。まず、女性の名前はライザではなくイライザ、もしくはエリザです。Eliza Pittman、1849年5月20日、Brixton, Surrey 生まれ。Dulwich 在住の Charles Pittman と Sarah の四女で、お母さんの旧姓は French、お父さんの職業は gardener(園丁、庭師)。James という兄がいるとのこと。
*Noboru Koyama, ‘Three Meiji Marriages between Japanese Men and English Women’ − Hugh Cortazzi, Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol.4, 2003, p.387

「サレ縣タレジ村」とは Dulwich, Surrey で確定ですね。
――ここまで情報があれば、サクサクと関係書類がヒットしそうです。

小山氏提供情報を一見してすぐわかるのは、彼女がレディの生まれではなかったことです。労働者階級なのは明らかで、結婚直前の国勢調査でどんな職業になっているのか、もしかすると召使いではなかったか、だとすると誰の召使いか、意外な人物が出てくるかも……などと期待が膨らみます。
以下、見ていきましょう。

【国際結婚第一号の女性は、なぜ「イライザ」なのに「ライザ」と紹介されているの?】

一番影響が大きいのはこの本ではないでしょうか。
小山謄『国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始』講談社 1995

小山謄(こやま のぼる)氏はこの本を上梓する前年、『近代日本研究』Vol.11, 1994 に発表した「明治前期国際結婚の研究:国籍事項を中心に」(DLはこちらから)でも「ライザ・ピットマン(Eliza Pittman)」と書いてます。ついでながらこの論文は本項の前提としてひじょうに重要なので、興味を感じた方はぜひ読んでみてください。

実は、「親亀」らしき論文が1974年に出ていました。わが敬愛する手塚竜麿氏の「南貞助と妻ライザ」〜『英学史研究(7)』1974 (DLはこちら)です。「ライザ」の名付け親は、手塚氏なのかもしれません。ただしこの論考に、名前の英語綴りは記載なし。
手塚論文には、ライザについて『略歴には「1856年ヨリ1871年マデ英国タレチ井ケンシングトン学校転習研究」』とあります。これも手がかりになりそうです。彼女は Dulwich から Kensington に引っ越したらしい。さて、それを裏付けるなにかが出てくるでしょうか。


【国教会の記録】
まずは国教会(イングランド聖公会 Church of England)の記録の紹介からはじめましょう。
イライザの属するピットマン一家は、国教徒(イングランド聖公会の信徒)でした。
両親は1833年6月1日、クラパム Clapham の聖三一教会 Holy Trinity Church で結婚しています。ここは奴隷制度廃止に大きな役割を果たした「クラパム・セクト」の面々が礼拝をささげた教会として有名。
現在、教会の結婚登記簿の記録が閲覧できますが、残念ながら当時のものは新郎新婦の両親の名前や年齢の記載がありません。ただし、ふたりが初婚だったこと、ちゃんと3回の結婚予告をして挙式したことはわかりました。当時はクラパムに住んでいたのですね。

Parish church of Clapham.JPG

両親が結婚した The Parish Church of Clapham
magnolia box サイトより


ふたりは、生まれた子どもたちに国教会の洗礼を受けさせました。
夫婦の名と、子どもたちの名前を以下に挙げてみます。

父 チャールズ・ピットマン Charles Pittman 1805/1809/1812-1892
母 セアラ・フレンチ Sarah née French c.1809-1875

 1.長男 チャールズ・ジョン Charles John | b.1834 | ★1834
 2.長女 スザンナ Susannah | b.1835 | ★1835
 3.次女 エマ Emma | b.1837 | ★1837
 4.次男 ウィリアム William | b.1840 | ★1840
 5.三男 ジェイムズ James | b.1842 | ▲1850
 6.三女 マリア Maria | b.1844 |▲1850
 7.四男 エドワード Edward | b.1846/47 | ▲1850
 8.四女 イライザ Eliza | b.1849 | ▲1850

わがイライザは第8子の四女。末っ子です。★と▲印のあとにあげた年号は、受洗年。
同じ両親の記録では、上にあげた以外の子どもは見つかりませんでした。

★印の受洗教会は St Matthew’s Church Brixton, Lambeth 以下「聖マタイ教会」
▲印は St Paul's Church, Herne Hill 以下「聖パウロ教会」
*例によって家系図を作ってありますが、今回は自粛してアップしません


聖マタイ教会の4名は、ひとりづつ洗礼を受けています。生まれてほどない時期の、幼児洗礼とみて間違いないでしょう。
いっぽう、聖パウロ教会の4人は、1850年4月29日に4人まとめて受洗しており(受洗簿画像あり)、年齢は7歳から11カ月まで。母親が40歳くらいで生まれた末子(予定)イライザの洗礼に合わせて、未受洗だった3人の兄姉も一気に片づけてみました、という展開です(こうすれば司祭への謝礼が1回で済むので、経済的に苦しかったことがうかがえる)
受洗簿をよく見ると、同じ日に同じ司祭から、近所の同業者の娘が洗礼を受けています。ピットマン家の集団洗礼は、同僚の子の幼児洗礼がきっかけだったのかもしれません。
教会に残る埋葬の記録については、後編で紹介します。


今回はイライザの足跡を追った総合地図も用意しました♪ →GoogleMyMaps


【国勢調査(センサス)の記録】
さて、イングランドのセンサスです。ある特定の日にそこに住んでいた人間の記録を書類に残すという大事業を開始し、10年おきに実施してその記録を保持し、1840年から1911年までの原本画像を公開(2018年現在)、さらに記載されている人がテキスト検索できるようになっている点、本当に英国という国をしみじみ尊敬してしまうのですが(この資料がなければ、こんな原稿を書くことは百パーセント不可能でした)、はたしてイライザの記録は残っているのでしょうか――? いままでのわたしの経験では、どう探しても出てこない人、あるいは同姓同名同年齢が多すぎて特定できない人もいます。

はい。結論からいいますと、日本にいた1881年のものをのぞき、イライザの記録はすべて発見できました。v(^-^)b
年代順に紹介してみましょう。

●1841年 6人家族
まずは、イライザが生まれる前の一家の記録から。1833年に結婚した夫婦にとって初のセンサス、1841年にはもう4人の子どもが生まれています。名前や世帯主の職業を手がかりにチェックしてみると……ありました! 構成員の名前が上のリストにぴったり一致します(ただし長男は Charles、長女は Susan と簡略化された記載)。父の職業は gardener、間違いありません。
住所はランベス Lambeth 教区、Brixton、現在の Regent Road のあたり(鉄道 Herne Hill 駅近く)でした。聖マタイ教会から1マイルほど。挙式したクラパムから引っ越していたんですね。

おもしろいことに、国勢調査の同じシートには世帯主が gardener の一家が何軒も記載されていました。近くの Brockwell Park のために雇われた園丁たちの社宅みたいな場所だったのかもしれません。

●1851年 イライザ初登場、9人家族
下のきょうだい4人が洗礼を受けた1年後、イライザ(2歳)が初めて記載されたセンサス。住まいは1本東側の通り、Herne Place に変わりました。
サリー州東地区の、ランベス・聖メアリ教会教区 Parish of St. Mary, Lambeth 内選挙人登録簿(Register of the Electors for the Eastern Division of the County of Surrey)において、1857年から1872年までチャールズ・ピットマンはこの住所(Herne Place, Herne Hill)で記載されています。



一家は両親+長男をのぞくきょうだい7名、合計9名で暮らしていました。長女の名前が Susannah と正確になりました。記載のない長男 Charles John(当時17歳)については、就職・結婚で家を出たのか、亡くなったのか、はっきりしたことはわかりません(教会の記録見当たらず)

なお、父親の職業はこのセンサスのみ「Nurseryman(園芸家)」となっています。同じシートに gardener が2名記載されているなかで、わざわざ別の名前になっているのは、仕事の質が少し違う(植物の育生をする、苗を売るプロ)ということを言いたかったのでしょう。
また、このセンサスで初めて父親チャールズが地元 Surrey ではなく、バース Bath, Somerset 生まれであることが明らかになりました。母セアラは Dulwich、子どもたちは全員 Brixton 生まれ。そして、注目すべきはセンサスの右端の欄――ここは障害の有無を書く場所なのですが、母親のところに「Deaf」という文字が!(この問題は後述)

●1861年 姪と甥が家族に加わる
10年後です。1860年の Directory には、父親の住所は Water Lane(現在の Dulwich Road)と記載されていますが、より詳細に記すと 1 Herne Place, Water Lane。10年前と同じです。ただし、一家の構成が変わりました。
両親、三女マリア(17歳、職業欄記載なし)、四男エドワード(16歳 Milk boy=牛乳配達人/牛乳屋の小僧)、イライザは12歳で職業欄には「School」とあります。学校に通わせてもらっていたんですね。そして、同世帯にファニー・イライザ Fanny Eliza Kendall(5歳)、ジョージ George Kendall(4歳)という「孫」の名が入っています。
調べてみたら、孫ふたりは長女スザンナの子ども(イライザにとっては姪甥)でした。1856年に結婚したスザンナは、この国勢調査が行われる少し前に亡くなっていたのです。

また、名前の見えなくなった姉兄についても調べてみたところ、次女エマは1859年、次男ウィリアムは1861年、三男ジェイムズは1862年にそれぞれ結婚しています。きちんと年齢順ですね。


1865_05_13_The Gardeners' Chronicle and Agricultural Gazette_415.jpg

父チャールズの名前が記された、苗の競売広告
当時は「園芸家」もしくは「植木屋」という日本語をあてるのがいいかもしれない
Herne Hill 鉄道駅(1863年開設)にほど近い 1 Herne Place に園芸店舗があった
The Gardeners' Chronicle and Agricultural Gazette, 13 May 1865, p.415 より


そして、母親の「Deaf」問題について。この国勢調査票にも同じ文言の記載があります。記載箇所は父親チャールズの行ですが、出生地が Dulwich とあるので、これはセアラの情報をうっかり1行上に書いてしまった調査員のミスと判断するのが妥当でしょう。
つまり、イライザの母親は、耳と口が不自由だったのでした。

●1871年 謎の動き! 両親の別居
さあ、イライザが南貞助と結婚する前年のセンサスです。どうやってふたりが知り合ったのか、手がかりはつかめるでしょうか?

22歳になったイライザは、67歳の母とふたりでテムズの北側に移り住んでいました。すでに兄姉は全員結婚しています。住所はウエストミンスター Westminster 地区の 4 St George's Row ――現在この通りはありません。当時の Directory から推察するに、Ebury Bridge の近く、Victoria 駅の線路の東側だったと思われます。暮らしの豊かな階層の住むエリアではなく、同じ番地に3世帯8名の名前があり、さらに店舗(後述)まであったことからすると、ぎゅうづめ生活、ひょっとして屋根裏部屋暮らしだったかもしれません。

母の出生地は Dulwich で変わりませんが、調査票の右側が折れていて、Deaf 表記のあるなしは確認できませんでした。

重要な情報ひとつ。イライザの職業欄です。そこにあった単語は「ミリナー milliner」――婦人帽を製造する人、もしくは販売する人のこと。お針子さんのお仲間ですね。あとで触れる、イライザの身内の女性がついた職業のうち、比較的上層に属するといえます(雑働きの召使いや洗濯女よりはマシという意味で)

1871 Census Eliza Pittman 280 b2.jpg

1871年のイングランド国勢調査より
母 Sarah Pittman の下に記載された Eliza Pittman(部分)
出典:Class: RG10; Piece: 113; Folio: 26; Page: 44; GSU roll: 838766
Census Returns of England and Wales, 1871. Kew, Surrey, England: The National Archives of the UK (TNA): Public Record Office (PRO), 1871

*ミリナーとは?  Needlewomen: Dressmakers, Milliners, and Slop-workers

それにしても、彼女はなぜこの住所に? お父さんはどこへ行った?
1つめの謎は、イライザのすぐ上の姉・マリアの動向を調べることで解けました。マリアはトマス・コリンズ Thomas Collins という商人と結婚していて [*]、この人が 4 St George's Row で果物屋を開いていたのです。彼はその店舗と同じ番地の部屋に義母と義妹を住まわせ、近くの 121 Lupus St(現在の地下鉄ピムリコ Pimlico 駅近く)に自宅と石炭店を構えていました。Lupus のほうを自宅にしていたことは、子どもたちの出生地としてこの通りの名前が記載されていることでわかります。

[*] Thomas Collins と Maria Pittman の婚姻は、イライザと貞助が日本に去ったあとの1874年に Kensinton で登録されています。しかし1871年にはすでに夫と妻として同居していました。Collins 姓の子どもたちが、全員マリアの生んだ子であるかどうかは不明です(前妻の子の可能性あり)。

そしてこのマリア夫婦の世帯、夫の妹(職業は女店員 Shop Woman)が間借りしていて、もう一人召使いがいますが、名前がファニー Fanny E Kendall、15歳……そう、前回のセンサスで同居していた姪っ子ではないですか。姪を召使いとして申告するとは、厳しい世界ですね。弟の George の行方はわかりません。

ともあれ、商人コリンズ氏は自分の家族+妹のほかに、妻の一族3人の面倒も見ていたことになります。この時点では、頼りになる男だったのでしょう。この、イライザのすぐ上の姉マリア・コリンズのことは覚えておいてください。あとで何度も登場しますので。

さて、父親チャールズはどこへ行ったのか。まだ亡くなってはいません。彼は前回のセンサスの住所から1マイルほど北上した 3 Hardess Street, Brixton にいました(GoogleMap)。年齢53歳(さば読み)、gardener、下宿屋の間借り人(賄いなし)としてひとり世帯。1つの番地に登録が12名という、これまたすし詰め環境でした。

なぜお父さん一人がテムズの南側に残ったのか? いわゆる単身赴任か、熟年離婚による別居か。想像を巡らせてみます。手がかりは、上で掲げた園芸品オークションの広告と、州選挙の登録人名簿です。1857年から1872年まで Herne Place の住所で登録があったことは前にも触れましたが、どうもチャールズ氏は5番地分も家を借りていたようです。この時点では、成功した園芸家だったのではないでしょうか。ところが、1873年の登録簿から彼の名前は消えてしまいます。世帯主ではなくなり、間借り生活となったからです(次に選挙の登録簿に見つかるのは1891年、死の間際)。
前掲の広告や国勢調査の結果と合わせて考えると、1871年初頭、なんらかの不運――仕事の失敗? 子どもの問題? 借金? 天災?――にみまわれ、家族解体に至った可能性が高いように思えます。
このことが、イライザに外国人との結婚を決心させた一因となった……と想像するのはいきすぎでしょうか。
それにしても、父親だけが単身テムズの南側に残った理由はよくわかりません。ピムリコでは高齢の園丁の仕事の口がないから、という理由だったのでしょうか。


●1871年の南貞助@ロンドン
ここでイライザから一旦離れて、南貞助の記録を探してみます。1871年のセンサスに記載されているかどうか…… ありました! Nagato(長門), Japan 生まれの23歳 Student(=大学など高等教育機関の学生)、表記は Teisuke ではなく「Teaske Minami」。ティースケ・ミナミですね。姓は「マイナーミ」と発音されちゃってたのかも。

1871 Census Teaske Minami b.jpg

1871年のイングランド国勢調査より
Teaske Minami と表記されている
出典:Class: RG10; Piece: 196; Folio: 62; Page: 29; GSU roll: 824589
Census Returns of England and Wales, 1871. Kew, Surrey, England: The National Archives of the UK (TNA): Public Record Office (PRO), 1871



*彼の名前は綴りの変種(誤植)が多数あるので、検索には注意が必要。誤植例として Teski / Yeiske / Manimi / Miname / Uinami など。

彼の住まいは現在の South Hampsted 駅のすぐ東、 45 Alexandra Road にありました(Google StreetView


召使いのいる中流階級の住むエリアで、下宿屋も多かったようです。貞助は賄い付きの下宿人でした。女主人は28歳のスティーヴンス夫人 Mrs Elizabeth Stevens、7歳の子持ち。下宿人2名のうちのひとりが貞助、もうひとりはインド・カルカッタ出身のトマス Thomas Brae 君。15歳の scholar(初等・中等教育機関の生徒)です。

この、トマス君と同じ家に間借りしたことが、国際結婚に踏み切る‘最後の一押し’になったのではありますまいか。大胆な推測をしてみます。貞助の「人種改良論」はけっして机上の理論ではなく、彼がロンドンで実際に混血の人びとを目にしたことに影響を受けていると考えられるからです。

同じ屋根の下に住むトマス少年も、クリスチャンのインド男性と白人女性とのハーフでした(もちろん国勢調査にハーフと記載があるわけではありません。インドに残る彼の受洗・結婚記録による推定です)。トマス少年は、顔立ちも性格も良い、理想的な混血少年だったのではないでしょうか。貞助君の「人種改良論」を後押ししてくれるような、美しい「見本」だったのではないかとわたしは想像しています。十割想像ですが。
この推理が正しければ、スティーヴンス夫人がおいていた下宿人は、2人ともアジア系の若い男性だったということになりますね。

さらに見つかった資料は、法学院の登録記録です。貞助の今回の渡英の目的は、法律修行でした。センサス実施の1871年4月2日からちょうど7カ月後に、リンカーンズ・イン Lincoln's Inn に登録されていました。

1896_The Records of the Honorable Society of Lincoln's Inn 350 b.jpg

1871年11月3日付の登録記録(画像は加工してあります)
名前は SHUNPOW TESKÉ MINAMI, of Tooky, Japan, Cizoku.
「Tooky」は「Tokyo」の誤植とわかるが、「Cizoku」は何のことか不明。
INDEX においては「SHUNPOW」が見出し(姓扱い)になっている
Lincoln's Inn, The Records of the Honorable Society of Lincoln's Inn. Vol.II. Admissions from A.D. 1800 to A.D. 1893, and Chapel Registers, 1896, p.350.


興味深いことに、同年11月11日には25歳の Goronoske Yoshiyama, of Nagato, Japan が登録されています。「Achigo Yoshiyama の息子」とあるので、日本で初めてバリスター(法廷弁護士)の資格を取った福原芳山(ふくばらよしやま 1847-1882)のことと見て間違いありません。貞助さんは彼より8日早く、すなわち日本人として初めて法学院に入学を許された人なんですね。ただし貞助は、弁護士資格を取得せずに終わっています。(資格を取らずに中退、また資格を取っても開業しない人というのも結構いました)

4月現在の貞助の下宿先から、この法学院(27 Newman's Row)までは4.5マイルほど。もし法学院入学当時も同じ住まいだったとしたら、当時のことですから往復3時間くらいは要したのでないでしょうか(いまなら地下鉄使用で片道40分弱)。

ミリナーだったイライザと、法学を学ぶ貞助がいかに知り合ったのか。この問題について、センサスからなにかを判断するのは困難です。地図を見るとわかる通り、ふたりの住まいは相当離れていて、ご近所さんというわけでもありません。イライザはピムリコの義兄の果物屋の店で売り子もしていて、そこに貞助君が果物を買いに来た? でも貞助がピムリコに出没する理由があったでしょうか? イライザが Oxford Circus あたりのお店に勤めていて、通学途中の貞助がその店に立ち寄った、という推理がいちばんそれらしいですが、まったく想像の域を出ません。

ここで1871年4月当時のイライザの状況をまとめておくと、

★22歳、婦人帽に関わる仕事をしている →働かないと生きていけない、労働者階級
★かつて学校に行っていた →読み書きはできる
★父親は園丁(庭師、園芸家、植木屋)で、耳の不自由な母親とは別居中 →父親の経済状況になにか激変があったらしい
★8人きょうだいの末っ子で、兄姉たち(うち少なくとも2名は死亡)は全員既婚者 →結婚してないのは自分だけ
★高齢の母親とふたりで、姉一家の近くに暮らす →頼れるのは父ではなく、義兄と姉

どうも、輝かしい未来が開けているような状況ではありません。
自分の生活を上向きにしてくれるような配偶者がほしい。ある程度のお金をもっているひとなら、条件は問わない。そんな心理にあったとみても見当外れではないでしょう。

1871-large-hats-fashion-Victorian-era.jpg
1871年の婦人帽
Clipartqueen.com / Victorian Ladies Dress Hats より
イライザはこんな帽子をつくってたのでしょうか


*当時のファッションを知りたいひとは、たとえば Ms Lynn Coleman のブログをどうぞ → 1872 Women's Fashions


【1872年の結婚記録】
さて、貞助とイライザの結婚の記録です。上記の小山氏提供情報と、登記簿の索引からわかることを記しますと、1872年(明治5年)9月20日、届けが出されたのはケンジントン Kensington。上で紹介した、貞助の住むエリアとも、イライザのそれとも違います。教会での記録は、いまのところ見つかっていません(教会婚を望むなら貞助も洗礼を受ける必要があるので、おそらく役所の登記だけでしょう)。上述した「英国タレチ井ケンシングトン学校転習研究」なる一節、そして届けがケンジントンで出されたことから、イライザは1871年4月以降、ケンジントンに住所を移していたものと思われます。

索引にある表記は以下の通り。
  MINAMI, Shunpou Teske
  PITTMAN, Eliza

貞助さん、リンカーンズ・インの登録簿にあった Shunpow が、今度は Shunpou に。「しゅんぽう」とはなんなんでしょうか、わたしにはわかりません(どなたか、ご存じの方はお知らせください)。
貞助=Teske という表記は今後スタンダードになります。

結婚の翌1873年、イライザは貞助に連れられて日本に向かいます。ともに暮らしていた母セアラはどこへ? マリア宅に引き取られたと考えるのが妥当なところでしょう。1875年の初頭、Sarah Pitman という67歳女性の死亡届けがウエストミンスター地区で出ています。これが母セアラの終焉と思われます。

1873_05_10 Japan Weekly Mail Mrs Munami.jpg

南夫妻の帰国を告げる新聞記事
1873年5月5日に香港から横浜に到着した Sunda 号の旅客名簿に
Mr and Mrs Munami [sic] の名前がある
Japan Weekly Mail, 10 May 1873, p.315. より


◆   ◆   ◆


【日本でのイライザ】
貞助は日本でイライザに英語学校の教師をさせたといいます。しかし、いままでの記録を見る限り、イライザが高い教養を身につける環境で育ったとは思えません。むろん、センサスの隙間を縫ってなにかの機会があった可能性はゼロではありませんけれども、結局英語学校がうまくいかなかった理由は、イライザの無教養、そもそもの実力不足にあったと見るのが自然なように思えます。

また、英国は階級社会ですから、喋り方や立ち居振る舞いで彼女の育ちが良くないことは同国人には一目でわかったはず(彼女が名女優だったなら話は別だけれど)。「レディ」ではない彼女は、当時の東京における狭い英国人社会で肩身の狭い思いをしたのではないか。もっといえば、アジアの二流国・日本の男と結婚したものずきな女として、好奇あるいは軽蔑の目で見られたのかも。そのことからくるフラストレーション、そして貞助が思ったほどの「金持ち」「高官」ではなかった、それゆえ期待したほどの玉の輿生活ができなかったという不満がねじり合わさり、家庭内暴力というかたちで噴出したとも考えられます。

イライザの家庭内暴力に堪えかねた貞助は、子どもができなかったこともあり、ついに離婚を選択しました。
イライザの帰国は1883年。従って1881年のセンサスに彼女は登場せず、次は1891年となります。

以下次号(参考文献は次号にまとめて掲載します) 

【後半生編で扱う話題】
ロンドンにいた2人目の南貞助とは誰?
貞助君につづいてイライザも「函館関係者」と認定された理由
イライザの父を支えた女性とは?
イライザの死亡地にまつわるミステリー
彼女の遺した遺産はいくら?
兄姉姪甥などの消息

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2018年04月12日

埼玉の幼児教育の母・アプタン先生の名前の由来

最終更新 2018/06/06 Ver.1.8

今回の話題は、わたくしの暮らす埼玉県に16もの幼稚園を設立し、入間郡毛呂山町と大宮市(現さいたま市)の名誉町民/市民になった郷土の偉人、ミス・アプタンのこと。1880年8月24日アメリカのメイン州に生まれ、米国聖公会の女性宣教師として1907年11月に初来日、1966年7月2日に毛呂山町で亡くなりました。
彼女の正式名(親からもらった名前)は何か。また、家系や本人のルックスなども明らかにします。典拠は主にアメリカの文献によります。
幼稚園や教会での働きは本項のテーマではありませんので、ご了承ください。

◆   ◆   ◆


彼女の名前を調べようと思ったきっかけは、ミドルネーム表記の食い違いでした。
エリザベス・フローラ(Flora)・アプタンと、エリザベス・フローレンス(Florence)・アプタン。この2種類の表記のうち、どちらが正解なのか。(Elizabeth は聖公会では「エリザベツ」という表記になりますが、今回はその問題には触れません)

【ミドルネームについて】
結論からいうと、フローラでも、フローレンスでもありませんでした。
彼女のミドルネームは Fenno(フェノー)
エリザベス・フェノー・アプタン Elizabeth Fenno Upton が正確なフルネームです。

1910_Upton, Elizabeth Fenno Vassar college b.jpg

大学の校友誌に掲載されたミス・アプタンの経歴と、1910年の消息。
パリのソルボンヌ大、ドイツのベルリン大でも学んでいる。
現住所は埼玉県の川越
The Fourth General Catalogue of the Officers and Graduates of Vassar College, Poughkeepsie, New York. 1861-1910, 1910, p.223.


1920_Upton, Elizabeth Fenno Vassar college b.jpg

1920年の消息。現住所は大宮
The Fifth General Catalogue of the Officers and Alumnae of Vassar College, May 1920, p.98.


1920 Elizabeth Fenno Upton signature.jpg

1920年の旅券申請書に記された本人の署名(画像は加工してあります)
National Archives and Records Administration (NARA); Washington D.C.; Volume #: Volume 005: Japan



それにしても「Fenno」というのは、女性名としては見慣れない名前です。Flora もしくは Florence の書き間違いと解釈されてしまったとしても無理はない。
これは「名前」ではないでしょう。ミス・アプタン――以下、彼女のことはこの表記にします――の母親の実家の「姓」ではありますまいか。ミドルネームに母方の実家姓を使うというのは、英米では実によくある慣習です。最初わたしはそう推理しました。それを確認するため作ったのが、以下の家系図です。

family tree of Elizabeth Fenno Upton c.jpg

【家系図1】Family Tree of Miss Elizabeth F. Upton (1880-1966)
クリックすると拡大します


先祖の名前を整理してみてわかったのは、

○ミス・アプタンの母親の名は Elizabeth Fenno Perry、その母親は Elizabeth Fenno Curtis、つまり「Elizabeth Fenno」は3代続いた名前である
○Fenno は、ミス・アプタンの母方の曾祖母の実家の姓(family name)である

ということでした。

そして、家系図を調べていて感嘆したのは、ミス・アプタンはアメリカでも屈指の古い家柄の出身ということです。父方のアプタン家も、母方のペリー家も、17世紀後半に英国からニューイングランドに渡ってきた旧家でした(家系図に記載したのはその一部に過ぎませんが、聖書由来の名付けが多いことにご注目)。まさにピューリタンの末裔、典型的なWASPといっていいでしょう。なお、旧家の慣習に、一族の名前を繰り返し子どもにつける、というものがあります。ミス・アプタンの父の名、そして祖父の名などもそのまま息子や孫に受け継がれています。

*ミス・アプタンの曾祖母が作った刺繍作品 Rare Needlework Sampler, Phebe Wood, Danvers, Massachusetts, dated 1796 Sotheby's サイトより


【ミス・アプタンとペリー提督の関係は?】
母方はペリー Perry という一族なので、あの黒船のペリー提督の親戚と書かれることがありますが(出典は後出の森清一司祭か?)、これは事実ではないようです。黒船ペリー家も、ミス・アプタンのペリー家も、どちらも家系本(一族のルーツを辿り、そのメンバーの情報を整理して記した本。19〜20世紀の転換期によく自費出版された)が出版されており、今はネットで自由に読むことができます。それによると前者は Devonshire、後者は Wales の出身で、共通する人物は出てきません。名付けのパターンも違います。ペリー提督とミス・アプタンは無関係とみたほうがいいでしょう。親戚だったらおもしろかったんですけどね。同じ聖公会だし。

追記:ペリー提督の親族[*]に James De Wolf Perry (1871-1947) という米国聖公会の主教がいました(家系本にあるお写真)。ミス・アプタンの9歳年上で、1911〜46年にロードアイランドの主教、1930〜37年には総裁主教となっています。つまり、かなりの大物! 加えて、1933年には日本を訪問し昭和天皇にも謁見していますが、森清一本には一切言及がありません。もし同じ一族だったなら、なにか言及があってよさそうなものですが……
[*] より詳しくは、ペリー提督の兄レイモンドの曾孫。あるいは、主教の祖父の叔父がペリー提督という表現もできる。


【父と継母、高学歴家族】
ミス・アプタンの父親フランシス・ロビンス・アプタン(アプトン/アプトゥン)Francis Robbins Upton (1852-1921) は、あのトマス・エジソンの片腕だった物理学者・数学者、電気技師、企業経営者。プリンストン大学、ボードイン大学、そしてドイツでも学び、ピアノを弾きこなす教養豊かな彼は、エジソンから「カルチャー Culture」の愛称で呼ばれ、全幅の信頼を置かれるようになります。アプタンの家は、個人宅としては州ではじめて「電灯がついた家」となりました。エジソンの成功は、アプタンにも経済的な成功をもたらします。
ミス・アプタンが「自給」(ミッションから給与を支給されない)宣教師として来日して、英米で「幼児教育の諸問題について研修」し、「私財を投じて」埼玉に幼稚園を設立できたのも、この父を通じて得た財産のおかげでしょう。埼玉県の幼児教育の進展に、エジソンの発明が関係していたわけです。


*Wilipedia 英語版 Francis Robbins Upton
*ボードイン大学物故卒業生録には、子どもたちの名前も掲載されている
Obituary Record of the Graduates of Bowdoin College, 1922. / Class of 1875: Francis Robbins Upton (p.58)


この父の最初の結婚で生まれた長女がミス・アプタンでした。ところが、同じ名前をもつ母は3番目の子どもを生んでほどなく、28歳で亡くなってしまいます。そのとき、ミス・アプタンはわずか4歳でした。父が再婚したのは彼女がもうじき8歳になろうというとき。ということは、幼少期の3年間を母親不在のまま成長したわけで、その体験が、彼女を幼児教育に向かわせたのかもしれません。

*余談ながら、長女も長男も名付けは母方の一族に由来しています。父方由来の命名になったのは3番目の子どもから。ミス・アプタンの父は、奥さんを熱愛していたものと思われます。

【ミス・アプタンの幼少期】
森清一司祭による伝記『みどりの舟 アプタン先生の愛仕の生涯』(以下、森清一本と記す)によると、母を亡くしたミス・アプタンたちきょうだいは、母方の祖母の家に引き取られて養育されたそうです。ミス・アプタンの祖母エリザベスは1880年当時、Brunswick で次男カーティスを筆頭にした独身の息子4人、そして3人の召使いと暮らしていました。森清一本によると、ミス・アプタンの母が死亡した年(1885)に家を売り払い、Braintree に引っ越しました。当時の Directory によれば、Elm on Hill, Braintree, Norfolk, Massachusetts がその住所。ここで小さなアプタン3きょうだいは、祖母と、独身のおじたちに囲まれて育ったわけです(うちひとりの叔父は1887年に逝去)。

森清一本には「伯父にも四人の子供がいた」とありますが、この時点で結婚して子どもがいたペリー家の「おじ」は、祖母の長男 ウィリアムのみ。下の【家系図2】を見ていただくとわかる通り、彼にはアプタン姉弟とちょうど同じ年頃の子どもがいました。一緒に遊ぶにはもってこいですが、彼ら一家が暮らしていたのは50マイルほど離れた Worcester。もともとはウィリアムの妻の祖父の家で、結婚当初は義母や義姉夫妻らとも同居していました。義祖父の死後は家を譲り受けたらしく、その後も義母、義姉らと同じ住所&世帯で暮らしました。こういう状況なので、長男ながらペリー家の実母とは同居できなかったと思われます。

family tree of Perrys.jpg

【家系図2】 Perry Family
クリックすると拡大します

Miss Elizabeth F Upton 1890s.jpg

ハイスクール時代のミス・アプタン
(『みどりの舟』口絵より 画像を加工しました)


2度目の母になったマーガレット・ストームは、ヴァッサー・カレッジ Vassar Collegeに学んだ才媛でした校友誌の結婚告知。ミス・アプタンが継母と同じヴァッサーに進学し、さらにフランスやドイツに留学したのは、高学歴両親の存在あってこそでしょう。異母妹ふたりも、フランスとスイスに留学し、帰国後もカレッジで学んでいます(余談ながら――というか、このブログは全体が余談のかたまりですが――高学歴すぎたせいなのか、それとも財産に恵まれすぎたせいなのか、アプタン家の3姉妹は3人とも生涯独身でした)

【ミス・アプタンの受洗】
アプタン家はもともとユニテリアンでしたが、継母マーガレットが聖公会の信徒だったため、ミス・アプタンも聖公会の礼拝に出席するようになったと森清一本にあります。
受洗は1900年(復活主日の4月15日?)、教会は 112 William St, City of Orange, New Jersey にあったグレース教会 Grace Episcopal Church(1905年の写真はこちら)でした。洗礼をほどこしたのは、2代目牧師のアントニー・スカイラー師(Rev. Anthony Schuyler 在任1868-1900)で、この方は同じ年の11月、84歳で亡くなっています(お墓はこちら)。All One Hundred Years of Grace : a History of Grace Episcopal Church, Orange, New Jersey, 1854-1954 という本によると、ミス・アプタンは Chancel Guild の一員として奉仕したとのこと。グレース教会は現存せず、別住所にある Church of the Epiphany and Christ Church がその流れを汲んでいます。


† 現在閲覧できる在留届けによると、妹たちのスイス留学は1907年8月から2年ほど(ミス・アプタンの初来日の時期と重なります)。別の資料によれば、上の妹 Lucy Upton が学んだ大学は Columbia University 1914、及び Barnard College 1916。下の妹は Smith College 1909、Brown University Womens College 1910。ただし、ふたりとも生涯職業には就かなかったとのこと。

Upton brothers 1907-1916.jpg

ミス・アプタンの弟妹たち
(カレッジの卒業記念アルバムより、画像を一部加工)
弟ふたりはプリンストン卒、写真が見つかったのはボードインでも学んだ下の弟のみ。
妹たちの撮影時期に7年の隔たりがあり、ヘアスタイル流行の変遷がわかる

名門ヴァッサーに学んだことは、有力な卒業生ネットワークの恩恵を受けることになり、ミス・アプタンと埼玉県との縁を作りました。ヴァッサーの先輩ミス・ヘイウッド/ヘーウッド Caroline Gertrude Heywood (1877-1961) が聖公会の宣教師として川越に派遣されていたからです。東京の立教女学院に転任となった先輩のあとを受けて、ミス・アプタンは川越初雁幼稚園の園長となりました。

*ヴァッサーにおいてミス・ヘイウッドは1899年、ミス・アプタンは1903年の卒業生。森清一本によると、1900年の大学の集会で、ミス・ヘイウッドを初めて知ったとのこと。ちなみに、大山伯爵夫人こと山川捨松は1882年、『あしながおじさん』のジーン・ウエブスター Jean Webster は1901年の卒業生でした。『あしながおじさん』を読むと、ミス・アプタンの大学生活の雰囲気が感じ取れるかもしれません。

ミス・アプタンは、日本に1907年11月〜1912年5月まで滞在したあと、アメリカ経由で英国に渡り、1914年の秋から(ミス・ヘイウッドが学んだのと同じ)聖公会の神学校 St Faith's Deaconess Training School, New York (New York Training School for Deaconesses [NYTSD] で1年間学びました。


*大学新聞掲載記事(1924年) MISS UPTON TELLS OF WORK IN JAPAN, Vassar Miscellany News, Volume IX, Number 22, 17 December 1924.
帰国時に、日本での17年の体験を語ったもの。ヴァッサーの学友たちが献金してくれたこともわかる


*ニューヨークの神学校で学んだあとのミス・アプタンの足取りを、パスポートと船客名簿の記録で追ってみると、
  日本:1915年10月〜1916年3月〔大宮初の幼稚園を開設〕
  英国:1916年3月〜1917年10月
  日本:1917年12月〜1920年6月〔大宮に住む〕
  英国:1920年8月〜1921年4月
  日本:1921年10月〜1924年9月
  ベルギー→アメリカ:1929年10月
  フランス→アメリカ:1931年9月
  日本→アメリカ:1941年4月17日

第一次大戦中のさなかに日本・アメリカ・英国を船で行ったり来たりしていた行動力(と財力)は特筆ものですね。1939年9月に読売新聞の取材を受けたとき、「ロンドンでツェッペリンの空襲を受けた経験がある」と語っています。また1941年の日米開戦前に帰国せざるを得なくなったとき、「35年のうち一度国に帰っただけ」とも語っていますが(読売新聞1941.04.18)、これは大袈裟な表現だったようです(帰国はしたが、自宅には帰還していないという意味か?)


◆   ◆   ◆

【瞳は灰色】
さて、ミス・アプタンについて「クリ色の髪で青い目の美しいアメリカ女性」という形容を見つけました(読売新聞埼玉版1977.11.18)。しかし、目の色は青ではなく灰色だったことが旅券の人相書きに記されています。

【ミス・アプタン 人相書きの変遷】
年齢  | 25歳     | 31歳      | 39歳
身長  | 169cm     | 168cm      | 〃 
額   | 高い     | 中くらい     | 〃
瞳   | グレイ(灰色)| 〃       | 〃
鼻   | ふつう    | まっすぐ    | 〃
口   | 中くらい   | 〃       | 〃
顎   | 丸い     | 〃       | 〃
髪   | ブロンド   | ブラウン(茶色)| 〃
肌色  | 白      | 〃       | 中くらい
顔   | 卵形     | 〃       | 〃


25歳と27歳の書類にはブロンド(金髪)で 5 feet 6 1/2 inches と書いていたのに、31歳からは髪の色はブラウンで 5 feet 6 inches(少し縮んだ)、39歳になると肌の色が fair から medium(darkとfairの中間)に。この変化、ちょっとおもしろいですね。

ついでながら、身長・瞳・髪色の順に、お父さんは 5 feet 10 inches(178cm)でブルー/ブラウン。お母さんは 5 feet 3 1/2 inches(161cm)でブルー/ライト(金髪〜明るいブラウン)。上の弟は 5 feet 11 inches(180cm)、ブルー/?。下の弟は身長不明(tall)、ブルー/ブラウン。つまり彼女以外の家族は青い目だったと記録は告げています。
2度目の母は 5 feet 6 inches(168cm)のヘイゼル/ブラウン、異母妹ふたりは 5 feet 7 inches(170cm)、ブルー/ブラウン、ブラウン/ブラウンでした(いずれも旅券申請書及び徴兵登録記録による)

名前表記MEMO
●ミドルネーム「フローラ」採用記事
東京朝日新聞埼玉版 1966.07.03 エリザベッツ・フロラ・アプタン 
毎日新聞夕刊 1966.07.02 エリザベツ・フローラー・アプタン女史 
さいたま市大宮区 聖愛幼稚園 ミス・フローラ・アプタン女史
さいたま市中央区 与野愛仕幼稚園 エリザベス・フローラ・アプタン先生
さいたま市名誉市民 エリザベツ・フローラ・アプタン

●ミドルネーム「Florence フローレンス」採用文献
日本聖公会教役者名簿外人男子女子名簿 Miss Upton, Elizabeth Florence 川越初雁幼/大宮愛仕幼/愛仕母学校/毛呂山聖霊
日本聖公会歴史編集委員会編『あかしびとたち――日本聖公会人物史』日本聖公会出版事業部 1974, p.272. (執筆は森清一)Elizabeth Florence Upton 女史/ミス・エリザベツ・フローレンス・アプタン 
矢口徹也「第8章 女子補導団活動の実際−地方における展開」〜『女子補導団――日本のガールスカウト前史』 E.F.アプタン(Miss. Upton, Elizabeth Florence 1880−1966年)
デジタル版 日本人名大辞典+Plus アプタン Upton, Elizabeth Florence

●ミドルネーム「フェンノ」採用文献
森清一『みどりの舟――アプタン先生の愛仕の生涯』毎日新聞社 1977, p.33. エリザベツ・フェンノ・アプタン



【参考文献/資料入手先】
Ancestry.com
Internet Archive
HathiTrust Digital Library
John Adams Vinton, The Upton Memorial : A Genealogical Record of the Descendants of John Upton, of North Reading, Mass, 1874 *アプトン家家系本。Francis Robbins
William Richard Cutter, Genealogical and Personal Memoirs relating to the Families of Boston and Eastern Massachusetts, 1908 *Elijah Wood Upton
Rev. Calbraith Bourn Perry, The Perrys of Rhode Island, and Tales of Silver Creek; the Bosworth-Bourn-Perry Homestead, 1909 *黒船ペリーの家系本
“Thomas Edison was old family friend,” News and Observer, Raleigh, North Carolina, 09 Nov 1958, p.50. *末妹エリノアのインタビュー記事
ニール・ボールドウィン『エジソン――20世紀を発明した男』椿正晴 訳 三田出版会 1997

森清一『みどりの舟――アプタン先生の愛仕の生涯』毎日新聞社 1977 *本項の9割を書いてから、わたしはこの本を読んだのですが、ミドルネームはちゃんと Fenno を日本語表記したもの(フェンノ)になっていました。森司祭は、1974年刊行の『あかしびとたち』に書いた Florence というミドルネームの間違いに気づき、こちらの本で修正したものと考えられます。とはいえ、せっかくの修正が、現在まったく無視されていることの事情は不明です。

ver1.0 2018/04/12
posted by やぎたに at 22:20 | Comment(0) | 宣教師 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする